騎獣(1)
「おはよう」
朝陽でぱっちりと目が覚めて体を起こし伸びをすると、隅のテーブルで本を読んでいたレノと目が合ったので挨拶をしておく。
昨日は久しぶりにあの子との夢を見た。
ラズの叔母……リンドウの家近くの街を旅立ってすでに二ヶ月が経っている。
この辺りは、森の国、平原の国と呼ばれる二つの大国の国境だ。
街を出る直前に、『まず最初に言っておきますが』と前置きして、結構衝撃的なことをさらっと言われたたことが思い出される。
『普通に歩いて行くと荒野までは一年半かかります』
『一年、半……!?』
『森を抜けた先は大平原に、それから砂漠を越えないといけないんだよね。馬で半年以上?』
『ええ』
レノによると、平原の国ではより早い交通手段が手に入るあてがあり、それを使えば荒野まではさらに二ヶ月らしい。
という訳で、最初に移動した街で馬を買った。これはそれなりに高価な買い物であり、リンドウは今後の路銀を心配して、道々で薬草を採集しては調薬のために夜更かししていた。実のところ、野宿が多くて薬を売る機会はほとんど訪れなかったのだが。
森の国は、その名の通り国土のほとんどは森林で覆われている。平野を切り開いて作られた街同士の距離は、首都付近であれば朝出れば夕方隣の街につくくらい。ただし、大山脈の麓から平原の国、その向こうにある荒野を目指すルートには人里はまばらで、あってもほとんど農村ばかり。しかも、なぜか二人とも遠回りになることを言い訳に街に寄ることを避けたのだ。
とはいえさすがに国境付近まで来ると、交易ルートであるのでどこも比較的人が多く、街を避けることが逆に難しい。
宿を取るなら二部屋か一部屋かで議論があったものの、一に路銀の問題、二に宿に空き部屋がない問題、三に野宿もしている以上分けるのも今更ということで、一部屋で決着が着いた。
「おはようございます」
レノが本を閉じて挨拶を返してくれる。
この人が熟睡しているのを、まだ見たことがない。野宿でも宿でも、横にならず座ったまま静かに目を瞑るだけ。声をかければ必ず反応がある。
一度訊いてみたら、よっぽど疲れたとき以外は眠たくならないそうだ。そう言ったあとで、まぁ一日三時間くらいは寝ていますよ、と付け加えていた。なにやら人間離れしている。
リンドウは、旅をするようになって朝が遅くなった。
以前は畑の世話のために夜明けと共に起きていたそうだが、昼間は移動のため、研究や調剤を夜にやるしかなく、夜更かしが増えているのだとか。
「なんだか、嬉しそうですね」
「分かる? ……良い夢だったんだ」
「へえ、どんな?」
「友達と、変な馬に乗る夢」
「変な馬?」
「えっとね……」
説明しようとしたところで、リンドウがむくりと体を起こした。
「……おはよー」
髪がボサボサだ。
とろんとした目でこちらを見て、ぱたん、とまた横になった。
「「……」」
ラズはレノと顔を見合わせた。昨晩幸せそうに何か実験していたが、一体何時までやっていたのか……。
「……今日はゆっくりしましょうか。ラズ、ちょっと周辺を見に行きませんか?」
「う、うん!」
熟睡したままのリンドウの枕元に夕方戻る、と書き置きをして、レノと二人だけで宿を出た。
街では、国王が巨人の討伐隊を出すらしい、という噂が街で飛び交っていた。
二ヶ月前の事件以降も、大きくはないが、いくつかの街で巨人の襲撃があったらしい。巨人を退治してほしい、という声が多く聞かれた。
森の国に残ったラズの兄……ツェルはとても強いから、きっと無事で、討伐隊にも加わっているかもしれない。
ラズには巨人への復讐という生き方はできそうになかったが、例えば復讐は無益だなどと、ツェルに言える訳がなかった。
さらに、あの襲撃のきっかけがラズ自身にあることも、ツェルに憎まれるのが怖くて結局、伝えられていない。
情勢は気になるものの、ラズはその話をどう受け止め、何をしたらいいのか、ずっと分からないでいる。
街の周辺は、今朝の夢と同じ、膝丈の草原だった。
山脈の近くと違い、風が温かい。
次の街までは、小さな宿場町を三つ挟んで四日の距離がある。
「この草原に、馬の怪物がいるんです。<月喰みの巨怪>とか、<竜鱗馬>とか呼ばれることもありますが」
レノはすたすたと草原を歩いて行く。
「単に怪馬と言うのが一般的ですかね。で、ここから先は、それに乗って行くのが一番早い。馬と違って、休憩がいりませんから」
「へえー! それってどんな見た目なの?」
「大きさは馬の二倍で、足が六本あります」
そう聞いて、今朝の夢で見た馬のような生き物が脳裏に浮かんだ。
「小人ももしかしてそれに乗る?」
「なぜそれを? ……ええ、小人や竜人は騎獣として使います。……ああ、なるほど。今朝、夢で変な馬に乗ったと言っていましたね」
合点がいったようにレノが答えた。草原からは視線を離さない。
「ただ問題は、人間は彼らを単なる怪物だと思っているので、ここからは余計に街に立ち寄り辛くなることです」
「でも、でっかいサイとか騎獣にしてる商人とかいるじゃん」
「平原の国は森の国ほど騎獣のバリエーションがないので、ものすごく目立ちますよ。嫌だと言えばそれまでですが」
ラズからしてみれば、野営は苦ではないし、早く荒野に着くに越したことはない。
「でも、また野宿続きって、リン姉、大丈夫かな」
「山育ちとは言え、女性ですからね」
「野宿も最初は嫌そうだったもんね……」
リンドウはどこまでラズの旅に付き合ってくれるのだろう。どこまで巨人が侵攻してくるかは分からないが、彼女が森の国に留まると言い出す可能性は十分あり得るように思えた。
──寂しい、と言えばついてきてくれるのだろうか。……いや、そんなことで迷惑をかけることはできるだけしたくない。
「リン姉は、なんで森の奥なんかで一人暮らししてたんだろ」
ぽつりと呟いた疑問に、レノは怪馬を探す素振りをしつつ腕を組んだ。
「直接訊いてみればいいんじゃないですか? 少なくとも、それを不幸なこととは思っていなかったでしょうから」
「レノって、リン姉のことよく理解してるね」
レノとリンドウの仲は悪くないが、彼の方が必要以上に関わらないようにしているようにラズには見えていた。だからちょっとだけ意外に思う。
「少し、似た部分があるからでしょうね。ああ、でも、邪推しないでくださいよ?」
「……何を、どう?」
きょとんとして問い返したラズを見て、レノは可笑しそうに笑った。
† † †
「やってしまった……」
リンドウが目を覚ましたのは陽がかなり高くなってからだった。
──寝ぼけてとてもみっともないところを見せてしまった……。
未だにボーッとする頭を振って、旅の仲間の姿を探す。書き置きを見つけて、リンドウは息を吐いた。
携帯食を取り出して口に放り込みながら、椅子に深く腰掛ける。
商人たちが馬車に荷造りをしているのが窓から見えた。
昨日、食堂で、これから平原の国に向かうと言っていた一行だ。
眺めていると、商人の十代半ばか後半くらいの若い女性が体調が悪そうにしゃがみ込んだ。
亭主と思しき男性が、「どうした?」と声をかけている。
女性の顔は青白い。小さな声で何事かやり取りした後、フラフラしながら一人宿の戸口に向かってくる。
職業柄、そこまで見ると気になってしまう。
リンドウは薬の鞄を持って、階下の女性のところに向かった。
食堂の長椅子に腰を落とし、具合悪そうにしている。
「大丈夫ですか?」
「あ、昨日の……」
生気のない彼女と目線を合わせて、落ち着いて名乗る。
「私は薬師です。何か力になれるかもしれませんし、体のことを聞かせてくれます?」
彼女は少しためらったようだったが、口を開いた。曰く、
「めまいがして。立っているのが、辛いんです……」
リンドウは「お辛いですね」、と合槌をうつ。
めまい……貧血だろうか? であれば、簡単に見分ける方法がある。
「すみませんが、目を少し失礼します」
手を消毒して、軽く下瞼を押さえ、色を確認すると白っぽい。やはり。
「貧血でいらっしゃいますね」
「これがそうなんですか……」
「初めてですか?」
「はい」
受け答えしながら、鞄のなかを探る。
貧血ならば、多めに作っていた薬の中に渡せるものがあるはず。
しかし、女性がおずおずとした小さな声に手を止める。
「実は、月のものがなくて……」
「──あら」
リンドウは目を丸くして少し微笑んだ。
彼女の様子には、恥じらいの中にどこか期待しているようなものを感じる。ということは、妊娠を疑ってるのかもしれない。本当ならばめでたい話だ。
「……少し、失礼」
錬金術を応用すれば服の上からでも体内の診察ができる。これができる術師は國でも指折りなので、出奔したときは惜しまれたものだ。
結果はすぐに分かったが、これを伝えると錬金術師であることも明かさないといけない。とはいえ、山脈近くでは珍しくない錬金術師も、国境まで来ると医者並みに珍しい。特異な目で見られることは間違いないだろう。錬金術師であることを伏せた方がいい理由はほかにもある。
結局、適当にごまかすことにした。
「……まだなんとも言えませんが、もしそうなら、この薬では期間が足りませんので、緑の濃い野菜を今後も意識して召し上がってください」
薬と水を手渡し、横になるよう促す。
できることはやった。そう思って、小さく息をつく。
リンドウは人付き合いができないわけではないが、億劫に感じるたちだ。
薬の調合が好きで、没頭したくて、森の奥のもともと木こりのものだった小屋に移り住んだ。もう十年以上前の話である。
國を出たのは別の理由だが、リンドウにしか作れない薬を求めて人が訪ねてくるようになって、静かな暮らしを楽しむようになっていた。
時々、妹夫婦が甥たちを連れて遊びにくるのも、ささやかな楽しみだった。兄のツェルは外見は父親似、性格は母親似。一方弟のラズは外見は母親似であるが、性格は誰に似たのか好奇心旺盛かつ自由奔放で、リンドウの小屋に遊びに来ては危険な薬品をひっくり返したり、虫を追いかけて迷子になったりしていた。妹が「いつの間にリン姉に似ちゃったの」と頬を膨らましていたがこっちの台詞だ。
いつも厄介ごとを引き起こす甥だが、そこが可愛いとも思っていた。
それが、まさか、あんなことになるなんて。
まだ十歳。表情を紙のように白くして震えている小さな肩に、もう寄る辺がないなんて現実味がなかった。リンドウはもう帰りたいと思わないが、あの子にはまだ、帰る場所があるべきで、そうあって欲しかった。レノという旅人がどこまで面倒を見るつもりなのか分からないが、リンドウは自分がラズについていてあげないといけないと思っている。
さすがに、小人の郷までは行くのは無理があるので、どこかでラズにうまく言って止めてあげないといけない。でも、どこで? 森の国で留まる方がいいのか、あるいは、平原の国まで逃げるべきなのか? リンドウは正直なところ迷っていた。
長椅子に横になったまま、女性が訊ねてきた。
「……あなたも、平原の国に向かってらっしゃるんでしたっけ」
「……ええ、そんなところです」
ちょうど思案していた話。曖昧に笑い返すしかない。
「今は不安な情勢ですからね……」
「え?」
「主人が言っていたことですけど、もし森の国が巨人の討伐に失敗すれば、隣国に弱味を見せることになります。下手をすると、戦争になるかも、と」
リンドウは国同士の世情には疎かったので、そこまで想像できていなかった。
「だから、私たちはしばらく平原の国に拠点を移そうとしているところなんですよ」
「そうだったんですか……」
「薬師さんは、どういう事情で平原の国に?」
「あー……、私は山脈近くの街から逃げてきたんです。平原の国に行きたいのは一緒にいた甥で」
「甥っ子さんは、なぜ?」
「小人に会いたいと。変な子で」
苦笑して答えると、女性はやはり怪訝な顔をした。
「興味関心で旅するような距離ではないでしょうに」
「ええ、本当。変なところで芯が強い子で」
「旦那さんもよく許可されましたね」
「え?」
「え? 一緒にいる男性、旦那さんじゃないんですか?」
リンドウはぎょっとして何度か瞬きした。
たしかに、男女が寝食を共にするならそう見られて当然だったのかもしれない。
リンドウは今年で二十八歳、通常は十代半ば、遅くとも後半に結婚する。
つまり嫁に行き遅れてしまって長いので、これまで気にしていなかった。
「いやいや! 彼はもともと旅人で、甥のわがままをきいて道案内をしてくれているだけなんです」
「薬師さんは、ご家族は?」
「私はこの歳まで結婚できなくて。妹家族や他の親戚は、巨人の事件で……」
「それは……辛いことを訊いてしまってすみません」
彼女は、申し訳なさそうに謝った。話している間に薬が効いたのか、少し顔色が良くなっている。
「……あの。良かったら、平原の国まで一緒に行きませんか? いつこの街を発たれるご予定なんです?」
「それが今日、私が寝坊したので……夕方話し合って決めることになるかと思います」
「それが明日朝なら、ぜひ。ところで、お薬のお代は……」
「今回は特別サービスでいいですよ」
「そんなこと!」
「いいんですよ。実は、元手はかかっていないんです。路銀は幸いまだありますし」
「多いに越したことはないでしょう? 平原の国の通貨でお支払いもできます。というか、ぜひほかのお薬も私たちで買い取らせてくださいなる。とても楽になりました」
彼女は最後ににこりと営業スマイルを見せた。悪い話ではない。
リンドウは少し考えてから頷いた。
「……それではお言葉に甘えて、午後の食事の後で、お薬を見ていただければと」




