領の動乱(11)……Day 2
青年の顔から笑みがすっと引いた。
その手は小さく震えているように見える。……やはり、ファナ=ノアの力は彼らにとって脅威なのだろうか。
一呼吸置いて、ラズは淡々と続ける。──収まれ、心臓。
「秋にも言ったはずです。私達はあなた方と交易を結ぶことに拘っている訳ではありません。山地の竜人でも構わないし、東側の隣領でも。警務卿の方が組みしやすいなら、この会談を蹴ってもいいとすら考えています。──見下され、胡散臭い品物を売りつけられるくらいならなおのこと」
明らかな脅しの言葉に、鋼務卿がぎり、と歯を噛み締めた。何故それを知っているのか、と言いたげな表情だ。
その後ろに立つ青年が、静かに口を開く。
「それでもここに来たということは、私たちにもまだ希望があるのでしょう? 条件があるならば伺います」
促す言葉に、息が詰まりそうになる。うなじを伝う汗が不快だ。しかし、ここで尻込みする訳にはいかない。表情をできるだけ変えず答える。
「奴隷の解放」
「…………!!」
鋼務卿の額に青筋が浮かぶのを見つめながら、指折り提示していく。
「差別撤廃の法令、人とモノの自由な行き来、これまで荒野を踏み荒らしてきたことへの、正式な謝罪を」
ラズの掠れた少し低い声だけが、天井の高い会議室に反響して掻き消えた。
軍務卿は瞑目し考え込んでいる。鋼務卿がばん、とテーブルを叩いた。
「ふざけっ……」
ぽん、と後ろの青年がいきり立つ肩に手を置いた。鋼務卿の表情が硬直する。
「──調子に乗るな、と言いたいところですが」
青年は、父親──鋼務卿の言葉を遮るように話し始めた。最初と同じ、にこにことした愛嬌のある笑み。
「あなた方が警務卿に肩入れをすると、この城も竜巻で吹き飛びかねない」
「そうですね、更地にした方が地下牢を訪ねるのも楽そうです」
顔が引き攣りませんように、と念じながら、青年に笑い返す。
心臓の鼓動がばくばくと速くなるのを感じた。──これは、はったりだ……実際ファナ=ノアにそんなことができるかは知らない。
ノイが膝の上で、固く拳を握りしめたのが見えた。
……ここに来る前に、何を話すかは彼にも伝えていた。その時彼はこう怒鳴った。
(『それは、警務卿を見捨てるのと同じだろうが!!』)
警務卿やその娘のために一日奔走していたラズが、同じ口で領主軍側に取り入ると言う。彼は相当怒っていた。……そして最後に『やはりお前はニンゲンなんだな』と罵られた。
青年は童顔に浮かべた愛嬌のある笑みを絶やすことなく、さらに質問を重ねてくる。
「私たちは従うしかありませんが、なぜ、と訊いてもよいでしょうか? 私たちを選ぶ、あなた方のメリットは?」
「…………」
ラズはゆっくり瞬きして、窓の外に視線を移す。雨上がりの曇天。また、一雨来そうだ。
青年に目線を戻す。その赤銅色の瞳に、静かに澄んだ黒い瞳が映り込んだ。
「一番血が流れない方法だと思った──それではいけませんか」
「────」
青年の目が点になった。想定だにしていなかった答えだったらしい。
そんな彼を見つめ、曖昧な笑みで言葉を続ける。
「先の要求は段階を追って実行していただくとしましょう。あなたのところの商品についても、今後追々」
「──この件はッ! 領主様とよく検討させていただくことにする!」
憤怒の様相で捲し立てる鋼務卿の隣で、軍務卿は腕を組んで口を開いた。
「……他でもない警務卿を拘留しておいて濡れ衣でしたでは民衆は納得しない。罪状を反乱の疑いに変えて東の戦地に送るが、それでいいか」
「……ご随意に。では、本題の話をしましょうか。軍事同盟と、交易について」
ラズはこっそりため息をつきながら頷いた。──最も望んでいたのは警務卿が無罪放免となることだが、そううまく行かないことは百も承知だ。この場で方向性を示せただけで良しとするしかない。
「書簡には、条約の草案も同封しています。大きくは以前お話した通りの内容ですが、防衛に関し力をお貸しする条件や、品物に対する関税は厳密に記させていただいています」
「──拝見しよう」
鋼務卿が受け取った紙を広げる。
西方の枯れた土地では見かけない、白くて分厚い紙は、ラズが錬金術で錬成したものだ。
内容について、軍事面は小人のノイが、それ以外はラズが説明して、話を進めていく。
「……内戦については」
「基本的には関与しない」
ノイの端的な返答に、ラズは補足した。
「──ですが、例外として、領主殿の主権が危ぶまれ、それを私たちが認めた場合は、ご助力いたしましょう。ただし逆に関しては、一切の戦力を荒野に入れないでいただきたい」
暗に、今回もし憲兵隊が蜂起するならば手を貸すということを仄めかす。鋼務卿の嫡男だけが、変わらない笑みを浮かべていた。
†
†
会談でのやりとりを脳裏で反芻して、ラズは小さくため息をついた。
荒野の立ち位置が憲兵隊に対する牽制になるなら、午後にでも会談の件が公表されるかもしれない。そうなれば、憲兵隊の側は針のむしろだ。
戸惑う兵士とノイを見送ってから、すぐ側の路地の闇に、顔を向けずに声をかける。
「ってことで、またお面を貸して欲しいなぁ、<犬>さん」
「ひぇっ!? い、意味が分かりません!」
路地の物陰に隠れるようにして立っていた犬面の隠密の女性が、ぎょっとして小さく抗議した。彼女が往路もずっとラズたちを尾行していたことには気付いていた。むしろ、連絡役として近くに付いているようにピアニーが指示を出したのだろう。
「あれ、そんなこと言っちゃっていいんだ? じゃあ、お嬢様にばらしちゃおうかな、目のこ──」
「だめです勘弁してくださいぃぃ……」
涙声になる犬面の女性をひとしきりからかってから、真面目な顔に戻る。笑い事ではないようだから、これ以上その話題に触れるのはやめておこう。
人目につかないタイミングを見計らって路地に入り、声を潜めた。
「ピアニーには……今会えるかな」
「もちろん。案内します」
今彼女は鋼務卿たちの追手から逃げ回っている最中だ。隠密の力を借りないと居場所は分からない。
「──ありがとう。でやっぱりお面」
「実は性格悪いですか、錬金術師殿……」
「今は素材を調達できなくて自分で作れないからさ……頼むよ」
荷物袋からフード付きの薄手のコートを取り出して羽織る。血痕を隠すため、昨日のうちに暖炉の炭と錬金術によって、黒に染めたのだ。あとは面を被ればラズだと分かる者はそういないだろう。
念のために、髪の色も変えた方がいいだろうか。
(……やめよ。体力の無駄遣いだ)
状況は、まだ始まったばかりなのだから。




