領の動乱(7)……Day 1
真っ直ぐ自分の屋敷に戻るのかと思っていたら、ピアニーは市街地に入ってすぐの小さな食堂の側にある路地の真ん中で立ち止まった。右手には、勝手口のような古ぼけた扉がある。
彼女は懐から小さな竹笛を取り出して、思い切り息を吹き込んだ。しかし音は出ない。
なんだろうと思って首を傾げると、彼女は扉を開けながら説明をしてくれた。
「隠密の人たち専用の呼び笛なの。対応する共振器を持っていれば、方向とだいたいの距離が分かるそうよ」
隠密……犬の面を被った方は、彼女の母親を安全なところに連れていく任を任せていた。今ので来るとすれば、ラズが情報の収集を頼んでいた<猿>の方か。
扉を開けた先には、降りの階段があった。彼女はためらいなく、すたすたと降りていく。
「え……、ちょっ」
「ふふ、秘密基地がいくつかあるのよ」
振り返って少し笑った彼女は、近くにあったランプを灯す。薄暗い地下室は、案外小綺麗だ。
絵画のそばに吊るされていたロープを少し引っ張ってしばらくすると、奥の扉から、同年代の少女が飛び出してきた。
「っピ、ピアっ!! どうしてここにっ! 鋼務卿に捕まってたんじゃ」
「あんなところにずっといられないわよ」
心底心配していたような様子に、ピアニーは複雑な表情をしながら答える。
目の色と髪色、長さもほとんど同じだし、顔立ちもどこか似ている。雰囲気は先日鉱山都市で会ったピアニーの仲間の少年に近いような。
「とにかく、着替えを持ってくるわね!」
「助かるわ」
ピアニーは荒く切り裂かれた膝丈のスカートを見下ろして苦笑した。
再び奥の扉の向こうにパタパタと足音が消えた後、小さな部屋に二人きりになった。
彼女は振り返り、ラズの顔を覗き込む。
「あなたは、いつもやせ我慢しているわね……。本当は、立っているのも辛いんじゃないの?」
そう言って、部屋の隅の長椅子を指さす。
「横になって? 少しだけ、ここで休みましょう」
──まさか、ラズのための寄り道だったのか。
申し訳ないと思いながら、ラズは素直に椅子に腰を下ろした。気を抜くとどっと倦怠感が襲ってくる。
「さっきの戦い、どうして錬金術を使わなかったの?」
「…………」
どう答えるか、少し迷って口籠もる。弱味をさらけ出して、いいものだろうか。──しかし、それも今更な気がした。
「……使わないんじゃなくて、使えないんだ。自分の輝石がないから、荒野から出るとすごく燃費が悪くなる。もう、ガス欠状態でさ」
「私と会う前、何があったの……?」
「──君の従者の人が大怪我をしていて……まだ、助かったかは分からないけど」
「……そう……だったの」
呟くように答えて、一度瞬きしてから、彼女は床に膝をつきラズを見上げた。
「私でも、錬金術で怪我を治すことはできるのかしら」
「加減を間違えると危ないから、練習がいるよ」
答えると、彼女は残念そうにラズの手を握った。祈るように、額に引き寄せる。
「じゃあ、気持ちだけ」
ここまでずっと走ってきたその手は温かい。
とくん、と心臓が波打った。
どうして……彼女はいつも通り周りを気遣っていられるのだろう。相当に怖い思いをして──屋敷が燃やされたことを知らないとしても、いつも一緒だった従者が危篤であることや、父親が逆賊の嫌疑で投獄されたことは分かっているはずなのに。
ぎゅっと瞑ったその目尻は少し赤い。
(…………?)
内側から、全身がほのかに温まっていくような不思議な感覚を覚え、ラズは瞬きした。
──なんだろう……? 安心するというか、嬉しい……? 名前を付けづらい感情が浮かんでは消えていく。
戸惑いながらも、彼女から目が離せない。
ややあって、祈りを捧げるように目を閉じていた、綺麗なまつ毛がぴく、と動いた。
キィ、と部屋の奥の扉が開く。
衣類を抱えて現れた少女は、こちらを見てあっと気まずそうに目を逸らした。
ピアニーは気にした様子もなく、そっと手を解いて振り返る。
「ありがとう、ディミニ」
「あっううん。っていうか、着替えるなら上の部屋の方がいいよね」
「……そうね。お邪魔するわ。その前に紹介しておくわね」
ラズをちらちらと見てもごつく少女に、ピアニーはくすりと笑って名前を伝えた。それから何事か耳打ちする。少女は戸惑いながらこくこく頷いた。
「じゃあ、本当に横になって休んでね」
「あっ、うん──」
言い残して、二人は扉の向こうに行ってしまった。少しして、階段を上がる足音。
「…………」
一人残されて、仕方なく長椅子に体を預ける。ごろんと寝転んで、感触の残る手のひらを仰いだ。
(気力はなんだか、かなり回復したような気がするんだよな……)
全身の倦怠感がどことなく軽減している気がする。胸に手を当てると、心臓の鼓動が心なしかいつもより早い。──まさか、これは……
(……いやいや! 絶対気のせいだ。まだあの子が実は生命力を与える力を使えますって方があり得る!)
なぜか全力で否定して、ラズは両手で顔を覆った。
†
十数分後、こざっぱりした平民の衣装……男物に着替えたピアニーが現れた。先ほどの少女と、さらに先日鉱山都市で会ったときにいた少年も一緒だ。
既に身体を起こして出迎えたラズの近くの壁際には、少し前に到着していた彼女の隠密<猿>がいる。
<猿>が数時間走り回って得た情報を一通り聞いて労った後、ピアニーは険しい顔をした。
「本当に、リゼル様はそう仰っていたの?」
<猿>が言うには──憲兵隊のレイブンという名前の大隊長を中心に、『領政に対し蜂起する』と密かに伝令が回っているらしい。
また、その動きを見越してか領主城にも軍が集まり、陣を整えている。
さらに、西門近くには第三の勢力──おそらく、鉱山都市の組織に属する、傭兵のような身なりの者を何人も見かけたそうだ。
「──大変なことになってきたね」
「……そりゃあ、鋼務卿家は大変なものに手を出したもの」
「一体、何のために」
「大国の戦争のどさくさに紛れて、この領の覇権を握るため──でしょうね。今なら、遠征で領主軍は手薄、それが憲兵隊と潰し合えば、従わせるのは容易だわ。領主軍が負けそうになれば、手を貸して恩を売ることもできるし」
「憲兵隊が武装組織を取り締まる動きに気づいたからじゃないんだ」
「もし気づいていたなら、隠れ家を変えるとか、憲兵隊を出し抜く手段だってあったはずでしょう」
そこまで説明して彼女は押し黙る。
ラズは直面している重い事態に、息が詰まる思いだった。
(この街が、戦場になる……)
そうなれば、たくさんの人が傷つき、死んでしまうのだろう。
ラズは、第四──荒野の勢力の立場として、どう振る舞うのが正解なのか。
(そういや、鋼務卿の屋敷から逃げる直前、ピアニーは『あなたたちの力を借りないと、この戦い、きっと勝てない』って言ってたな)
つまり、領主軍と憲兵隊が衝突するとき、ラズに憲兵隊側についてほしい……というのが彼女の狙いということか。
たしかに、憲兵隊にも警務卿ブレイズにも恩がある。彼らを助けたい思いはもちろんある。しかしそもそも、内戦が起きること自体をなんとかしたい。
──人質あるいは、戦力差によって、戦闘を避けられる可能性があるとすれば。
(もし、鋼務卿家を領主家から切り離すことができれば、領主家と憲兵隊との対立は止められる──?)
いいや。警務卿にかけられた嫌疑は小人との内通による敗戦だから、領主は結局警務卿を許さないかもしれない。それではダメだ。
あるいは、小人側──ラズが領主と関係を作れれば、警務卿の罪は不問になるだろうか。
考えを整理しながら、<猿>に向かって疑問を口にする。
「なんで領主は鋼務卿の言いなりなんだっけ」
「借金だ。一部では、領璽まで担保にしてしまっているという噂まであるな」
「さすがに噂よ……でも、領主様にとって必ずしも鋼務卿は味方ではないとは思うわ」
──なるほど、鋼務卿を領主から切り離すのは一朝一夕とはいかなそうだ。
隠密の返答を一蹴してから、ピアニーは腕を組み思案する仕草をした。
「ラズ、今日は領主城に行かなかったのよね」
「あ、うん。明日の夕方に保留になってるんだ」
「そう……」
高い位置でまとめた髪の裾を指先で弄りながら、彼女は低く呟く。
「……彼らは、あなたたちを敵に回したくはないはずよ。なんらかの手で懐柔しようとすると思うわ」
「…………!」
一つの手段が頭をよぎり、ラズは返事に窮した。それをすれば、もしかするとこの戦いは避けられるかもしれない。けれど──
「悩んでいるのね。……優しい」
彼女はくすりと笑った。どこか、哀しげな笑みだった。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「私は、一度お屋敷に戻るわ」
「僕は……」
「危ないことはしないでね」
「なんだよ、ピアだって。帰り道、気をつけて──って言っても、その格好じゃ誰も君が警務卿の娘だって分からないだろうけど」
ピアニーは帽子を深く被ってふふ、と笑った。
† † †
ラズと別れた後、ピアニーは猿面の隠密の先導のもと、ディーズリーの屋敷がある区域に向かった。
従者ルータスが運ばれたという屋敷は、燃えた本邸の二つ隣にある分家の屋敷だ。
荒野近くの乾燥した気候ではあるが、レンガ造りの家屋は火事には強く延焼しにくい。であるのにディーズリー邸が全焼したのは、引火しやすいものを撒かれたからかもしれない。
門戸を開ける前に、中からメイド姿の少女が飛び出してきた。
「ピアニー様っ!!」
「ティーヤ……ただいま」
侍女の背中に腕を回し、ピアニーは目を瞑った。歳は五つ以上離れているが、姉妹のように育った仲だ。
「ルータスは……」
「──こちらです」
彼女に案内された客室に、初老の老人が寝かされていた。痛々しい、血の滲む包帯に、生気のない顔色。
「まだ、目を覚まされません」
「そう……」
寝台に歩み寄り、従者の胸に手を置く。
(錬金術の<理解>で何か分かれば……)
力を使ってみたものの、体の構造がなんとなく分かる程度で、目で見える以上の症状まで掴めそうにない。
土気色の顔で、消え入りそうな息をする彼の手をそっと握った。
「ルータス……暇をとるには、まだ、早いわよ……」
祈るように手を組む。
しばらくして、開け放されたままの扉を誰かがコンコンと叩いた。
振り返ると、そこには憲兵隊の正装に身を包んだ大柄な男が立っていた。
「ピアニー様、よくぞ、ご無事で。まさか自力で逃げて来られるとは」
「レイブン様──」
憲兵隊大隊長、レイブン。憲兵隊は総隊長で警務卿のブレイズ=ディーズリーの補佐として副官、そして、大隊長が五人、それぞれの大隊長が四〜五人の中隊長を従えている。中隊長は五人の小隊を約十指揮しているから、総勢で千名ほどの組織だ。この街に限って言うと、夜勤交代要員も含めて約四百人。うち百名は古参の精鋭である。警務卿とその副官がいない今、この街の憲兵隊は彼の指揮下にあると言っていい。
「お母様は……」
「お陰でご無事です。場所は極秘ですが。ピアニー様もそちらに行かれますか」
「……ええ、あとで。……ところで」
ピアニーはちょうど目の高さにある、大隊長の胸ポケットを見つめた。
「変わったペンね? 前は持っていなかったわ」
「ああ、ええ。良い細工でしょう。ご覧になりますか」
少し得意げに渡された重い鋼鉄ペンをじっと見つめる。──筒の中にも、妙な細工があるような。
「…………これを持っているのはあなただけ?」
「ええ、そうですよ。贔屓にしている商人からの献上物です。……ピアニー様?」
「──これ、お守り代わりにお借りしてもいいかしら?」
「ええっ……!? でも、お嬢様の頼みなら仕方ありませんね」
「ありがとう」
孫を見る目で表情を緩める大隊長に、ピアニーは微笑んで礼を言い、丁寧に包んで肩掛けの鞄にそれを入れた。
「憲兵隊の蜂起、レイブン様は勝ち目があると思っているのかしら」
「領主軍は遠征で手薄──それに、市街戦は我々の方が有利ですよ」
「そうね。だけどおそらく、鉱山都市の組織の者が街の中に多数潜伏しているわ」
「……な、その話をなぜ──ブレイズ様ですか」
「…………」
ピアニーはその問いに答えず、部屋の隅に控えていた猿面の隠密に鋼鉄ペンが入ったままの鞄を渡す。そして、ごく小さな声で、「ラズに渡して」と囁いた。
隠密の男が立ち去ってから、怪訝な表情の大隊長に向き直る。
「私が相当の跳ねっ返りということは、レイブン様だってよくご存知でしょう」
「……では、何を考えておいでで」
「一つ言えることは、先に手を出してはいけない、ということ。鋼務卿の傘下の勢力が堂々と介入してくるわ。そうしたら、お父様も即……処刑されるかも」
「向こうから手を出されたら?」
「それは考えにくいわ。今開戦したら、明日の使者との対談が流れてしまうもの」
「ラズは──ブレイズ様を解放してくれるでしょうか」
その問いかけに、ピアニーは瞑目して、静かに答えた。
「……分からないわ」




