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聖者の憂鬱(4)

 翌日早朝、寝ぼけたままのリンドウを愛馬スイの背中に引っ張り上げて、女司祭ウィリ、竜人アクラキールとともにラズはノアの郷に向かった。

 竜人の使者である彼は小人の言葉を覚え、竜人の言葉を教える役割があるので、彼を引き受けるのはノアの郷にいる人間の女性、エンリが適役だからだ。……おそらく、性格的にも。

 ノアの郷に到着したの夕刻。

 家の前のベルを鳴らすと、四十代くらいの女性が顔を出した。


『はいはい……あら、ウィリ、……それに、ラズも!』

「エンリさん、久しぶり!」

「元気そうで、良かったわ。リンも、夕ご飯でも食べて行って」


 彼女はにこにこと微笑んだ。その優しそうな笑顔に、「人間もいるんだね……」と竜人の青年の表情が和らいだ。


 小さな居間に招き入れられ、目の前にお茶が並べられる。

 エンリは託児の仕事もしているが、今日はもう終わったらしく、居間に子供たちの姿はない。

 彼を交え、そのまま人間の言葉で世間話をしていると、女司祭ウィリが仕切るようにこほんと咳払いした。


『エンリ、お願いしたいことがあるの。彼、アクラキールと言って、竜人の郷からの語学留学者なのだけど』

『まあ〜、それで、私に』


 笑みを絶やさず、彼女は竜人の青年に向き直った。


「人間の言葉は堪能のようだから、安心ですね。私はエンリ。ここで小人達に人間の言葉を教えています」

「あ、あの。ええと、アクラキールといいます」

「アクラキールさん、ぜひ私に、竜人の言葉を教えてくださいな。私からは、小人の言葉をお伝えします」

「は、はい……、──あっ!」


 竜人の青年はわたわたと湯呑みに手を回し、お決まりのようにそれをがたん、と倒してしまった。


「あらあ……」


 エンリが目を丸くする。

 アクラキールはあわあわと床にしゃがみ込んで悲鳴のように喚いた。


「ま、また……っ! ()()が床に()()()()ったよぉ」

「は?」


 目を点にするリンドウの隣で、ラズはのんびりと湯呑みを啜った。


「キール、相変わらず()()()めだねー」

「………………」


 しーん。

 リンドウはやがて、半眼でため息をつく。


「……ラズまで。ちっとも面白くないよ」

「え~? リン姉もなんか乗らないと」


 エンリがぷっと吹き出した。


「まあ、愉快な人ね」


 笑う彼女にウィリが申し訳なさそうに謝った。


『ごめんね、エンリ。落ち着くまではとってもそそっかしいと思う』

『ふふ、シャルグリートさんとは真逆ねえ』


 懐の深い彼女は、その後も息子と歳が近いなどと機嫌よさそうにもてなし、シチューをこぼしても、帰宅したばかりの同居している若い人間の夫妻に驚いて水を吹いてもほとんど動じなかった。

 そのままこの弱気な竜人の青年は春の本格的な交流までの間、彼らの集合住居の空き部屋で過ごすことになるのだった。




 †




 夕食にお礼を言ってエンリの家をでたところで、ウィリとも別れた。彼女は実家に帰るらしい。

 すっかり暗くなった道を錬金術で生み出した灯りで照らし、エンリから預かった教典の訳書の原稿を小脇に抱えながら、ラズはリンドウと二人、郷外れにある彼女の住居に向かって歩いていた。


「僕は明日タキの郷に戻るけど、リン姉はどうする?」

「騒がしくて疲れるんだよね、あの人たち……。研究の続きもあるから、私はしばらくこっちにいるよ」

「分かった。なんかあればまた来る」

「頼もしくなったねえ、なんだか」


 褒められて、ラズはへら、と笑った。


「へへ、なんか嬉しいや。……ところで、夏になって領との交易が順調だったら、谷の國に行きたいんだ。……皆を弔いに。リン姉も行くよね?」

「……! え、ええ……?! それ、ファナ=ノアには?」

「もう言ってある」

「手伝うんじゃないの、(そば)で?」

「同じ世界にいるんだから、十分、(そば)だって言われたよ」

「……?」


 ラズの言葉に、彼女は怪訝な顔をした。

 ファナ=ノアはラズを元気づけたかったんだろう。夢でだって会えるのだし。けれどその言葉はラズにとっては違う意味に聞こえた。なぜなら、この世界の外に、どうやら無数に全く違う世界があるのだということを既に知ってしまっているからだ。

 レノと猫又も、いつかはそこに行ってしまうと言っていた。この世界と、違う世界というのは、どれくらい遠い場所なんだろうか。それはもしかして、二度と会えないレベルの別れなのだろうか。

 浮かんだ考えを振り払って、リンドウに向き直る。


「……帰る場所はもう、荒野(ここ)だと思ってるよ。大山脈に留まるつもりはない」

「そう……」


 そうこう話している間に、リンドウの家に辿り着く。

 山地に旅に出る前に引越しを手伝ったので内装は知っているが、二月(ふたつき)近く経ってかなり生活感が出て……ひどく散らかっている。


「国境を通るから、危ない旅になるかもしれない。シャルも行きたいって言ってたから、誘おうかな……。ってリン姉は苦手なんだっけ、シャルのこと」


 答えず、ただ顔をしかめた彼女に、ラズは困ったように笑いかけた。


「ま、メンバーはまた考えたらいっかな」

「私も……考えとく」


 彼女はそもそも危険を避けて西に逃げてきたのだ。いくら故郷でも、危険な場所に行こう、と言われて直ちに了承はできないだろう。


「うん。──ところで、これ片付けていいのかな?」

「あっ! それ振動与えちゃだめ」

「え? うわ、ちょ、劇薬じゃん……床に放置って」


 じゅうう、と音を立てて発生した煙を、錬金術で沈静化させて、今度は静かに持ち上げ棚の上に動かす。

 リンドウが驚いた顔をした。


「あれ、あんた、まさか触媒なしに還元させて──? また上達したね……」

「地味にね~」


 赤竜の洞穴でお腹に傷を負ったときにいろいろ試した成果だ。

 戦闘面ではあまり活きないのでなかなか日の目を見ないが、物質変化に関して上達したことを褒められるのは密かに鼻が高い。


「あんた来週また戻ってきなさいよ。今のができるなら、やってほしいことがあんの」


 リンドウは机の上に広げっぱなしの大きな羊皮紙の下から二枚目を引っ張り出した。細かい記号と文字がびっしり書かれている。


「うええ……それ、化学式? 見たことない記号が多すぎ」

「だから、次来るまでに分かってもらえるようにしとく」

「うん、まあ、理解できたなら……」


 リンドウに錬金術で頼ってもらえるのはなんだか嬉しい。

 単純な術のスキルではラズの方が上を行くが、知識面で遥かに劣るので、適切な薬剤の調合や治療など、できることは彼女の方が多い。


「そういや、あんた、また髪切っとく?」


 言われてラズは首の後ろに手を当てた。


「今は寒いからちょーどいいんだ。春にまたお願いしていいかな」

「はいはい。……目つきもなんだか変わったし、私はちょっと複雑だよ」


 リンドウは苦笑した。昨日からずっとこの調子だ。


「そうかな? 反抗期きたらごめんね」

「え、ええ……なんだろう、この違和感……? あんたに反抗期はないと思うわ、うん」

「ぷぷ、リン姉、変な顔」

「うるさい、もう。──さっき、エンリのところでだいたい聞いたけど、山地の話、もう少し聞かせてよ」

「いいよ。僕も、冬の荒野の話をもっと知りたい」


 洞穴を利用したリンドウの小さな住居で、ラズは眠くなるまで彼女といろいろな話をした。




 † † †




「じゃ、行ってきます」

「……いってらっしゃい」


 身支度も何もできず、日の出と共に起き出して鍛錬までしてさっさと出て行こうとする甥……ラズを見送ってから、リンドウはがっくりと寝台に再び倒れ込む。

 二日連続で夜更かしをしたせいで、リンドウの目の下には濃い(くま)ができていた。


(まさか……いや、でも嘘をつく理由がない)


 ラズの話で最も驚いたのは、ここ半年の旅の仲間だったレノという男性の正体が、実は竜だった、という話だった。

 リンドウにはレノの竜の姿など想像が付かないが、あの異様なプラチナの瞳が爬虫類のように鋭く怪しい光を放つのはなんとなく想像がついた。


(人間離れしてるとは思ってたけど、そんな……!)


 人間にしては体温の変化がおかしかったり、睡眠、食事が少ないのも気になっていた。

 鼻が効く、というのは本人も言っていたが、それ以外の五感も異常だった。面白半分で試した時は、さすがに嫌な顔をされたが……。


 たっぷり二度寝した後、リンドウは日課になっていた教会の礼拝のついでに、その中庭で足を止めた。

 不思議な力がどこからか湧き上がるパワースポット。ここでなら、自分の生命力によらず、より強い術が使える。


(ラズが人間の軍と戦いに行っていたあの日……彼はここにいた)


 彼も、ファナ=ノアと同じくかなりの広い範囲で見聞きの術が使えるのだという。

 わざわざ皆が寝静まった時間に誰もいない中庭で、何も心配していないと言いながら、もしかするとこっそりと甥の様子を見守っていたのかもしれない。


(もう、今更だけどね……)


 甥は彼がまた旅に出たのだ、としか言わなかった。故郷のほぼ全てを失った甥にとっては、名をくれたレノは親のような存在だっただろうに。

 そしてレノの方も、ラズにはまるで自分の子のように温かく接していた。

 どうしてあっさりと放って旅に出てしまったのだろうか。


「──?」


 遠く、エンリの家の方から男声の悲鳴が聞こえた。何か虫の名前を叫んでいるような。


「……」


 リンドウはしばらく考えてから、ぷいっと自宅の方向に足を向ける。面倒ごとに関わるのはごめんだ。エンリに任せておけば大丈夫だろう。


(あの子は確実に大人になっていってるけど……でもまだ早い。あんな寂しそうな顔をさせて……次会ったらただじゃおかない)


 正体が竜だと言われても、リンドウにとって彼はやはりただの一人の壮年の男性だ。

 彼女は胸中で毒づいてから、空高く昇った日の輪を見つめふっと笑った。

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