聖者の憂鬱(3)
タキの郷の宴には、前回のような音楽と舞はない。
小人達と人間達はあまり混ざらず、思い思いに小さな輪を作って会話を楽しんでいるようだった。
今回の主賓は竜人の郷から帰ってきたラズと他三名。親友であるファナ=ノアは最も人気者かつ忙しい人であるが、今日くらいゆっくり話してもばちは当たらないだろう。
そう思いながら、篝火を見つめて杯を傾けるファナ=ノアの隣に腰を下ろす。
「……それ、お酒?」
「ああ。あんまり強くはないんだが」
火の光に照らし出された横顔には、酔っているような気配はない。
ラズと同年齢でも、小人のファナ=ノアはこう見えて成人しているので酒の嗜みもあるらしい。
「今日はなんとなく……な」
浮かない顔で度数の高い酒に口をつけるその表情は、昼間とは違って弱々しく見えた。
「ファナ、無理してたんだね……今まで」
「言われてみれば……だけどな」
微かなため息をついて、ファナ=ノアはラズに向き直った。
「──なあ、どうして<虚の王>はあんなに怒り狂ったんだ? ウィリの説明では分からなかった。自分が力を与えて狂わせた存在がラズを手にかけたなら、怒る、とは違うだろうし、そんなことで怒るなら今までも起こり得たはずだ」
「僕にも、理由までは……」
一瞬、言い淀む。
──本当は、心当たりがある。しかしそれをファナ=ノアに言っていいのかわからなかった。
凶敵マガツ──最悪の手段で竜人の族長の座を奪ったディグルエストを乗っ取っていたモノの真相は、世界の外から、この世界を壊しにやってきた存在だった。この世界の創造主である<虚の王>がそれに対して怒るのも肯ける。
しかし、世界の外がどうこう、というのは口外してはならない話だとレノから聞いた。だから表向きには、先日の黒竜と同様、<虚の王>に狂わされ暴れていたのを救ったという話になっている。
ラズがマガツの正体に気づいたのは、レノの記憶を夢で識ったからだ。半年前、故郷を喪った時、死にかけていたラズを助けるために、彼は魂を分けてくれた。その時誤って、記憶まで与えてしまったのだという。
レノはかつて、ラズが覗き見てしまう彼の記憶について、『ファナ=ノアに言うかどうかの判断はラズに任せる』と言った。
(きっと、この話のことも含めて言ったんだろうけど……)
彼のごく個人的な秘密だ。安易に口にしていいことではない。
(話さないといけない、理由があるか──?)
──ファナ=ノアに隠し事をしたくない。吐露してしまった方が楽だ。しかし、そんな理由はレノに失礼な気がした。
迷ってから、ラズは首を振った。
「──分からない」
ラズが微妙に口籠ったのに気づいて、ファナ=ノアは静かに目を細める。
「……ラズは、生死を彷徨っている間に、何か見てないのか?」
「あの時は、あいつ……マガツの、中に取り込まれていたんだ」
「──な」
ファナ=ノアの、息を呑む音が聞こえた。
「──よく、戻ってこれたな」
「また、レノが助けてくれたんだ……と思う」
「まさか、どうやって……!?」
ラズはまた、分からない、と首を振った。
──半分はラズが、レノの仲間である猫又と協力して、中からマガツの世界を壊したことによるが、外からもレノが何かしてくれたのではないかと思う。
ファナ=ノアはこめかみに指先を当てて頭を振った。
「レノさんは、つまり何者なんだ……」
「竜……とても長い時間を生きていて、<虚の王>と対等に近い存在、だったんじゃないかな」
──これは嘘ではない。
レノも、マガツと同じく、世界の外から来た存在だった。彼の記憶によると、<虚の王>のように世界の神のようなことをした経験もあるらしい。
ファナ=ノアは長いまつ毛を伏せてじっとラズの言葉を反芻しているようだった。
「そんな存在が、普通の人に紛れていたなんてな……」
「レノは、ファナに謝っといてくれって言ってたよ。初対面のふりをしてすまなかったって」
「ああ、それはウィリからも聞いた。小人に扮していたときもあったそうだな。……それを聞いたら、心当たりがありすぎて」
ふっと苦笑する口調に、怒っている様子はない。
そのことに安堵しながら、笑い返す。
「僕が小人の言葉をすぐに覚えたのもレノのおかげみたい」
「へえ、じゃあもしかして、竜人の言葉も?」
「話せるようになったよ。おかげで、シャルはすっごく口が悪いってことが分かった」
──片言の人間の言葉を話している時も、単語のチョイスが雑で酷かったが。
話が逸れてしまった。マガツについては、伝えておかないといけないことがある。
一呼吸おいて、真剣な面持ちで口を開く。
「……あいつ……マガツは逃げおおせて、今後も、僕等みたいな特殊な存在を狙うはず……って、レノが言ってた。だいぶ弱らせたけど、謀略に気を付けろって」
ラズの表情が厳しくなるのを、ファナ=ノアも不安げに見返した。
「レノさんは、もしかして今、それを追っているのか?」
「…………」
ラズはゆっくりと首を振った。
「──違う。マガツから呪いを受けて、安全なところで休んでる」
後からレノの手に現れた紋様のことを、夢の中に現れる彼の仲間である猫又に伝えたら、それは死を意味する梵字だと教えてくれた。『主のことだから死にはしない、しかし解呪は簡単ではないだろう』、とも。
「そうか……それは、辛いな──。君にとって、レノさんは師であり、親のような存在だろう」
気遣わしげな、優しい声。──そう、まさかあんな別れになるとは、ラズだって思っていなかった。
思わず握りしめたグラスに自分の黒い瞳が映り込んでいる。
「悔しくない、って言えば嘘になるかな……。でも目の前のことを頑張るしかないって切り替えるようにしてる」
「……そうか。私も、それでいいと思う」
沈んだ雰囲気をとりなすように、ファナ=ノアは少し微笑んで話題を変えた。
「さて……と。次は私が話さないといけないかな」
「嫌そうだね。……話したいこと話したらいいよ」
答えると、ファナ=ノアは虚をつかれたように目を見開いた後、はにかむように微笑んだ。
「それでいいなら。……ラズ、人間たちのリーダーをやってみる気はないか?」
突然の質問に、きょとんとする。
「──ん? ……そもそも必要?」
ここの人間──元野盗たちは、シュラルクとやらが首領でまとまっているのではないのだろうか。それに、誰がまとめ役をするのか決めるのは本人たちだろう。ラズがいきなりしゃしゃり出て認められるものでもない。
ファナ=ノアの話には続きがあるようだ。
「小人には小人の代表が、竜人には竜人の代表がいる。シャルがそういう立場になったと聞いて、正直ほっとしたんだ。同じように、人間の代表を君がやってくれるなら、私はとても安心できる」
「あれ、ちょっと待って……!? なんだかスケールが大きい話だね?」
この郷に逗留している人間たちの話どころではなさそうだ。
人間全体のくくりでいうと、リーサス領の上に西方自治区があり、それをさらに平原の国が統治している。そんな規模の国があと二つ。
人間の上に立ってくれと言われて相分かったと即答できるほど、人間たちがどうすればまとまるのか、想像などつきそうもない。──ないのだが。
「……いいよ」
鉱山都市を見てきて実感していた。人間と異種族の憎しみの連鎖を止めるには、人間が変わる必要がある。手段が分からないとしても、投げ出さず向き合いたい。
「リーダーって表現が適切か分からないけど、人間の争いを収めて、ファナたちと仲良くするように働きかける……やってみせるよ」
「もちろん、私も手伝うよ」
「うん。ファナがもう、人と戦わなくて済むように」
その言葉に、ファナ=ノアは驚いた顔をしてから、火傷の残る手のひらにじっと目を落とした。結えた髪が落ちて、酒気を帯びた頬を覆い隠す。
「…………」
次の言葉を、じっと待つ。
やがて、俯いたまま薄い唇がゆっくりと開いた。
「一月前、私は東に出向いて……荒野を脅かす盗賊たちと戦った」
「うん」
「たくさんの人をまた苦しめて、……間接的にも、直接的にも人を殺した」
口にするだけでも辛いのか、ファナ=ノアは緩慢に両手を持ち上げ、顔を覆う。
仕方がないことだと割り切って、目の前のやるべきことに打ち込んだとしても、罪悪感はそう簡単には消えないものなのだろう。
「私は人間も守りたい。過去の行いに問題があろうが関係ない。仲間の方が大事だと、優先順位をつけるのは本当は嫌だ」
「……うん」
そっと背中に手を添えて、頷く。
ファナ=ノアの力は強大だ。今まで荒野における怪物騒ぎのほとんどは、ファナ=ノアが解決してきたのだという。
その力を人に向けなければならないのは、ファナ=ノアにとって苦しい選択だろう。ラズのように、普段から他者と試合ったりもしないから、人を傷つけるのはなおさら辛いはずだ。
「それなのに、ファナは僕たちを常に優先してくれてたんだね……無理させて、ごめん」
この幼馴染がとてもとても優しい人だということは知っていたはずなのに、いつの間にか頼ってしまっていることに、反省させられる。
静かに首を振る小さな背中をさすりながら、ラズは自分の決意を口にした。
「春の人間との交渉を乗り越えたら、僕は故郷に帰ろうと思う。その道で、さっきファナが言ったことを実現する方法を探るよ」
──その時にはおそらく、大国同士で睨み合いになっているという国境も通ることになるだろう。
ファナ=ノアはゆっくり顔を上げた。
「……そうか。一緒に行けそうになくてすまない。見てみたかったんだけどな、ラズの故郷」
「落ち着いたら、いつかまた案内するよ」
ラズは朗らかに笑う。──その時はぜひ、ピアニーの父、警務卿ブレイズも誘いたい。
「……少し、胸のつかえがとれたよ。──ありがとう」
ファナ=ノアも笑った。白い髪が篝火の光をうけてキラキラしている。──少しでも、その心の支えになることができたなら嬉しい。
一口酒を含んでから、ファナ=ノアは話題を変えた。
「……ところで、ラズは私が男か女か気になるか?」
さっきと打って変わって、少し、おどけた口調。
「急にそこ? ──最近は、たまに」
「まあ、普通はそう……だろうな」
ファナ=ノアは篝火を見つめて立てた膝に頬杖をついてはあ、と息を吐いた。
酒で上気した横顔は少し物憂げだ。
「……男、だよ。どちらかといえば」
「う、ん?」
微妙な言い方に、ラズは首を傾げた。
「でも、男じゃない。リンに言わせれば、そういう遺伝子疾患だそうだ。──で、男に対しても女に対しても、皆が異性に抱くらしい感覚は持ち合わせない」
「だから、『どちらでもない』?」
「覚えてたのか。──ああ、そうだと自分では思ってる」
そう、以前ファナ=ノアが人間と小人のハーフだと明かしたとき、『どちらでもない』と言ったのがひっかかっていたのだ。外見も心も小人として生きているのに、わざわざそう言う理由が分からなかった。──合点がいってすっきりした。
ファナ=ノアの口調はいつも通りだが、この話は側近の女司祭ウィリにすら打ち明けていないことのはずだ。──親友特権で聞けたことは嬉しいが、これからどうするつもりなのだろう。
空になったグラスを指先に乗せてバランスをとりながら、軽い調子で会話を続ける。
「ウィリはその話聞いたことがないって言ってたけど、いつか言うつもり?」
「まあ、そのうち……性別は重要ではないと今でも思うが」
「うーん、ウィリの反応は恋する女子って感じだから、早い方がいいと思うよ」
「そうなのか? ……ウィリ姉さんがそんなこと……あるのかな」
「いや、僕もそこまで自信はないけど」
「はは、ラズはまだ子供なんだったな」
「その言い方、ひっかかるなぁ」
「その杯もまだノンアルコールの癖に?」
「──はいはい、認めますよ」
ファナ=ノアは愉快そうに笑ったがすぐに笑みを収める。
「普通の感覚からすると、異端だろう。受け入れがたいはずだ、とても」
「……世の中には、意外にそういうのを隠して生きてる人がたくさんいるかもよ?」
「──それなら、私は堂々とした方が、いいのかもしれないな」
「そこは、ファナの自由」
ラズはにっと笑った。ファナ=ノアも目元を緩める。あまり見ることのない、どこか照れたような笑みだった。
「ファナはしばらくこの郷で仕事もするんだっけ」
「ああ。交易が始まるなら相手と近い方が判断も早くできるしな。ここからなら領主の街まで見聞きできる」
「そっか。僕は明日はリン姉たちと一緒にノアの郷に行くよ。明後日にはまた、戻ってくる」
「なら、エンリから教典の訳書の原稿を預かってきてもらえるか?」
「もうできたんだ。──了解。他にも用があればなんなりと」
ファナ=ノアは少し考えてから、ああ、と指立てた。
「用じゃないが、教会にはあまり近寄らないほうがいい。爺様方は気が立ってると思うから」
「そっか~。苦労してるね……。でもなんで?」
「ノアの長が、ノア以外へ拠点を移すな、とね。私が郷を空けるのは今に始まった話ではないが」
ラズは目を瞬かせた。
ノアの郷の長だから、ファナ=ノアと呼ばれる。郷から離れて長をクビになったら、その称号はなくなって──?
「もしかしてそのうち、ファナは『ファナ=ノア』じゃなくなる?」
「どうかな。実は、教団組織をそのまま国としようと思っているんだ。名前は、<聖教国ノア>」
「! もしかして、ファナが王様?」
「名義上はね。法王っていうのかな」
「へえ~……」
「ま、中身は何も変わらない。人間向けの体裁だよ」
ファナ=ノアはラズと話すときは、教主という立場をぞんざいに表現することが多いが、普段はそうでもない。
職位にきちんと敬意を払い、責任を全うする姿勢を示していた。
ラズはいつも、その姿に素直に感嘆している。
「かっこいいね。──法王ファナ=ノア」




