聖者の憂鬱(1)
ガッシャーン!
配膳中の湯呑みを盛大にぶちまけた竜人アクラキールに、リンドウは思わずこめかみを抑えた。
晩冬と言ってもまだまだ寒いので、ぶちまけられた茶の湯気が辺り一帯に湧き上がり、すぐに立ち消える。
「なんであなたがやってるの……」
「ご、ごめんなさい……。ジェーマンさんたちがどうしてもと……」
ジェーマン……元野盗に、そんな名前の男がいたはずだ。この気弱な青年をからかうために頼んだんだろう。
「目の前でやらなくて良かったね」
呆れながら、一緒にしゃがみ込んで割れた陶器を集めるのを手伝う。
盆を拾って土を払い、錬金術で湯呑みを元に戻すと、彼はおお、と感嘆の声をあげた。
「昨日はメガネを直してくれたのに……なんでもできるんだなぁ」
「お茶はあんたが戻せば? 簡単でしょ」
「は、はい!」
彼ら竜人は、特定の元素に特化した錬金術を使う。アクラキールは──水素と酸素、どちらに特化しているのかは分からないが──水分子の扱いに長けていることは知っている。そして、その操作の緻密さや効果範囲、影響力は目を見張るものがある。
彼は湿った地面から水分を凝結させて浮かび上がらせ、湯呑みに分けて戻そうとした。
斜陽が水滴を照らして、小さな虹のように煌めく。
あっという間に湯気が上がって、白湯の状態になった。
「味までは無理だけど、どうしたら……」
「うんうん。それを中身だけ頭の上からふっかけてやんな」
「ええっ! そんなことしたら、火傷するんじゃ」
その反応に、リンドウは苦笑いした。どうも彼は小心者で、自分に反撃する力があることにすら気づいていないらしい。
「まあとりあえず、後は私が運ぶから」
盆を持って現れたリンドウを見て、元野盗の男たちは震え上がった。
「ひ、ひい……姐さん……! 俺たちに何か……!?」
「いや、どうも、あんたたちが寒くてたまらなくて、お湯を浴びたいって聞いたもんだから?」
隣で竜人の青年がびくびくしているのに構わず、リンドウはにっこりと笑った。
「このお湯作ったの、彼だからね? 彼にかかれば、あんたたち、血液から沸騰して一瞬でお陀仏だよ。分かった?」
「へ??? は、はい………!」
魔女に睨まれた蛙のように大人しくなった男達を見て、竜人の青年はふおお、と感嘆した。
リンドウは呆れを隠せない。
「力を他者に向けないのは良いことだと思うけど、自分の身くらい守りなさい」
「は、はい……」
叱られてしゅんとする彼をそのままに、踵を返して歩き出す。
その先に真新しい、質素な教会施設が見えた。
教会の前の水場……もっとも、掃除をして水を通したそばから凍ってしまったが……その縁に、白く長い髪を三つ編みにまとめた少年のような背丈の人物が座っていた。
俯いた赤い瞳は物憂げで、長いまつげがほとんどを覆い隠している。
「…………」
──このところ、一人の時はああやって考え込んでいるのを見かけるような気がする。
ふう、と息を吐いて、その人物……ファナ=ノアは立ち上がった。リンドウと目が合うと、淡く微笑む。
「ラズを迎えに行くけど……リンも行くかい?」
「ぜひ。──さては、補佐役に行ってこいって放り出された?」
「正解」
ファナ=ノアは肩をすくめて笑ってみせた。
「馬は……」
「別にいいだろう。そこの丘までだから」
かつて人間の軍が幕を張っていた丘。その前は、ファナ=ノアが怪我から目が覚めるまでの間、ラズとレノがそこで修行をしていた。
「リン、浮かすよ」
その一言を皮切りに一帯につむじ風が巻き起こり、二人の身体がふわりと宙に浮かんだ。
鳥の視点まで浮かび上がると、北の方向に二頭の怪馬の姿が見えた。
丘の麓に降り立つ時には、顔が分かる距離まで近づいている。
「リーン姉ーー! ファナーー!」
満面の笑みで大きく手を振ったその少年──ラズは、ぱっと怪馬から飛び降り、その足で走りだした。
その日、当初予定より数週間伸びて……一ヶ月半ぶりに、ラズが帰ってきたのだった。




