戦姫の迷い(8)
「起きろ」
ゴッと頭を殴られる。
(っ痛ー。ボカスカ殴るとか! 水をかけるとか、ほかにもやり方があるだろっ)
──いや、水はこの辺りでは貴重なので、起こすためだけに使ったりはしないか。
そもそもフリなので、本当に意識を失っていた訳ではない。
薄目を開けると、そこは薄暗くて狭い部屋だった。
中央の椅子に青年が縛り付けられている。
力なくぐったりとした様子に不安を感じ、ラズは錬金術の<波動>を使って彼の状態を確認した。
息はある──、何度となく殴られた痕跡、全ての指先は生皮が露出し、あげく自白剤か何かの薬物を摂らされている──
(……ひどい……!)
その容態にぞっとした。──これが、同じ人間のやることだとは。
すぐ側で、男の声がした。
「アイビス~~、生きてるか? 今日は可愛い弟を連れて来てやったぜ?」
──今しがた、聞き覚えのある声。たしか<ビール樽>と呼ばれていた太った男だ。まさか、折檻していた当人だったとは。
青年が僅かにみじろぎした。覇気はないが鋭い眼差しがラズに向けられる。
「誰だよ……知らねえけど」
そのやりとりを聞きながら、今度は周囲の様子を探る。
部屋の中は、他にはラズを殴った男一人しかいない。部屋の前に見張りがいる訳でもなさそうだ。
そのビール腹の男は、ラズの髪を鷲掴んで、底意地の悪い、ドスの効いた声色を出した。
「惚けんじゃねえ。コイツが鳴くのをそんなに聴きたいのか? ──ィヒヒッ」
それを想像したかのように、愉快そうに口の端を歪め、男はさらにラズの髪を引っ張った。
痛みが逆に頭を冷静にさせてくれる。
ラズは初めて声を発した。
「……この人を」
場違いなほど落ち着いたその声に、男は眉を顰める。
「この人を殴って、爪を剥がして、薬を飲ませたのは、あんた?」
「ああ?」
「それとも、誰かの指示?」
「……てめえ、アタマついてんのか? 次勝手に喋ったら殴んぞコラ」
「──やってみろよ」
低く呟き、手首の縄を錬金術で脆くして千切る。
そして、そのまま、立ち上がる。
「は? おいコラ、座ってろ!!」
男は怒鳴り散らして、髪を掴んでいない方の腕を振り上げた。
びゅん、と振り抜かれたその拳を、ラズは顔の前で軽々と受け止める。
ぱしん、と軽い音が薄暗い部屋に響いた。
「……!」
目を白黒させる男の目を真っ直ぐに見返す。
「痛みを痛みで返すのは、間違ってると思うし、許せないから殴ったんじゃ、僕も同列だ」
「……は?」
「だから、これは真剣勝負」
ざわ、と男に掴まれた髪が揺らいだ。
──黒。
薄灯りの闇に溶け込むような、漆黒の髪と、瞳。
「痛めつけたいんだろ? ……やってみろよ。後悔、させてやる」
「な、んだと」
ぞっとしたように、男は表情を強張らせた。
軽く身を捻ってその手から抜け出し、誘うように両手を広げる。
「ほら」
男は手近にあった鉈を手に取り、切れたように叫んだ。
「ぶ……ブチ殺すぞこンガキがァー!!」
踏み出された太い足が建物を揺るがせた。
しかし鉈が振り下ろされる場所に、既にラズの姿はない。
背後──
ドゴッッ
振り向こうとした横面に、上段からの回し蹴りを叩き込む。男は脳を揺さぶられたかのようにふらついて、膝をついた。
「気を失う前に言っておくことがある」
──喉から漏れた声は、自分でも驚くくらい冷ややかだった。
「覚えといて。僕の名前はラズ。心を狂わせる薬の売買は、僕が絶対に、やめさせるから」
バチチ……と、ラズを中心に淡い火花が散った。化学反応とエネルギー変換で起こした錬金術の電撃が、男の身体を通り抜ける。
すうっと白目を剥いて、男はどさりと倒れた。
「…………」
ふう、と息を吐く。
倒れた男に目もくれず、ラズは椅子に縛り付けられたままの青年に振り向いた。
近づくと、彼はみじろぎする。そういう気力がないだけかもしれないが、恐れや焦りといった様子は見られない。しかし、警戒されているのは確かだ。
「……何が狙いだ」
「敵じゃないと信じてもらうにはどうしたらいいかな……」
手をかざして、錬金術でその身体に回った薬物を解毒すると、彼は不思議そうに頭を振った。しかしこれだけでは足りないか。ここに来た理由を思い出す。
「今日、偶然この街でお姫様に会って」
「……!?」
「僕も早く、荒野に帰りたいんだけど……友達があんな顔してたらほっとけないしさ」
彼が捕まっているだろうと言った時の昏い雰囲気は、以前嬉しい楽しいとくるくる表情を輝かせていた彼女に似合わない。
この青年……アイビスを仲間に勧誘したいというのは実のところ、協力に対する負い目を彼女に感じさせないためと、帰還を遅らせる大義名分でしかなかった。
ラズがナイフも何も使わずに、手品のように太い縄や鉄の鎖による拘束を解いていくのを見てアイビスとやらは目を白黒させている。
ちなみにいつも腰に差している短剣は小屋に置いてきた。こういう状況になったときに取り上げられたくなかったからだ。柄につけていた、ピアニーから贈られたお守りの帯飾りだけは、輝石と一緒に首紐に結びつけてある。──お守りを置いてきたら失敗するとか、迷信的なことは信じていないが、なんとなくだ。
「さっきから、もしかして、それ、錬金術……か?」
彼の呟きを肯定するようにラズは少し笑った。
「ここが荒野の都市で良かった。節約をする癖が抜けないけど」
山地で苦労した分、力がみなぎるような感覚がある。
爪の復元まではできないが、青年の手足の怪我はみるみる快方に向かっていた。
「立てる?」
「……ああ」
彼は肯定したが、衰弱が激しいらしく、足元がおぼつないようだ。
ラズは彼に背中を向けて、顔だけ振り返ってにっと笑った。
「いいや、担ぐ」
青年は覇気のない落ち窪んだ眼窩にわずかに呆れた色を浮かべた。
「……無理があるだろ」
「なんとかなる……よっと」
半ば強引に、体格の良い青年をよいせと背負う。
術を使えば筋力的な問題はクリアできるのだが、このアンバランス感にはなんだか既視感だらけだ。
「この建物には詳しい? 窓から逃げようかと思うんだけど」
よろつくことなく自分を背負う、頭一つ分以上小さな少年に青年はさらに怪訝な顔をした。
「五階だぞ……?」
「へーき」
「……出て左の回廊をまっすぐだ」
「ありがと」
礼を言って部屋を出る。人気のない館の中を静かに歩き、窓に差し掛かったとき、側の扉の中から声がした。
「……そこにいるのは誰、かな?」
張りのある声はきっと囚人ではない。
「────……」
応えるメリットはどこにもない。──それに、なんだか嫌な予感がする。構わず、早くこの場を離れよう。
そのまま窓を開け放ち飛び降りる。
落下。風と重力の術を組み合わせてスピードを調整していく。
心地いい浮遊感が全身を包み込んだ。
「わっ……!」
背中から小さな悲鳴が聞こえた。
三階部分の梁を軽やかに蹴って、外壁の上を踏み越え、その外の建物の屋根に着地する。
トッ──
なるべく足音を立てないように……、屋根から屋根へ一回、二回と跳べば、みるみる館から離れていく。
「……ははっ」
微かに、笑う声が聞こえた。
「……すごいな。飛んでるみたいだ」
入り組んだ通路を走るより、障害物もなくただ風を切って跳ぶのは爽快だし景色もいい。
「嬢のことを、友達って言ったな」
「ああ──うん。気が合うし……同い年に剣で負けたの初めてだったなぁ」
「……はは、そうか。あれはなにせ警務卿仕込みだからな」
彼との間にある空気が和むのを感じる。
途切れ途切れに話をしながら、すとっと適当な場所で路地に降りた。
館の方は騒ぎにはなっている様子はない。しかし念のため、昼間の小屋の場所に直接向かわず、迂回する。
人気のない路地を足音を消したまま何度目か曲がったとき、青年がまたぽつりと呟いた。
「お前って例の、<錬金術師の少年>だよな?」
「尾ひれがついてそうで嫌だなあ、その呼び方」
おどけるように顔をしかめたのを見て、彼はただ笑った。
「……いや、実物の方がぶっ飛んでるよ。……面白いな、お前」
† † †
開け放たれた五階の窓に、一人の人物が肘をつく。女性に見紛うほど線が細く、小柄だ。吹き込む寒風が、赤銅色に透ける髪の裾をなびかせた。
表情は、分からない。顔の全面を、白い仮面が覆っているためだ。片目に装飾のついた、舞踏会に使われるようなものだが、口元は冷ややかに歪んでいる。
屋根伝いに街の暗がりに消えていく人影が消えるのを見届けて程なくして、仮面の下からくぐもった声が漏れた。やや、高めの男の声。
「……人間技じゃないなあ。──逃げたのは一体誰、なのか──」
† † †
「ただいま」
「……!?!?!?」
戸に背を向けていたクレシェン少年はびくりと大きく肩を震わせた。
「ええラ@$なんっ△ど◆×#$%!?!?」
立ち上がった勢いで椅子が床に倒れて本人もバランスを崩したたらを踏む。なんというリアクションだ。
「死人に会ったんじゃないんだから。それより、アイビスさんに水と食べ物を」
「へ…!? は……!? あ、ああ!!」
長椅子に寝かされたアイビス青年は明るく光るランタンを見上げて赤くなった目を瞬きさせた。
慌てて駆け寄った弟分から水を受け取り、ゆっくり水を嚥下しながら、青年はぽつりと口を開いた。
「……ピアがここに来てたって?」
問われたクレシェン少年は険しい顔で頷く。
「そうだよ。アイビスさんを心配して。明日も来るぜ」
「……全く、おれたちの姫君はちっともじっとしてないな。病弱の頃の方が大人しくて良かった」
「──違いねえな」
そんなやり取りをする二人を遠巻きにして、反対側の部屋の隅で片膝を立てて座ると、<猿>の方の隠密の男が歩いてきて隣の壁際に直立した。
「どんな手を使ったんだ?」
「いや全く地味に……都合よくアイビスさんと二人になれたから、背負って、窓から飛び降りて逃げてきただけで」
「大の男を背負って、飛び降りた?? そもそも縛られていたのではないのか」
「僕に拘束なんて無意味。中毒も、怪我も錬金術で治せるし」
そう言ってふああ、とラズはあくびをした。
膝に額を預け、ラズは息を吐いた。──強がってみたものの、少し身体が重い。
荒野ならば術の制限を感じなくなるからと言って疲れない訳ではない。
「……横になって寝ないのか? 忍の郷の出身か何かか」
「そんなのあるんだ。──野宿の時はだいたいこうだから気にしなくていいよ」
山脈探検で野宿していた頃は岩陰や木の上に腰を下ろしたまま寝ることがよくあった。ちょっとした特技かもしれない。
軽く目を閉じて、今日のことを思い返す。
(鉱山都市……人同士の悪意がたくさん入り乱れて、哀しい場所だな…)




