19カルヴィン・エザリントン
※カルディン・エザリントン視点です。
父が豪華な馬車で迎えに来た時、俺はこれで惨めで最低な生活から抜け出せるのだと思い歓喜した。
最悪な院長夫妻の目を盗んで、こんな生活から早く這い出したいと、叶うはずもない子供の妄想を語りながら、共に学んだセドリックや他の兄弟達を置いてきぼりにする事になんのためらいもなかった。むしろ自分が選ばれた人間だという事に優越感を抱いたほどだ。
俺の父は母が死んだ後、自らの意思であの最悪な孤児院に置き去りにしたというのに、結局跡取りに恵まれずに俺を引き取る事にした後、いくらか金を積んで俺の事を他言しないように依頼したようだった。
俺に対しても、孤児院の関係者や兄弟達に会うことを禁じたが、言われなくとも会う気などなかった。
エザリントン家での俺の生活は思っていたほど良くは無かった。
父は俺に対し無関心で、正妻――――俺にとっては継母となった女に教育を一任したのだ。
継母はエザリントン家よりも格上の家の出身で異常なほどプライドが高かった。そんな女が夫の愛人の子供をまともに扱うはずもない。
孤児院の生活より、衣食住や教育の面では比べ物にならないほどいい生活をする事は出来たのだが、精神的には最悪だった。
孤児院では院長夫妻以外は皆が等しくゴミのような扱いであったのに対して、エザリントン家ではたった一人、俺だけがゴミのように扱われたのだから。
学園に入って、俺は自由を満喫していた。あそこでは俺を虐げる者も邪魔をする者もいなかった。それなりの成績を修める俺に対し、父は少しだけ息子に興味を示すようになり、継母が邪魔をする機会も激減した。
いずれ俺が領地を継いだら、あの継母をどう扱ってやろうかと考えると愉快でたまらなかった。
二年生になった俺はセドリックと再会した。庶民が入学すると目立つから『ダリモア』という名前の庶民が入学した話は聞いていたが、昔はそんな名前では無かったから、それがセドリックだとはすぐには気が付かなかったのだ。
俺が一度だけ孤児院を訪ねたのは、それでもやはりエザリントン家に引き取られた方がマシであったと確認したかったからだ。
孤児院を訪ねて、セドリックの義父である新しい院長に抱かれて笑う幼い子供を見た瞬間にそんな思いは打ち砕かれる事になった。
俺はセドリックが妬ましくて仕方が無かった。彼は自分の才能だけで田舎の領主とはいえ、きちんとした後ろ盾を得たのだ。そして、後ろ盾となっているバトーヤ家の令嬢どころか、王太子やカーライル家の跡取り息子にまで一目置かれていたのだから。
セドリックはきっと優秀な文官になるのだろう。そして跡取りのいない良家の令嬢にでも気に入られれば将来安泰というわけだ。
俺の運命を決定的に変える事件が起こったのは夏季休暇の直前、星祭りの日だった。
星の日の政変で父は失脚、叔父が新しい領主となった。叔父には幼いが息子がいるから、俺はいずれ用済みになるのだろう。
それならば、自分の実力だけでやり直そうと学園に残る事を望んだ。だが許可を出した父の目的は別の所にあったようで、監視の目があって領地から出る事が難しい父に代わって、ろくでもない事を企む連中との連絡役をやらされる事になった。
俺としては父と命運を共にするつもりなど全くないが、王家に対して恩義も感じていないし他人がどうなろうが知った事ではない。ひとまず父に協力して様子をうかがう事にした。父は大した志も無い人間だが、領地や自分の地位に対する執着は凄まじいものがある。俺が拒否したら血を分けた息子だろうがなんのためらいも無くその手に掛けるのではないだろうか。
そして、俺が父の命で接触したのは星の日の政変で王家に対して不満を募らせている連中だった。奴らは自分たちが中心となって行う政こそ、この国を良くするのだと本気で思っていた。素直に、前のような贅沢な暮らしがしたいだけだと言えばいいのに。俺はそんな事を考えながら、保身のために父の命に従い続けた。
俺にとって王立学園は楽園のような場所だった。しかし、この夏を境に同級生たちは冷たい視線を投げかけ、時には罵倒し、嫌がらせをする――――完全に別のものに変わってしまった。
そんな時に、偶然エリカ・バトーヤと話をする機会が訪れた。茶色の緩く巻かれた髪を一つに束ね、ペリドットのようなグリーンの瞳が印象的な少女。学園で知らぬ者はいない有名人であり、セドリックの主筋にあたる彼女の事を、間近で見たのはこの時が初めてだった。
その時に思ったのだ、この女を自分の物に出来ればセドリックはどう思うだろうかと。セドリックの主にして恩人であるアーロン・バトーヤの妹である彼女は、学園一の才女だと言われているが、俺からしたら単なる世間知らずのお嬢様だ。少し話しただけで今まで何の苦労もした事が無く、皆に愛されて育った女だとすぐにわかるほどのお人好し。
俺の父が政変に関わっていたと知っているはずなのに、のん気に俺の心配をする少女。偽善的で虫唾が走るが、彼女にちょっかいを出すと飛んでくるセドリックやカーライル家の跡取りの様子を見ると爽快な気分になった。
ある日、いつものようにエリカ・バトーヤやセドリックをからかっていた時、突然彼女がこんな事を言いだした。
「あの! エザリントン先輩。虫よけ云々はさておき、私には好きな人がいるので、他の男性と親しくする気が全くないんです! だから先輩も、もっと時間を有意義に――――」
「それ、嘘でしょ?」
俺はすぐにそう思った。彼女の一番親しい人間は間違いなくディーン・カーライルとセドリックだ。特にカーライルの跡取りは彼女を憎からず思っているのがバレバレだった。しかし、彼女の方はというと、とてもそんな風には見えない。案の定、俺の言葉に顔を青くして、本当はそんな相手がいないのだとすぐに証明してくれた。
「あらまぁ……。そう言えばエリカ、シリルへの贈り物はいい物がありましたか?」
「えっ? まだだけど……なんか迷ってしまって」
「シリル?」
普段物静かなローランズ家の令嬢が、俺の知らない名前を口にする。俺が思わず尋ねるとセドリックが丁寧に説明をしてくれた。
「シリルさんはローランズ様の弟君です。……現在カーディナに留学中で、エリカ様とはとても親しい間柄です」
「そうですわ。エリカが気に入っているリボンもシリルからの贈り物ですし、他の方の出る幕など残念ながら無いと思います」
ローランズ家の令嬢がこちらをけん制するように睨んだ。ただ綺麗なだけの大人しい人形みたいな女だと思っていたが、実際には違うのだろうか。
「エリカったら、シリルから貰ったクッションをいつも抱きしめて――――」
「わぁぁぁぁ――――っ! いつもじゃないわ! あれはいい香りがするからっ!!」
その時のエリカ・バトーヤは頬をバラのように染めて、澄んだグリーンの瞳は少しだけ潤んでいた。彼女はローランズの弟に対してだけは、いつもそんな顔のまま真っすぐに微笑みかけるのだろうか。そんな想像が頭をよぎった。
「真っ赤ですよ、ふふっ。……わかっていただけましたか? エザリントン先輩」
「ライラのバカ! もう帰る!!」
顔を真っ赤にして食堂から立ち去った彼女の事を俺は呆然と見送った。
「……意外と早かったね。あれって自覚あるのかな?」
「どうでしょうか? はっきりと自覚してはいないと思いますけれど、時間の問題ですね」
全く動じる事のない王太子とローランズ家の令嬢の話は、ほとんど俺の耳をすり抜けて行った。
俺は自分がどうしようもない人間だという事を十分に理解して、そんな自分自身の事を客観視して楽しんでいるつもりでいた。
セドリックやエリカ・バトーヤ、ついでにその向こうにいるアーロン・バトーヤを踏みにじって遊んでやっているつもりでいたのだ。
でも実際には、ただあのペリドットのような澄んだ瞳に自分の姿が映し出されるのが見たかったというだけの事だったのだ。もしそれが叶ったのなら、生まれてから一度も満たされた事がない自分の心が満たされるのではないかと思い、ただ彼女を欲しただけだった。
今さら自分の幼稚な感情に気がついても、彼女が俺の欲している笑みを向けてくれる事は無いのだとわかっていた。
秋になり、いつものようにこの国にとっては不穏分子と言える者達と接触するために王都の歓楽街へ向かった。計画を実行する日が近づいた事もあり、俺は父から領地に戻るように命じられていた。現在の領主は叔父であるはずだが、何か弱みでもあるのか叔父は俺の父に逆らう事はせず、実質的なエザリントン家の当主はまだ変わっていないようだった。
もうすぐ王都を去るのだと油断していたせいか、内心自分が捕まって全て終わりにしたかったという思いがあったのかは自分でもわからないが、その時に限ってセドリックに会ってしまった。
セドリックは俺が退学する事など知らないのだろう。賭博に手を染めているのだと思ったのか、こんな所に出入りすれば退学になると必死に訴えていた。セドリックも俺と同様に家族に恵まれず理不尽な思いばかりしてきたはずなのに、随分と真っ当な人間に育ったものだと感心してしまった。
養父の影響なのか、それともエリカ・バトーヤあたりに感化されたのか、彼はもう俺の知っている弟ではなかった。
王太子とも関係のあるセドリックと俺が一緒にいるところなど、密会相手に見られるわけにはいかなかった。俺は声を荒げるセドリックを思いっきり殴りつけてその場を離れたのだ。
*****
エザリントン家の領地であるグストリムに戻った俺は、最低限の使用人しかいない父の隠居先で暮らし、今後について悩んでいた。
父はもう一度政変を起こして、権力を手にしたいと考えている連中に加担している。
この国は戸籍制度がしっかりとしているため、父から逃げて一人で生きていこうとしても正規の職業に就く事は難しい。いっそ政変が今度こそ成功する事を祈ってこのまま協力するべきか。そんな事を考えながら季節は冬になっていた。
彼らの計画は、王太子の婚約に伴い特使としてやって来るカーディナの王子を海賊船に見立てた船で襲い捕らえる事。そして、カーディナの王子の護衛のためにサイアーズに集まっている兵と対処のために新たに派遣された兵を足止めし、手薄になった王都で別動隊が国王と王太子を暗殺、投獄されている元宰相を解放するというものだった。
いよいよ計画実行前夜となった時、俺は父から意外な名を聞いた。
「特使の船にはあのローランズの息子が同乗しているそうだ! なんと幸運な事だろうな!」
隣り合う領地だが、貿易港として格上のサイアーズを領地とし、国で一番の魔術師の家系でもあるローランズに対し、父は劣等感をいだいていたのだ。そのローランズの息子も一緒に捕らえるのだと父は笑った。
「シリル・ローランズ……ですか?」
それはエリカ・バトーヤがその名を聞いただけで頬を染めていたローランズ家の跡取りの名前だった。シリル・ローランズの名を聞いて俺は激しく動揺した。
朝にはグストリムの港から船に乗り、途中の無人島で海賊船に偽装した船に乗り換え、特使の乗った船を拿捕しようという計画だが、その晩は全く眠る事が出来なかった。
シリル・ローランズに何かあったら、エリカ・バトーヤとセドリックはどうするだろうか。そして、俺が計画に加担していたと知ったら――――。もう関わる事のない彼女の事など気にする必要はないのに、目を閉じると彼女の瞳から光が失われる様子を想像してしまいどうしても眠る事が出来なかった。
そして空が少しだけ明るくなり始めた頃、俺は計画の全貌を書き記した手紙を持ってひそかに屋敷を出る事にした。
エリカ・バトーヤの事を気にしたわけではない。単純に父を裏切って、この計画を王太子に伝えれば身の安全と真っ当な職くらいは用意してもらえるだろう――――それが理由だ、そう自分に言い聞かせた。
「どこへ行くつもりだ!」
「…………」
「引き取ってやった恩も忘れて、裏切るつもりか!」
父の顔は怒りでひきつり、腰に下げていた剣の柄に手を掛けていた。
「父上、こんな計画に加担するより残っている領地を叔父上と一緒に守る方がよっぽど豊かな生活が出来ると思いません――――ぐっ!!」
話を聞く事もせず、父は抜き放った剣で俺の脇腹を刺した。その時の俺の心にあった感情は父に捨てられた悲しみではなく、やはりそうかというあきらめに似た感情だった。
「とどめを刺しますか?」
父の部下が倒れた俺を見下ろして、そう言った。
「いや、この傷で遠くへは逃げられんだろうし長くは持つまい。こんな者に構っている暇はない! 納屋にでも閉じ込めておけ」
このまま手当をしなければきっと俺は死ぬだろう。結局、父が殺した事に変わりはないのに、その瞬間を見る事にはためらいがあるのだろうか。どうせ死ぬのなら中途半端に放置して苦しませる方がよほど残酷だ。それとも、父は裏切った息子を苦しませたくてあえてとどめを刺さないのか。だとしたら本当の屑だ。
屋敷の二階にある納戸のような狭い部屋に俺は引きずられるようにして連れていかれて閉じ込められた。
灯りのない部屋だが、窓から少しだけ光が入り込む。床に倒れた状態で部屋の中を見回すと綺麗にたたまれたシーツが几帳面に折り重なって置かれているのを見つけた。
俺はそのシーツを切り裂いて、脇腹の止血をした。痛みで冷や汗が出るし、出血のせいか意識が混濁して思うように手が動かない。それでも何とか切り裂いた布を腹に巻き付けてほどけないようにきつく結んだ。
途中で意識が朦朧としていた時間があったかもしれないので、正確な時間がわからなくなったが、何頭かの馬の走り去る音が聞こえて、それきり屋敷から物音がしなくなった。
この屋敷には父と計画を知る部下くらいしか出入りしていないので、おそらくは出立の時間が過ぎて全員出払ったのだろう。
ならば、自力で抜け出すしかない。一般の家庭とは違い、魔術を扱える者が出入りする建物には魔術では開錠出来ない陣が組み込まれている。この屋敷の鍵も全てそうだ。俺は小さな窓から脱出する事にした。
部屋に窓がある事はもちろん知っていただろうが、この怪我で二階から飛び降りるとは思わなかったのか、それとも例え脱走してもグルトリムから脱出する前に力尽きると思っていたのか。どちらにしてもなめられたものだ。俺の母親は魔術を使えない人間だったので、俺自身も魔術の成績は悪い。だが何も出来ないわけではなかった。
俺は落下地点に衝撃を吸収する魔術を起動させてから飛び降りた。
地面に落ちた瞬間、もう一度剣で突き刺されたような激しい痛みに襲われ、しばらくその場から動けなくなった。それでも何とか厩舎まで歩いて、残されていた馬に跨った。
俺はどこに向かうべきなのか、はっきりしない意識の中で必死に考えた。現在の領主である叔父は正直、誰の味方をするか読めない。現在、父に協力しているとは考えにくいが父が船に乗り込んで海に出たこの状況では、父を説得して計画を中止させる事は不可能だ。もし、俺や叔父の情報提供で計画が失敗に終わったとしてもさすがに領地没収を免れる事は出来ない。それを考えたら叔父が計画を手助けする可能性だってある。
そうなると、俺が行くべき場所は王都かサイアーズという事になる。サイアーズの方が少しだけ近いのだが、俺が急に現れて、ある程度の身分の人間と話が出来るまでいったいどれくらいの時間が掛かるだろうか。怪我をしている状態の俺を門前払いする事はないかもしれないが、正直わからない。
王都に行ってエリカ・バトーヤかセドリックに会えれば、もしくは学園に行って教師の誰かに話をすれば、間違いなく王太子にすぐに連絡を取ってくれる。俺はそう考えて王都を目指す事にした。