33季節外れの六花(第一部最終話)
砂浜に降りると先程まで居た領主屋敷の裏に太陽が隠れて長い影を落としていた。
シリルに誘われて浜に置かれていた太い丸太の上に二人並んで、腰を下ろす。
「どうですか? 海を見るのは初めてなのでしょう?」
「うん。…………綺麗で、なんだか圧倒されるわ。あの海の先には別の大陸があって、全然違う肌の色の人間が住んでいて、見た事もない動物がたくさんいるのよね…………」
ぼんやりと波の音を聞きながら、少し弱くなった風を感じ海を眺めていると、シリルがためらいがちに話し始める。
「エリカ、僕はもうすぐあの海の向こうのカーディナ国に行きます。エリカとはしばらくお別れです」
一瞬、時が止まってしまったのではないかと思った。逆光でシリルの顔がよく見えない。
「何言って…………」
「あちらだと僕の歳でも学校に通うみたいなんです。叔父が大使として駐在していますので、そこでお世話になって色々な事を学びたいんです」
そしてシリルはかなり前からカーディナに留学をするための準備をしていたのだと教えてくれる。身代わりとはいえ一度は学ぶ環境に身を置いていたのに、あと一年半という長い期間を遊んで過ごす事には耐えられない。だったら入学までの一年半はカーディナで学んでこようというのがシリルの思いだ。
「こっちにいたって、私塾とか教師を招くとか方法はあるでしょ!? 王都の屋敷にいてくれたら休日は私が先生になってあげるわ!」
「ごめんなさい。勉強の事だけじゃないんです。……叔父の仕事を手伝って早く立派な人間になりたいんです。エリカに教えてもらってばかりじゃ、一生あなたに追いつけないしディーン様にも勝てない!」
「…………でも」
私は何と言えばシリルが思い直してくれるのかを必死で考えた。
「エリカ……僕はあなたの事が大好きです」
「私だって! シリルが女の子でも男の子でも大好きよ!」
「僕の好きは将来結婚したいという意味の好きですよ。エリカの好きと種類が違うんです。僕はあなたのために…………いいえ、自分のために誰よりもあなたにふさわしい人間になりたいんです!」
私は言葉に詰まってしまう。外国で様々な事を学びたいというシリルを止める権利など、そもそも私には無い。せっかく出来た大切な友人と一緒に居られなくなるのが嫌だという私のただの我儘だ。
私の好きとシリルの好きは種類が違うのだと彼は言う。私はシリルの事を親友だと思っていたし、男の子だと知った今でもそう思っているのだからシリルの言葉に反論は出来ない。それでも、心の中がモヤモヤする。自分の『好き』を表す言葉が見つからないからだ。
家族以外で、シリルよりも親しいと感じる人も大好きだと感じる人もいないのに、なぜ一緒にいられないのか理解出来ない。シリルの未来を左右するような決断に私が口を挟む権利は無いと頭ではわかっているのに、とにかく受け入れたくない。
「でも、私はそんなの嬉しくない! 一緒にいたいのに!!」
「わかってください!!」
シリルの強い口調から、私が何を言っても聞き入れてはくれないのだと伝わる。寂しくて悔しくて涙が零れた。
「わからないっ!! シリルのバカっ――――!!」
私は悪態をついた勢いのまま立ち上がり、とにかくその場から走って逃げだす。シリルは私の事を追って来なかった。
無意識にローランズの屋敷まで戻って来ると、屋敷の門の前にディーン様が立っていた。
「あーあ。やっぱ、こうなったか…………」
ディーン様はシリルが私にどんな話をしたのか知っているようだった。私より先にサイアーズに着いていたのだから、すでに聞いていたのだろう。
「やっぱりって何ですか!? わかったような口振りはやめてください!」
自分で言いながらこれはひどい八つ当たりだという自覚がある。でも自分の口から出る言葉を止める事が出来なかった。
「なんで男の人って皆勝手なの!? 皆そうだわ! 私のためとか!! 望んでないのに勝手に決めちゃって。私は誰かに守ってもらいたい訳じゃない!」
兄もシリルも同じだ。私のためだとか、私の事を想っていると言いながら、私の事を泣かせているのはそういう事を言っている彼らの方だ。
たぶん私は何とも思っていない人に何を言われても悲しくなんてならない。シリルの事が大切だから傷つくのだ。
私は思い付く限りの不満をディーン様にぶちまけた。
「それで? あと一週間しかないのに、そうやってずっと拗ねているつもりなのか? 時間を無駄にしない方がいいんじゃねぇか?」
「でも…………」
今、シリルから逃げ出して来たというのにどんな顔をして戻ればいいのだろう。でもディーン様の言う通りこのままでは最後の思い出作りも出来ないままシリルが遠くに行ってしまう。
「もうすぐ日が暮れるし、早く戻ってやった方がいい」
促されて、私はシリルの所に戻る決心をした。
「ディーン様、ありがとうございます」
ただ不満や愚痴を聞いてもらっただけで、私の心はなぜだか少し晴れていた。
「おう…………なんで俺が敵に塩を…………」
「え? 何か言いました?」
「うるせぇ。早く行けよ」
彼は少し照れた表情で、もう一度私の事を促した。
私は今来たばかりの海沿いの道を急いで戻る。浜へ降りるとシリルはまだ同じ場所に座っていた。
「シリル、ごめんなさい! …………帰ろう?」
私がシリルの顔を覗き込むと、彼の瞳は少し潤んで必死に泣くのを我慢しているようだった。私がシリルの言葉で簡単に傷つくように、彼もまた私の言葉で同じように傷つくのに。さっきはなんであんな態度を取ってしまったのだろう。
「あのね、手紙を書いてくれる?」
それが、今の私にとっては精一杯の言葉だ。本当はシリルの留学を応援するとはっきり言った方がいいのかもしれない。でも今さっき聞いたばかりの事をすんなりと受け入れる事は出来ず、内心ではハーティアにいてほしい、こちらでも学ぶ事は出来るはずだと思っているのだ。
「…………もちろんです」
「明日は、一緒に街へ買い物に行ってくれる?」
「はい」
シリルはそこではじめて顔を上げて私の方を見てくれた。
「帰ろう! 泣いたらお腹が空いてしまったわ」
「僕もです」
私達はまだ少しぎこちなく、それでもしっかりと手を繋いで海沿いの道を歩いた。
出立までの一週間はシリルやライラと一緒に過ごした。セドリック君は貿易の仕事に興味があるようで、シリル達のお父様にお願いをして港の管理を行う施設を見学したり大型船の内部に入れてもらったりとほとんど外出していた。
王太子殿下とディーン様は一旦王都に帰っていたのだが、シリルの出立の日だけは再び駆けつけてくれた。
殿下にとっては未来の義弟になる存在だし、ディーン様も言い争いをしながらも可愛がっている様子だから、見送りをしたいのだろう。
「それでは、皆さん。行って参ります」
小さめの鞄だけを持ったシリルが桟橋の手前で私達に別れの挨拶をしてくれる。
桟橋には大型船が停泊していて、よく日焼けをした屈強な船乗り達が忙しなく出港の準備をしている。
「おう。気を付けろよ」
「ライラの事は私に任せて、カーディナへ行っても学業に励むようにね」
「シリルさん。頑張ってください」
「叔父様の言う事をしっかり聞いてね」
ディーン様、殿下、セドリック君、ライラがそれぞれ別れの挨拶をする。私は涙を止めるのに必死で喉の奥が締め付けられるような感覚になり言葉が出ない。
「そうだ! エリカ。ちょっとこっちに来てください」
「ひっく、ひっく……なっ何?」
私がシリルの側に行くと、シリルが私の涙を優しく拭ってくれる。
「しばらく会えないのに最後に見たのが泣き顔なんて嫌ですよ」
「でも、でもっ…………」
涙を止める方法なんて私は知らない。ノースダミアに居た頃、私はこんなに泣き虫ではなかったはずだ。
シリルは涙を拭いてくれていた手を私の頬に添えたまま、ゆっくりと顔を近づける。長い睫毛とアメジストのように澄んだ瞳がすぐ近くにあるなと思った瞬間、私の左の頬に柔らかくて温かいものが触れる。
「!!!!」
「…………ほら、止まったでしょ?」
私から離れたシリルは満足そうに微笑んで私の反応を見て喜んでいる。
「シ、シ……シリル?」
頬が異常に熱くなった。唇が触れた部分だけではなく、反対側の頬も同じように熱いから私自身が発熱しているのだ。
「意外ですね。僕の事、ちゃんと男の子だと思ってくれているんだ? …………これで、半年くらいは他の人の事を考えないでいてくれるかな? ふふっ」
嬉しそうにするシリルの表情は何度も見た事のある、いつも通りの笑顔なのに、なぜか今日は少し怖く感じた。本当にこの男の子は私の知っている人なのだろうかと不安になる。
「餞別だ。受け取れ!」
言葉と同時にシリルの脳天にディーン様の拳が炸裂する。さすがに男同士だと容赦がない。一応、私に対しては手加減してくれていたらしい。
「うぅぅっ! 何をするんですか!? 嫉妬ですかっ!? ディーン様も悔しかったらやってみれば…………って、ヘタレには無理でしたね。ごめんなさい?」
拳の直撃を受けた頭を両手で抑え、シリルはディーン様の事を思いっきり睨んで言葉で反撃する。
「んな事、誰がするかっ! お前みたいな色ボケのマセガキと一緒にすんな!!」
二人の言い争いを見ていたら、なぜだか楽しくなり、自然と笑顔になる。
「あなたの笑顔が見られてよかった! それでは本当に行って参ります」
そう言って、シリルは桟橋を歩き船上へ繋がる階段を上がって行った。
*****
夏期休暇の最終日、私は学園の寮へ戻った。
兄の話では、今回の一連の騒動で教職員の数名が免職となったそうだ。
そして、学生も何人かが学園を去る事になってしまった。ハーティアでは親の罪が子供に及ぶ事は無い。だが、親が地位を失えばそれまでと同じようには暮らせない。
実は今回、国王陛下と王太子殿下の命で特例措置として在学中の生徒向けの奨学金制度が設けられたのだが、それでも学園を去る事を選んだ学生がいたようだ。
この奨学金制度は決して善意や温情で設けられた訳では無い。
王家に対して忠実な未来の臣を育てるため、王家に対する不満や批判を子息達を保護する事によってかわす狙い、そして失職や左遷で王都を離れる人間の身内を王都に残す事により不穏な動きを封じる――――人質の役割があるのだ。
おそらく残った学生は学園内で辛い立場に立たされる事になるだろう。私がどうにか出来る問題ではないのかもしれないが再開される学園の生活で、私が一番心配している事はその事だ。
扉を開けて入った私とライラの私室は、まだライラが来ていない事もありガランとしていて寂しく感じる。
初めてこの扉を開いた時に立ち上がって出迎えてくれた『ライラ』はもう居ないのだ。
持ってきた荷物を整理しようとベッドの方に目を向けると、私の持ち物ではないクッションが置いてある。
深い緑色の布に白い糸で雪の結晶の刺繍がされているかなり手の込んだ物で、持ち上げるとほのかに花の香りがする。
そして私はクッションの下に一通の手紙が置いてある事に気が付いた。
差出人の名前は確認しなくてもシリルなのだとわかっていた。
『親愛なるエリカ・バトーヤ様
本来なら、休暇の前にお渡ししたい物があったのですが、星祭りの夜からお会いする事が出来ずここに置いていく事にいたしました。
お渡ししたいものというのは僕が刺繍をしたクッションです。あなたからハンカチを頂いた時に上手に刺繍が出来るようになったら最初にプレゼントをすると約束しましたよね。寮の部屋で使える物がいいと考えて作りました。
最初に会った時にノースダミアの雪の話をしました。王都ではあまり雪が降らないですし、エリカの故郷とは気候が違います。雪を運ぶ事は出来ませんが刺繍にすれば儚い物でもとどめておく事が出来ると思ったのです。
真夏にふさわしい柄ではありませんが、少しでも涼しい気分になってくれたら嬉しいです。
エリカに会えなくなる事はとても寂しいですが、僕は一人で頑張ってみたいと思っています。
何よりもあなたの幸せを願って――――シリル・ローランズより』
男の子であるシリルは課題が終わったら刺繍の練習なんてする必要はなかったのだ。おそらく私との約束のためだけに真面目に練習してくれていたのだ。
不器用で何にでも一生懸命なシリルの事を想うと、胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感で涙が溢れてしまう。
シリルのくれたクッションの中にはおそらく香り袋が入っている。心が落ち着く花の香りのはずなのに、なぜか心の穴が大きく広がっていくようで苦しかった。
たぶんこの感情は『切ない』という気持ちなのだろう。それは今まで感じた事のない、私の知らない気持ちだった。
第一部・完
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
第二部開始まで、しばらくお待ち下さい。