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月下氷人

作者: 堕天王

暴力描写を含みます。

第一部『前兆』


 風が、身を切るような冷たさと、心を凍らせるほどの殺意で泣いていた。

 その凍てつく風が、氷を生み、人を包括して散らばっていた。そんな、冥界の氷室(ひむろ)のような様相に成り果てた小屋に、まだ七歳程度の少年が一人。

 寒さか、恐怖か、その両方か。

 少年は、薪を抱いたまま固まっていた。

 その視線の向こうには、女がいる。

 年の頃は、同じぐらいにしか見えない女――少女が一人。

 白い衣を着て、白銀の髪をなびかせ、男の上に覆い被さっている。

 男の顔は青白く、ツララが垂れ下がっていた。


 いつもの夢にうなされ。

「望ちゃん?」

 目を覚ますと、そこにまた空寒いものを見る。同居している従姉の黒木羇佐(きさ)の瞳。彼女の瞳が青く見えていたが、少年――立川望は、それが錯覚である事を知っている。その証拠に、彼女の瞳はいつものような優しい黒い瞳に戻っていた。

「また・・・悪い夢を見たの?」

「・・・大丈夫。もう、慣れてるから」

 いつの頃から見始めたのだろうか。

 奇怪で、奇妙で、空恐ろしい夢。

 見るたびに、全身から汗が噴出し、布団を濡らす。それなのに、体は生きているのが不思議なぐらい、冷たくなる。

 望は、この夢を『雪女の悪夢』と呼んでいた。

 短絡であるが、的を射たこの言葉。

 記憶にはない。

 なら、この夢が暗示するものとは。

 ただの脳内の暴走とは思えない。

 この夢の意味を知るとき、望は始めて自分が望として生きられるのでは、いつしかそう思うようになっていた。

 そう、今は自分が自分であるとは到底思えない。

 いつも付きまとうは、仮初(かりそめ)の世界の気配。

 屏風に描かれた、幻の夢。

 夢と夢が反転する時、初めて夢から覚めるのだ。


 起しに来た羇佐は、居間へと戻り、せっせと今日の弁当を作り始める。まな板を叩く包丁の音や、肉の焼ける香ばしい匂い、そんな朝の幸せを演出する気配の中、望は欠伸を噛み締めながら、服を着替えた。

 望が、居間に出てくる頃には羇佐は弁当を作り終え朝の食事をテーブルに運んでいた。

 いつも通り、朝の挨拶を交じらせ、望も食事を運ぶのを手伝う。その合間に、テレビをつけ、いつも通りのチャンネルにあわせる。すると、すぐにローカルニュースが流れ始めた。

 今日は、望達が住むこの櫻町よりもかなり南方の町に訪れているようである。なんとものどかなその映像を眺めながら、素麺の入った味噌汁を啜る。

 そんな最中。

「今日は、漢字の小テストがあるけど、望ちゃんは勉強した?」

 望は、目をパチクリさせて――ふと、思い出して苦い顔。

「・・・してない。今日だっけ?」

「うん・・・してないの?」

「忘れてた」

「あぁ、やっぱり。一言言えばよかったね」

「いいよ、どうせ無駄だろうし」

「そんな事ないよ。やるとやらないでは、大きく違うんだから」

 咎めるような口調だが、羇佐が言うとまるで切迫感がない。

 羇佐は、黒い髪を長く伸ばし、その長さは今のように畳に正座をすると、畳についてしまうほど。黒い瞳は、いつも優しさで満ち、その細さは人に安らぎをもたらす。

 全体的に、清楚でおっとりとした感じの羇佐。この夏場であっても、その素肌は白い。日焼けすると赤くなる肌を持つ彼女は、紫外線対策にはかなり敏感である。色んな人にうらやまれるこの肌なのだが、その裏にはかなりの努力があるのだ。それは、この黒い髪にも言えること。この髪のせいで、彼女は朝起きるのは四時ぐらいなのだ。

 美を維持する事の難しさ。怠惰な者が、それをうらやむのは失礼というものである。

「分かったよ。学校に着いたら、目を通しておくよ」

 羇佐の言葉にいくら切迫感がなかろうとも、もしここで彼女の意に反するような答えを返すそうものなら、途端にややこしくなる事を望は知っている。

 どこの馬鹿が言ったか。

 涙は、女の武器だとか何とか。

 その言葉が当てはまらない者もいるにはいるが、羇佐の場合は武器というか最終兵器といっても過言ではなかろう。

 泣くと、引きこもるのだ、彼女は。

 羇佐は、満足な答えが返ってきたので上機嫌の笑みを浮かべた。その笑みに気恥ずかしさを感じた望は、何気なく窓の外に視線を転じる。そこには、羇佐の笑みと同じぐらい目が眩む夏の太陽が輝いていた。


 望と羇佐が住んでいるのは、櫻町の北にある町営団地の五階。築二十年のおんぼろ団地である。そのおんぼろ具合は、団地の側面に亀裂が走っているぐらい。地震でも起きれば、根元からぽっきりであろう。

 そんなおんぼろ団地であるが故、階段の天井にはくもの巣が張ってあり、手すりは緑の塗装がボロボロになって、見苦しい事この上ない。牛乳ビンを入れる木の箱なんかも置いてあるが、あれは開けると大量のゴキブリさんとご対面しそうな勢いである。望は、一度だけ経験した。おかげで、虫はダイッ嫌いである。

 そんな陰気な団地から外に出ると、朝の清涼な空気も、淀んでいるようなそんな気にさせるほどの、暑さ。

「アチィ・・・」

 蝉時雨の中、望は思わずそう零した。

「うん、夏真っ盛りだね」

羇佐が日傘を差す。その姿は、どこかのお嬢様のようであり、一部の人間からはえらくひんしゅくをかっているが、羇佐にとっては切実なのだ。彼女は暑さには本当に弱い。こんな太陽のギラツク中を歩けば、すぐに熱中症である。羇佐も好きで差しているわけではないのだ。

「あれ? どうしたんだろう?」

 坂を下り、階段を下りようとした望は、団地のすぐ傍を流れる川の向こう側に人だかりができている事に気付く。赤いランプがちらついている所から、どうやら警察も来ているようだ。なんとも、朝から物騒な気配である。

「事故でもあったのかな」

 羇佐も小首をかしげている。

 この事件の真相を知ったのは、学校に付いてからであった。

「鋭利な刃物で一突き?」

 望がクラスメートの言葉を反芻する。

「そうそう、心臓一突きでさ、俺が来た頃にはもう死体片付けられてたけど、三十台半ばの男だったらしいぜ」

「怖いねぇ」

 顔を曇らせて羇佐が言う。望と羇佐は、二人暮し。こういう話題に、純粋に恐怖を感じてもおかしくはない。だが、そうではないこのクラスメイトは。

「ふふふっ、この町に殺人鬼が歩いているなんて、大正ロマンだねぇ」

「大正ロマン?」

「猟奇は、大正が基本よねぇ〜」

 ナミナミ、クネクネ、楽しそうに話している。そんなクラスメイトに、望は呆れかえった顔で一言。

「頭見てもらえよ、お前」


 炎天の太陽の光を浴び、煌く海。静かなる、波の音。どこまでも続いているのではないかと夢想してしまう、海岸線に一人の男の姿。

 服装はジーパンと白いカッターという何の変哲もない格好で、髪は少し長め。その髪を首筋辺りで結びまとめている。細い瞳に青き海を映し、まるで時間が凍りついたかのようにそこから動こうとはしない。そんな彼の傍に、少しばかり丸みを帯びた三十代の男が走り寄ってきた。

彰人(あきひと)様!」

 汗をダクダク流し、臭そうな事この上ない。彰人と呼ばれた男も、少しばかり嫌な顔をして、少し体を逸らす。

「なんだい? 圭二。ダイエットなら、僕は付き合わないよ。今のところ、理想体重なんでね」

「いえ、そうではなくて・・・」

「それなら、好みの女でも見つかったかい? その年で結婚していないのは、僕はどうかと思うよ」

「正人のことで・・・」

 その単語が彰人という男の瞳を変えた。恐ろしく冷たい、悪魔の瞳。圭二と呼ばれていた男は、心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。

「どうして、死体を始末しなかったか。そんなくだらない事を聞きに来た訳だ。僕が、脂っこいものが嫌いだというのを知っていて・・・ふ〜ん、どうしようか?」

 殺される。

 圭二の心にエマージェンシーコールが煌く。思わず、足が後ろに下がっていくそんな圭二を、彰人はうすっらとした笑みで見つめていた。危険な笑みだ。

「し、しかし、この町は橘家の管轄です。彼らに知られれば、厄介な事に」

「そうだね。確かに。けど、その答えは模範解答にもなっていないよ。君は、昔からそうだ。そう、何年経とうが、これから何年生きろうが、無能、という事さ。肉団子君」

 彰人は、ポケットから数珠を取り出し、一歩歩を進める。砂を踏みしめる音が、圭二の体を駆け巡る。

「クビだよ、君は。死んで詫びろ。そして、故郷に帰りな。魂だけでもな」

 彰人の数珠が一閃した時、圭二の首から上が消え去っていた。断面が焼き爛れたようになっている為、血はでない。まるで冗談のように、圭二はその場に倒れ、波に攫われていく。

「それに、僕は忌部(いむべ)家の人間が嫌いなのさ。いくら僕の為に尽くしてこようが、元は一緒なんだよ、お前らは。そんなお前らは、見せしめで充分だ。これは宣誓布告なのだよ。あの女と忌部家のな」

 彰人の口から、歌が零れた。綺麗で儚い、そしてどこか懐かしい歌が、海へ、空へと溶け込んでいく。

 その歌は、悲劇と狂気のファンファーレ。

 彰人が微笑む。

 狂気という名の仮面をつけて。


 学校を終え、夕食の買い物も済ませた羇佐と望。望は、ビニール袋を一つ携え、そして羇佐は真っ白で大きな蕾をつけた花を持って歩いていた。

 商店街で、羇佐が欲しそうに見ていたので、望が買ったのだ。

 名は、カサブランカ。ユリのお友達のようなものである。

「羇佐は、その花が好きなの?」

 嬉しそうに花束を持つ羇佐は、控え目に頷いた。

「うん・・・けど、お手入れ大変だし、匂いもすごいから。望ちゃんに、迷惑かなっと思ってて、買えなかったの」

「そんな事、気にしなくていいのに」

 羇佐は、いつもそうだ。望に迷惑がかかるからといって、いつも自分を押し殺してきた。それが義務――いや、強迫観念のように。

 今も、望の言葉に恐縮して弱々しい笑みを浮かべている。けど、望は気にしないようにした。それが、いつもだからである。

 夕日が、羇佐の顔を照らす。切なさをもたらすその輝きを浴びた羇佐が、途端に遠く感じた。

 これもいつもだ。

「望ちゃん、どうしたの?」

「あ、ううん、なんでもないんだ」

 言葉を濁す。そして、笑みを繕い、都合の悪い思いに蓋をして見えなくする。そんなことしかできない。この幸せが壊れるなんて事、考えたくもなかった。

「望ちゃん、あれを見て」

 唐突な羇佐の言葉。彼女が指差す先には、三本ばかり並んでヒマワリが大輪の花を咲かせていた。そのシンプルでいて、強い色彩を放つ夏固有の花に、羇佐に続いて、望も目を奪われた。

「ヒマワリって・・・こんなに綺麗な花だったんだ」

 いつもは何気なく見過ごしていたヒマワリ。夏になればどこでも見られるため、あまり関心の及ばない花だが、いざじっくり見ると、その美しさは人に新たな感動を呼ぶ起こさせる。望の危惧も、ヒマワリの花によってかき消された。


 カサブランカは、玄関に飾られた。

 なんでも、花を咲かすと強烈な匂いを撒き散らす為、匂いが移りかねないというのだ。その後で羇佐は。

「嫌な匂いじゃないんだけどね」

 と、申し訳程度に付け加えた。

「すぐにご飯作るね」

 花を生け終わった羇佐は、早速夕食の準備に取り掛かった。それも鼻歌交じりで。かなり上機嫌のようである。こんなに嬉しそうにしている羇佐を見るのも、望は久しぶりだった。

 望はそこでテレビをつける。

『昨夜未明、――県櫻町で身元不明の男性の死体が発見されました』

 今朝の事件。僅かな驚きを覚えつつも、望は漠然とそのニュースを見ていた。

 場面が変わる。

 現場の様子が映され始めた。

 現場の近くは、ロープで区切られていて、キャスターがその近くで必死に事件のあらましを説明している。その後ろに、じっとカメラの方に顔を向けている男がいた。

 刹那。雷鳴が走るかのように脳裏が煌き、視界がぶれる。


 この人・・・。

 この人を僕は知っている。

 けど、誰なんだ。


 広い屋敷。

 広い庭。

 大きな池。

 そこに佇むあなたは・・・。

 あなたは・・・。


「望ちゃん!」

 羇佐の言葉で、我に返る。その時には、もう今朝の事件の報道は終わっていた。

「大丈夫、望ちゃん」

 放心している望の顔は、真っ青。心配する羇佐に。

「なんでもないよ・・・」

 望は、そう答えた。

 羇佐はためらいながらも、望の言葉に頷いた。

 二人の間に、なんともいえない沈黙が広がる。

 頭を抱え渋い顔をする望を、羇佐は不安げに見守っていた。



第二部『疑惑』


 月明かりに照らされる中、一人の女が悠然と立っていた。その周りを取り囲むように三人の男。どの男も手には刀を持っている。一触即発の気配に、女は溜息をついた。場違い過ぎるほど、綺麗な声で。

「私は、ただこの幸せが長く続けばいいと思っているだけなのに・・・あなたたちは、それさえ許してくれないのね」

「ふざけるな。モノノケの分際で」

「なら、もう少し周りには気を配る事ね」

 女は、男のすぐ真後ろにいた。

胸を貫く、青白い刃。

驚愕する男の唇から血が滴る。男は、目の前にいる女と後ろにいる女を見比べ呟いた。

「どういうことだ・・・?」

「知る必要はないわ」

 青白い刃が抜かれ、男が倒れる。他の男達は、ようやく我に帰り武器を構えるが、そんな彼らの前で手前にいる女がいきなり破裂した。

 猛烈な冷気を伴った風が吹き荒び、男達は思わず目を覆ってしまう。その間に、二人の首は呆気なく地面を転がった。

 そして、女はこっちを見た。

 青く底冷えするような冷たい瞳で――。


「・・・はっ!」

 飛び起きた望を、月明かりが照らす。

 全身から汗が噴出し、四肢が震えていた。それなのに、指先が凍りついたようにピクリとも動かない。

目を閉じると、青い瞳が――。

 あの青い瞳が――。

 瞳が――。

「き・・・羇佐?」

 重なった。

 羇佐と夢で見た女が。

 その途端、望は立ち上がり、羇佐の部屋へと急いだ。

「羇佐!」

 襖を開け放つと、羇佐は眠っていた。そして、望の声で目を覚ました。

「どうしたの、望ちゃん?」

 眠そうに目を擦る羇佐は、切羽詰った望の顔を見て。

(これって・・・これって・・・もしかして・・・もしかするの?)

 なにやらいけない想像に走ってしまった様子。顔を赤らめて、とりあえず布団を手繰り寄せる。

「望ちゃん・・・」

 戸惑いと恥じらいと、布団を手繰り寄せるその姿は煽情的であったが、そんな勘違い甚だしい羇佐の姿など、望の目に入っていなかった。

 ただ、そこに羇佐がいる。夢が否定された。その事実だけが、今の彼の心に去来していた。

「ごめん・・・シューはどこにあるかな?」

 ちなみに、シューとは殺虫剤の事である。

「へっ?」

 恥ずかしそうに言う望の言葉に、羇佐は妙な返事を返してしまう。

「ジュースを飲もうと思ったら、台所にゴキさんがいたから」

「シューなら、テレビの前に転がってたよ」

「ありがとう、起こしてごめんね」

 パタッと閉められる襖。羇佐は、呆然――そして、すぐに布団にもぐりこんだ。

「・・・恥ずかしい・・・死にたいよ」

 とんでもない勘違いをしていた事にようやく気付いた羇佐は、より一層顔を真っ赤にして丸くなってしまった。


 団地には、シャワーという便利なものなど付いてはいない。風呂に入るなら、もう一度沸かしなおさなければならない。

 その間に、ジュースを煽り、一呼吸吐く。

 時計の針の音が、小刻みに聞こえてくる。静まり返った部屋の中、望は先ほど見た夢を忘れようと心がけていた。だが、そう簡単にはいかなかった。どうしても、あの青い瞳が、心を恐怖で縛る。今でも手の震えがおさまらない。

 何故こんなに恐怖を感じるのか。

 何故あの女は羇佐に似ていたのか。

 あの夢が意味するものとは。

 いつも見ていた夢との共通性があるのか。

 いくつも浮かんでくる疑問の波。

「の、望ちゃん?」

 いつのまにか羇佐がやってきていて、心配そうに望の方を見ていた。その顔は、まだどことなく赤い。しかし、望はそんな事にはまるで気付けない状態だった。

「眠れないの? また、怖い夢を見たの?」

「なんでもないよ・・・ただ、汗かいて、気持ち悪くなっただけだから」

 望は、嘘をついているという罪悪感からか、羇佐の顔を見れずに、苦笑を浮かべてそう言った。それが、彼の嘘をつくときの仕草だと知っている羇佐は、黙って笑みを浮かべた。詮索など、意味がないことだと知っているから。

「冷たいものなんて飲んだら駄目だよ。お腹を壊すよ。ちょっと待っててね。すぐに、牛乳を温めてあげるから」

 冷蔵庫を開けると、中からの光が羇佐の顔を照らす。

とても優しく、綺麗な羇佐。

 羇佐が傍にいてくれるなら、それでいいじゃないか。

 望の心から、恐怖や疑問というもやが晴れていく。

 羇佐が顔を上げた時には、望はいつものように優しい笑みを浮かべていた。


「1919年、ベルサイユ体制の民族自決により、東ヨーロッパの国々は次々と独立をした。しかし、適用されたのは、ドイツの植民地やオーストリアの植民地、イギリスやフランスの腹が痛まないところだけという、なんとも都合のいい話で、インドやもちろん中国にも適用されなかった。そのとき起こった運動が、五・四運動というわけだな」

 世界史の先生が、ベルサイユ体制の中身をこと細かく説明している。必死にその内容を書きとめている望だが、どうも気持ちはぐらついていた。

 それは、ホームルームの前、例のクラスメートが持ってきた情報のせいだった。

「望! また被害者だ。今度は三人も。しかも、クビちょんぱだってよ。それもあの大木公園で! やっぱりあの桜の木には亡霊がいるという話は本当だったのかなって・・・なんて、そんなわけないよな。ううん、どんな奴が人を殺してるんだろう。やっぱ、狂った顔で『喉が渇いた』とかいってんのかな」

 いつまでも続くクラスメートの話は、望はほとんど聞いていなかった。

 三人の被害者。

 首を跳ね飛ばされた。

 それは、昨夜見た夢と符合していた。

(あの夢・・・夢・・・じゃ・・・ない?)

 望は、その考えを振り払った。そうだと考えると、いつも見ている『雪女の悪夢』も本当に起こった事になってしまう。そんな記憶もない。ただの悪い夢だ。

「おい、立川」

「はい?」

 やけに野太い声で呼ばれて、仰いで見ると、そこには世界史の先生がコメカミをピクピクさせて立っていた。その後ろで、隣の席の羇佐が一生懸命プリントのある部分を差している。ようするに、いつのまにか前回の時間配っていたプリントの答え合わせを始めてしまっていたようだ。

「はいじゃないだろう。おまえ、プリントは?」

「えっ・・・」

 そうだ、世界史といえば毎回復習のプリントが配られる。慌てて、世界史のノートに挟んでいた何枚かのプリントから、目的の物を探し――たが、そこには何も書かれていなかった。それもそのはずだ。望もやった覚えがないのだから。何か書いてあったら、ミステリー。こういう事には、羇佐も厳しいのだ。

 望の頭に、硬い硬い拳が振り下ろされた。


「望、生きてるか?」

 授業が終わると、早速とばかりに前の席の沢村篤が声をかけてきた。望は、机に顔を伏せていて。

「・・・なんとか。けど、僕の大切な脳細胞がかなりの数死んだような気がする」

「ったく、水島の授業でプリントしてこないなんて、自殺行為だぜ。だいたい、見せてもらえばよかったじゃないか、前の時間に。なぁ、黒木さん」

「駄目ですよ。プリントは自分でやってこそ意味があるのです! 沢村君も黒沢さんに見せてもらわないで、自分でしなさい」

「篤に何を言っても無駄だよ」

 席が離れている黒沢恵美――身長百四十程度というどう見ても高校生には見えない――が、話に参加してくる。

「だって、篤馬鹿だもん」

 学年トップの恵美の言葉は、迫力がある。馬鹿にしたような瞳で見られた篤は、当然怒りを露にした。

「寝起きが悪い、寝相が悪い、性格が悪い! 女としての大切なモノが欠けまくっているお前に、言われたくないね」

「寝相・・・不潔。沢村君ってそういう趣味?」

「な、何勘違いしてんだよ! そういうのは、あの敬吾の分野だろうが!」

 敬吾とは、望に情報をもたらしてくれる、割とどうでもいいクラスメート。幼女が大好きという事で、何故か有名。

「私は騙されません。あぁ、やっぱり二人はそういう関係。世の中、不思議な事がいっぱい・・・」

 昨夜の夜這い勘違い事件もあってか、羇佐の妄想は暴走しまくっている様子。それに恵美は、大して反論していないため、篤の立場は悪くなる一方。それを見越して、恵美も何も言わないのであろうが。そういう女なのだ。黒沢恵美とは。

 そんな何気ない会話を、聞いていた望。

 ここにある日常的な世界。その世界に埋没してしまえば、悩みは誤魔化せる。

「そうだったのか・・・おめでとう。子供は作るなよ」

そんな望の頭に、二発目の――今度はエルボが飛んできた。


 トボトボと田んぼの畦道を通る望の傍に、羇佐の姿はない。彼女は、放課後急な呼び出しがあり、学校に残っている。望も残るといったのだが、羇佐に拒否されたので仕方なく一人で帰ることとなった。

 一人で帰るのは、なんとも久しぶりである。常に傍に羇佐がいて、それが当たり前になっているから、侘しさはどうしても付きまとう。だが、同時にどこか新鮮だった。

 そんな望の前で、キョロキョロとしている不審な男。どこか焦っているようにも見える。

「どうかしたんですか?」

 望は、思わず声をかけていた。そして、気付いた。この男、中継でキャスターの後ろに立っていた男だったのだ。だが、あの時みたいに不意な眩暈などは起こらなかった。

「うう〜ん、どうも数珠を落としてしまったみたいでね。探しているけど、ないんだ」

 男は、苦笑していた。

 声をかけた手前、はいさようなら、というわけにもいかない。

「手伝いますよ」

結局、望もその数珠とやらを探す手伝いを始めるのだった。男は、ビックリした顔だったがすぐに優しい笑みを浮かべた。

「ありがとう。恩に着る」


 三十分経過。


 見つからない。

 てんで見つからない。

 すぐ傍は田んぼで、草もそんなに生えていない。本気で探せば、すぐに見つかりそうな場所である。それに、望はずっと気になっている事があった。最初こそは、あまり気にしていなかったが、これだけ探してもないとなると、どうしても彼の右腕に付いている数珠が気になってくる。

「あの・・・その右手につけてる数珠・・・」

「うん?」

 汗だくで探していた男は、望の言葉に思わず動きを止めて自分の右手を見た。そして、しばらく固まり――それから望の方に顔を向けた。その顔は、とてもすまなさそうである。

「ゴメン。まさか自分の腕につけていたなんて」

 どうやらそれが探し物だったようだ。取り繕うように男が苦笑を浮かべた。

「いやいやいや、いつもポケットに入れていたから・・・そっか、今日はつけていたのか。盲点だったね。ごめんよ、なんだか馬鹿でお決まりな結果になってしまって。本当、今時やらないよなって感じだよね」

 乾いた笑いを振り撒いてから、次の言葉を紡ぐ。

「お詫びにジュースでも奢るよ。そこらに、自動販売機があったと思うんだけど・・・」

 望は、ここで断るわけにもいかず彼の言葉に甘える事にした。

「あ、そういえば君、名前は? 僕は、彰人・・・兄さんとでも呼んでくれ、なんてね」

 今度は、望が苦笑を浮かべる番だった。

「僕は、望です」

「望・・・か。いい名前だね」

 細面の彰人は、とても穏やかな顔で微笑んだ。その顔は、どこか人を安心させるような、そんな優しさに包まれていた。最初こそは変な奴、怪しい奴と思っていた望の心を氷解させるには充分だった。


 場所を自動販売機の側に移し、彰人はガードレールの上に座り、望は寄りかかってジュースを飲む。そんな中、彰人が唐突にポツリと零した。

「海の音・・・ここでも聞こえるんだね」

 彰人の視線の先には、海がある。望にとってはあまりにも当たり前すぎる事だったので、頭の片隅にも置いていなかった事実。

確かに耳をすませば、聞こえてくる優しい海の声。その音を認知した時、流れてくる風が潮っぽい事に気付いた。凪を終え、海風が吹いているのだ。

「・・・君を見ていると、弟の事を思い出すんだ」

 彰人の言葉が、心に突き刺さり、思わず彼の顔を見上げる。彼は、望の方に顔を向けておらず、いまだに見えるはずもない海を見ようとしていた。その顔は、とても切ないものだった。

「弟は、一人ぼっちだった僕の唯一の友達だった。とってもいい子でね・・・僕は、その弟を探すために各地を旅しているんだ」

「弟さんを?」

「そう、悪い魔女に掴まって、さらわれてしまったのさ」

 まるで御伽噺のようである。どこまでが本当の事か分からない。からかっているだけ――とは、到底思えないが、望の心には温かいものが広がっていっていた。

 言葉では言い表せない、どこか懐かしいような温かさ。

 ふいに、彰人が歌を歌い始めた。歌詞はない。そんな、ただの鼻歌だと片付けられるようなものが、望に異変をもたらした。

 また、視界が揺らぐ。

 知らない記憶が回帰してくる。


 小さな離れに、一人の女。その女の口からは、歌が零れていた。

 そして、彼女は優しい笑みを浮かべた。とても儚く、今すぐに壊れそうなそんな笑みを。


 我に返った望は、彰人がいないことに気付いた。慌てて周りを見渡してみても、彼はいなかった。その代わり、彼が飲んでいたジュースの空き缶が寂しく転がっていた。

 狐に化かされたような思いの望。

 胸に去来する思いは、疑念でも不信でもなかった。

 この温かく、胸を締め付けるような思い。

 それは、懐かしさだった。


 人も少なくなり、部活をする生徒達の声が虚しく響き渡る校舎。羇佐は、後ろ手で教室のドアを閉め、溜息をついた。そして、頭を抱えて――。

「どうしろというのよ・・・」

 そう、呟いた。


第三部『崩壊』


 一週間が経った。

 無事に終業式も終え、晴れて夏休みである。

 あの連続殺人も、パタリとなりを潜め、極めて平々凡々な毎日だった。そして、望の前に現れたあの彰人という男も姿を見せる事もなく、さらに『雪女の悪夢』を見ることもなくなったせいで、今まで感じてきた疑問も薄れ、霞みのように消えかけてしまっていた。

 しかし、異変は一つだけあった。

 羇佐が、やけに周りを気にするようになったのだ。

 望の前では極力しないが、ふと羇佐のほうを見ると、いつも脇を見て、必死に何かを探しているようだった。

 それと、こちらは変化。

 カサブランカの花が咲いたのだ。蕾が開くのに四日もかかり、今も開いているのは五本のうち四本だけ。最後の一本だけはなかなか開かないでいた。そして、望は羇佐が言っていたことを思い知った。カサブランカの匂いは、芳醇で甘い匂い。決して、嫌になる匂いではないのだが、あまりにも濃すぎた。玄関に飾ってあるのに、居間まで漂ってくる。こんな花、食卓に置いたら匂いが混ざってすごい事になりそうだ。


 そんな、何気ない日常が。

 壊れる時こそ。

 呆気なく。

 切なく。

 哀れな事はない。


「・・・羇佐?」

 商店街で買い物をしている途中、羇佐が姿を消した。望を残して。

 それが、全ての歪みの集大成だった。


 商店街で見た影。

 あの男にそっくりだった。

 どこにいる。

 どこにいるんだ。

 散々人をからかっておいて。

 ここまで来ておきながら。

 もったいぶるのか。

 忌部・・・。

 忌部家の人間。

「ようこそ、黒木羇佐。長らく、お待たせしたね」

 大きな桜の木の下、男が手を広げている。あの男に似ているが、ずっと若い。

「まずは前菜からだよ。楽しんでくれるといいな。ここまで準備するのは、骨が折れたんだから」


 羇佐。

 羇佐。

 羇佐!

 商店街を走り回り、必死に羇佐の姿を捜し求める望。いつかいなくなってしまうのではないか、そういういつもの危惧が望を焦らせていた。

 ここで羇佐を探し出さないと、二度と戻ってこない。

 望は、そう確信していた。だから、どうやってでも探し出さなければならなかった。

 どこに――。

 いるんだ――。

「・・・羇佐!」

 その時である。

 歌が聞こえてきた。

 どこかで聞いた――。

「あの人が歌っていた・・・」

 なにか、目覚めるような気持ちだった。商店街を出て、周りを見渡すと、公園の方が黒いドームで覆われていた。それなのに、誰もそのことを気にしている様子がない。

 他の人には、あの黒いドームが見えていないのだ。そして、歌はそこから聞こえているようだった。

 望は走った。

 羇佐を――。

 連れ戻す為に。


 公園の側まで走ってきた望は、慌てて減速して、その場でたたら踏んだ。公園の前のガードレールに、彰人が座っていたからだ。彼は、望が来ると、すっと左手をあげて見せた。彼の顔には、不気味な笑みが浮かんでいた。

「昔話をしよう」

「そんな暇・・・」

「聞くんだ。でないと、一生かかっても、羇佐には会えなくなるよ」

 彰人の瞳がすっと細くなる。

 宿る狂気。まるで別人のようになってしまった彼の前で、望は唾を飲み込んだ。それでも、気丈に彰人を睨む。

「おまえが・・・羇佐は・・・羇佐を、どこにやったんだ!」

 望の怒りに、彰人は動じた様子はない。

「昔々、あるところに、落ち零れ一族がいました」

 彰人は、望を無視して話を始めた。

相手がそういう態度で来るなら。望は、そう割り切って彰人の前を横切ろうとしたが。

「その名は、忌部」

 その苗字が、望の体を縛った。知らないはずの苗字なのに――なぜか、知っているのだ。その苗字を。

驚き、戸惑う望に、彰人は細く笑みを浮かべて、話を続ける。

「そして僕の名は、忌部彰人。当主と当主の妹の間に生まれた、汚点そのものさ。そして、望。君は、当主と別の女から生まれた・・・ようするに、僕の腹違いの弟なのさ」

「そんな・・・僕は・・・」

「立川望。知ってるよ。その名前は、後からあの女がつけてものらしいじゃないか。きっと、あの姿になる前の、苗字だったんだろう。ちょうど十年前に、立川羇佐という女の子がある雪山で行方不明になっているしね」

 彰人は、淡々と言葉を綴る。その言葉が終わるか、終わらないか。すでに、望は公園へと走って行っていた。その後姿を、見つめる彰人の顔は酷く冷たい。

「そんなに急がなくても、すぐに会えるのに」

 彰人が、優雅ともいえるような動きで立ち上がる。

 全てのファクターは揃った。

 後は、憎悪と執念の斧を振り下ろすのみ。

 悲劇の幕は、下ろされた。


 公園の中は、非常に寒かった。まるで冷蔵庫の中にいるようである。突然の気温の変化は、望の動きを鈍くした。それでも懸命に走る。とりあえずは、公園の中央部へ――大きな桜の樹の下に。

 舗装された花崗岩のパネルを踏みしめ、中央部の桜の木が見えてくる。

その時である。

 一際冷たい風が吹き荒ぶ。思わず顔を覆い、ちょっとの間立ち止まる。そして、顔を覆っていた手を下ろした時、彼は、目を見開いた。

 公園は、あちらこちらで氷の柱が立ち、得体の知れない肉の破片が飛び散っている。それらの中央には、一人の女がいた。

 白銀の髪に。

 青い瞳の女が。

 それは、『雪女の悪夢』で出てくるあの女の子と姿が被る。

 向こうも望の姿に気付き、戸惑いのせいか、瞳を見開いた。そして、視線を少し上げた。それは、望の後ろにいた彰人に向けられていた。

「驚きで、声もでないようだね。彼女は、長野県にある黒姫山の山神、別名『雪女』。僕達のお父さんを殺した人さ。そして、君の記憶を改竄した者。そう、これが黒木羇佐だ。一週間前、僕の部下を殺してくれた・・・望、君にも見せたはずだ。彼女が、人を殺している所を」

「・・・あの時の夢・・・」

「そう、僕が実況中継したのさ」

「忌部家・・・!」

 怒りを押し殺した羇佐の声。彰人は、面白そうに瞳を細め、望を後ろから抱きしめた。そんな彼の温もりも、望には伝わっていない。もう、なにがなんだか、さっぱり分からないのだ。

「望、兄さんが言っていたことを信じてくれるかい?」

「兄?」

 訝り呟く羇佐に、彰人がチラリと視線を送る。

「そうだよ。僕は、望の腹違いの兄さ。君のおかげで、散々苦労させられた。僕が描いていた楽しき未来も、滅茶苦茶さ」

「それは、あなた達が!」

 羇佐の言葉に、彰人、憎悪で顔を歪ませる。

「お前が全ていけないんだ。あの時期に、お前が化生さえしなければ、忌部家はくだらない夢に翻弄される事もなかった。どっちにしたところで、これで一つ目の復讐は終わりだ。なぁ、望」

「・・・そういう・・・こと」

 羇佐の苦々しい言葉。

 戸惑いという名の海で、必死にもがく望には、彰人に向ける言葉も、羇佐に向ける言葉も見つからなかった。そんな望から、彰人がすっとはなれた。ポケットから数珠を取り出しながら、羇佐の方へと歩いていく。

「さて、茶番は終わりだ。そろそろ、決着をつけようか」

 そう呟いたとき、羇佐は冷たい風を吹き散らして、高く飛んだ。

 彰人の頬がつり上がる。

「望に、戦っている姿は見せたくない・・・か。いまさら・・・だな」

 彰人もそれを追いかける。

 残された望は、そんな二人を見送る事もせず、ただただ突っ立ったまま――そして、地面に膝をつけた。

「羇佐・・・」

 その時である。

 また世界が歪む。

 その歪みの中から、封印していた記憶が、零れてくる、零れてくる。


 庭に一人でいた兄、彰人。近親相姦の果てに生まれた、忌部家にとっては誤算、そして忌々しい存在。

 望は、そんな彼に手を差し伸べた。大人達が言っていることなんて意味が分からなかったけど、彼が自分にとって兄だという事を知っていたからだ。

 そして、叔母との出会い。兄に連れられ、会った。いつも寂しそうに歌を歌い、それなのにとても優しかった。父の話をすると、ボロボロと泣いた。

 一族中から忌み嫌われていた、兄と叔母。父は、なにもできず、時折泣いていた。

 そんな中、忌部家の遠征が決まる。

 黒姫山に現れた雪女を打倒し、彼女が絶命した時に得られる氷玉で傾いた家を建て直そうとしたのだ。

 だが、雪女捜索二日目の夜。奇襲された。そして、その遠征に参加していた望も当然殺されるはずだった。


「・・・それなのに、僕はここにいる」

 あの『雪女の悪夢』は、失われた記憶の断片だったのだ。だが、何故自分がここにいるのかは、分からない。最後の記憶は、本当に曖昧で、はっきりしているのは雪女が父を殺した所まで。それ以降は、思い出せないのではなく、分からないのだ。

 周りを改めて見渡してみる。

 得体の知れない生き物は、彰人がけしかけたモノなのだろう。それを打ち破った羇佐。

どのような気持ちで闘っていたのだろうか。

 何のために、望を生かそうとしたのだろうか。

 羇佐――。

「・・・止めないと」

 あのまま闘えば、どちらかが死ぬ。

 理由なんて、関係ない。


 なにが幸せだったのか。

 そんなもの、改めて考える必要もない。

 羇佐と一緒に暮らし。

 羇佐と一緒に勉強し。

 羇佐と一緒に買い物に行き。

 羇佐と一緒に話をして。

 羇佐と一緒にご飯を食べる事が。

 そんななんでもないことが。

 幸せだったのだ。

 なによりも。

 なによりも――。

 失いたくはない。

 失うわけにはいかない。


 望は、走った。

 彰人と羇佐の戦いを止める為に。


「一つ、感謝している事がある」

 公園の別の場所に降り立った彰人は、唐突にそう切り出した。それを、羇佐は木の陰から聞いていた。

「望を、忌部家から引き剥がしてくれた事だよ。おかげで、彼は昔の彼のまま育ってくれた。それだけは、感謝している。だからといって、君を許すわけじゃない。君のおかげで父は死に、圧力が消えたおかげで、母は毒殺された。僕も、危うく殺される所だった。だから、滅ぼすのさ。君が持つ、氷玉の力で」

「・・・それだけの力を持っているなら、自分の力で何とかなったでしょう? 私に八つ当たりされても困るわ」

 木の陰から、羇佐は姿を現す。その瞳は、怒りで煮えたぎっていた。

「私は、昔の自分に戻りたかっただけ。傷つけてしまった望ちゃんを助けたいと思っただけ。小さな幸せでもいいから、手元にあればいいと思っていた。それなのに、あなたがそれを壊した。本当なら、殺したくなんてない。望ちゃんのお兄さんなら。けど、私も我慢できないから」

 冷たい風が、羇佐を中心に巻き起こる。

「上等だよ。望む所だよ。どっちが望を手に入れられるか、勝負だ」

 羇佐が手の平を彰人に向けると、冷たい空気がその手に沿って流れを変え、猛烈な吹雪となって彼を襲った。彰人は動じず。

太玉命(ふとだまのみこと)よ、我に力を」

数珠を巨大化させ、それを回転させる事によって塞いだ。流れが変わった吹雪が、周りの物を凍らせていく。

「くっ・・・」

 羇佐は舌打ちして、氷の刃を生み出した。

 殺気。

 羇佐は、後ろに向かって剣を振るう。彰人がそこにいて、彼は僅かに体を逸らして、羇佐の攻撃を避けた。そこに生まれる絶対的な隙。

「ウォォォォォォオ!」

 彰人の横凪に放った数珠が、羇佐の腹部に直撃し、弾き飛ばした。木にあたり、空気を吐き出した羇佐は、ズルズルと地面に座り込む。

「・・・なるほどね、賢いやり方だわ」

 本来なら、簡単に後ろを取られるわけがない羇佐。それがあんなに呆気なく後ろを取られたのは、彰人が仕組んだトラップのせいだった。

 羇佐の属性は陽水である。彼女の力が最も発揮されるのは、冬場でさらに昼間。時間帯はまだいいとして、夏という季節は水の力がもっとも衰える季節なのだ。だが、この町は山が蓄えた大量の地下水と、海がある。そのため、夏場でもそれなりの水気が集まるはずなのだ。その証拠に、彼女は忌部家の人間をその力で倒した。それなのに、これほどいいようにやられる、即ち、彰人が人工的に水気を遮断しているのだ。さらに彰人は、使っている物から見て金気。相性的にいうと、金気のほうに分があるのだ。それを確かなものにする為の細工を、彰人は一週間かけてやってきたのだろう。

 この勝負、羇佐には分が悪すぎた。

「神と戦うなら、それなりの準備はするさ。人を甘く見た君の負けだよ」

「まだ・・・勝負は付いていない!」

 羇佐の姿が陽炎のように霞む。風の力を利用して、一気に間合いを詰める気なのだ。彰人も、それに答えるように、数珠を刀の形に変化させた。

 刹那の勝負。

 羇佐の姿が消えた――。

「僕を殺せば、望は悲しむよ」

 羇佐の動きが、僅かに鈍る。それを見逃す彰人ではない。

 下から潜り込むように踏み込んでいた羇佐に、彰人は大上段からの一撃を繰り出した。しかし――その刃を受けたのは羇佐ではなかった。

「・・・望?!」

 彰人の顔に驚愕が走る。彼の刃は、突然割り込んできた望の背中を深々と切り裂いていた。

 鮮血が、彰人の顔に飛び散る。

「望ちゃん!」

 羇佐の金切り声。望は、悲しそうに微笑み、羇佐に倒れかかった。抱きしめた羇佐の手が、真っ赤に染まる。

「どうして・・・?」

 羇佐には、分からなかった。

 なぜ、望が自分を庇うのか。

 こんな化け物で。

 両親を殺した相手を。

 なぜ――。

「・・・羇佐が・・・大切だからに決まってるだろう・・・」

 望の体が冷たくなっていく。そんな彼が放った一言が、羇佐の心に深く突き刺さった。

「私・・・化け物なんだよ」

「そんなの・・・関係ないよ。羇佐は・・・羇佐で・・・優しくて・・・料理が上手で・・・」

 途切れ途切れ、何かを確かめるように望が言葉を繋いでいく。羇佐は、黙ってそれを聞き、愛おしさと苦しさで涙を流した。

 こんなにも思われている。

 それに答えられなかった自分が恥ずかしかった。

「兄さん・・・僕は・・・僕にとって、羇佐は大切な人で・・・兄さんも・・・大切な人で・・・だから・・・兄さん、羇佐を・・・見逃して・・・僕のお願い・・・」

 彰人は顔を真っ青にして――。

「分かったよ、望。だから、もう喋るな」

 それを聞いて、望は穏やかな表情を浮かべた。

「羇佐・・・」

「なに?」

 羇佐は、必死に笑みを浮かべて見せた。だが――。

「・・・・・・」

 穏やかな表情を浮かべたまま、望は動かなくなった。最後の一言を言えないまま。

「う・・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 途端、彰人が大声を出して、大きく後ろに下がった。

 これまでの戦いは、自分のためであると同時に、奪われた望を取り返す戦いでもあったのだ。それなのに、望を――自分の手で殺めてしまった。その事実を受け入れられる人間が、この世界のどこにいるだろうか。

「僕は・・・望を・・・なんで、わぁぁぁぁぁぁ!」

 彰人は刀を自分の首筋に当てて――その刀を、羇佐が握り締めしてきた。驚く彰人を気丈な瞳で見つめる羇佐。滴る血が、雪のように白い彼女の手に映えた。

「あなたの思いは、私が預かります。だから、望をお願いね」

 彰人の刀を引き寄せ、自分の胸に突き刺した。鮮血が、彼女の服を汚していく。

 青い瞳が潤み、その瞳に当てられたとき、彰人は自分の中の憤りが消えていく事を感じた。

 風が巻き起こる。

 血の匂いを巻き上げながら。

 そして、彰人が目を開いた時には、羇佐の姿は跡形もなくなっていた。

 呆気にとられ、彰人が血の滴る刀を落とす。ふらり、ふらりと望の側に行き、膝をガックシとついたその時、彼はあることに気付いた。

「・・・望?」

 規則正しい呼吸音。

 望の手を握ると、その手は温かみを取り戻していた。

 生きている。

 絶望的だった彼が、生きている。

 彰人は、ある事を思い出した。

 雪女は、その秘術によって生命を活性化させることができると。

「僕の・・・完全敗北だよ。黒木羇佐・・・」

 そして、彰人はようやく涙を流した。静かに流れる涙が、地面にパタパタと落ちていく。凝り固まった憎悪などと共に。

 閉じていた結界が解け、湿気っぽい夏の風が、彰人の頬を撫でる。

「・・・兄さん?」

 そこで、望が目を覚ました。そんな彼に、彰人は最上級の笑みを浮かべて見せた。ずっと昔に忘れた、彼の真の笑み。

「羇佐は・・・?」

「ゴメンな・・・羇佐がどうなったのかは僕も分からないんだ」

 羇佐がいなくなったことの罪悪感はあるが、彰人の顔から笑顔が消える事はなかった。その笑顔のおかげで、望は取り乱さずにすんだのかもしれない。穏やかな顔で、空を仰ぐ。

 そこには、雲一つない晴天が広がっていた。


 夢と夢が反転し、仮初の世界は壊れた。

 そこにあった真実は、切なくて悲しくて惨めだった。

 だけど、望が望に戻った時。

 彰人も彰人に戻った。

 悪い夢から覚めた二人の前に横たわるは。

 大いなる希望。

 これから、二人で歩いていく。

 それぞれの夢を掴むまで――。

 


 


エピソード


 あの戦いの後、(たちばな)家の五十鈴(いすず)という人が現れ、彰人を連れて行ってしまった。これから、彼がどうなるかは分からないけど、そう何日もしないうちに帰ってくるだろう。連れて行く、五十鈴の顔がそう望に言っていた。

 家までの道のり、断ったのだが、橘家の椿が同行してくれた。なにもいわず、体力の衰えが著しい望をそっと支えつづけていた。

 そして、家に帰ると、変化が一つ。

 ずっと咲いていなかったはずの最後のカサブランカが見事な大輪の花を咲かせていたのだ。

「・・・これは?」

その花には氷の粒が、僅かについていた。それを手にとったとき、望の顔に笑顔が舞い戻った。

「生きてる・・・羇佐は、生きてる」


この輝かしい太陽。

晴天なる空。

暑き大気。

それらが全て、羇佐に繋がっているような気がした。


羇佐は、生きている。

なら――。


「かならず、探し出してみせる!」


そして、言えなかった言葉を言おう。





















羇佐。


あなたを愛していますと――。





『完』


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― 新着の感想 ―
[一言] 読みました。ちょっと長丁場でしたね。連載にした方がいいかもしれません。 全体的に、ファンタジックな空気と、アクション性が隠れていた今作、もうちょっとエピソードを書き込めたらなぁと思いました…
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