8 浴場で欲情
無闇に広い浴室だった。
おそらく職員が共同で一斉に使用していたのだろう。がらんとした、高い天井、半円型の窓にはステンドグラス。そこから、光が差し込み、湯気にその色が映し出される。
浴槽と洗い場が別々になって、広い。俺の住んでいた文化圏には馴染み深いタイプの浴室だった。
俺はいい加減この濡れネズミな状態からおさらばしたかったので、さっさと服を脱ぎ捨てると、辺りを見渡し、果たして使えるのか判らない程古そうな石鹸だのブラシだのを手にとった。
だがふと見ると、歌姫はいつまで経ってもそのままだった。
「…何やってるんだよ」
「これが風呂?」
「…そりゃそうだろ」
「…何か変だ…」
ああそうか。文化圏が違うのだ。
「何、お前らのとこってどういう風呂だったんだよ」
だいたい火山がたくさんあるなら、温泉という天然の浴室には困らなかったろうに。
「どういうって… まず部屋を暖めて…」
「ああサウナか」
「お湯ためてどうすんだ?」
「…ってなあ」
議論してどうのという問題ではないと思う。俺は頭をぽりぽりとひっかきながら、さっさと熱帯雨林の大気の中に入った。
要は、ちゃっちゃと俺の居るところで脱ぎたくないのだろう、と気付いたのだ。
だが矛盾した奴だ、と俺は適度な温度になっていた浴槽に胸まで浸かりながら思う。だいたい俺と寝ないか、と最初に言ってきたのは奴だ。なのに何を言っているのやら。
適度な暖かさの湯の中、俺は足を思い切り伸ばす。ひどくいい気分だ。今までこわばっていた眉間や頭の中が一気に緩むのではないか、と思うくらいだった。
正直言って、ここでこんなリラックスしていいのか、という気持ちはある。何せあの端末にしたところで、結局得体が知れない。だが、歌姫が居る以上、下手な手は出さないだろう、という気はしていた。楽観的だ、とは思う。だが、悲観的になったところで仕方がないのだ。
どちらにしても、あれ以上地上をさまよっていたところで、疲労は溜まる一方だったろう。これが人間を標本として取っておくための罠だったとしても!
その時は、その時だ、という気がしていた。その時には、この場を全部破壊して、歌姫を抱えてでも逃げ出すだろう…
ふっとそんな想像に俺は苦笑する。
だいたい俺は元々が温帯育ちで、限定戦場も亜熱帯だった。
寒さに慣れないから、どうしてもここ数日の行軍では、休んだところで、身体が充分休もうとしないのだ。
歌姫が元気なのは、元々そういう気候の中で育ったからだろう。最も、逆に奴は熱帯に連れ込まれたらひとたまりもなさそうだ。
「…」
気配がしたので、ふと顔を上げると、へりに頬杖をつきながら、ひどく難しい顔をして、歌姫は湯に浸かっている俺を見ていた。
「…何だよ」
「ほんっとうに、これが、風呂なのか?」
「お前まだそんなこと言ってんの?」
そして俺は勢いよく奴の手を引っ張った。は? と言いたげな顔をしたまま、奴は頭から湯の中に突っ込んだ。
しばらくばたばた、としていたと思ったら、やがてぱっと顔を出し、真っ赤な顔になって俺をにらみつけた。
「何すんだよ! 人を殺す気かよ!」
「…お前なー… この深さで死ぬの何だのって言うなよ…あ、それとも何だ?お前、泳げない?」
「馬鹿にするなよ、泳げくらいするよ! だけど水は冷たいもんじゃないか!」
だろうな、と俺は思う。
「…やっぱ熱い! 俺出るっ!」
「まあ待てってば」
俺は立ち上がる歌姫の手を引っ張る。すんなりした腕が、軽く反り返る。
「…お前さあ、顔、変だぞ」
はい? と俺は色の引かない奴の顔をのぞき込む。
「何かさっきから、ひどく緩みっぱなしだ」
「そうか?」
「そうだよ。ずーっとほら、ここんとこに、シワ寄せちゃってたのにさ」
空いた方のこぶしでこん、と奴は俺の額を軽く叩く。そして俺はその手を掴んだ。
「何」
歌姫は避けなかった。するり、と俺の口から、ひどく自然にその言葉は出た。
「抱きたい」
ほんの少し、手首が動く。
「抱いていいか?」
「そんなこと」
掴まれた両手が、そのまま掴んだ両手をたどる。ゆっくりと、それは近づいてくる。
「最初から言ってるじゃないか」
そして、水しぶきが上がる。
目を半ば伏せて、とろけそうな笑顔が間近にあった。
バランスを崩したふりをして、奴は俺の上に倒れ込む。俺はその白い身体を抱え込む。華奢だ華奢だと思ってはいたが、思っていた以上だった。
確かに子供を産める身体じゃないから腰は細い。
だけど少年のように肩が張ってもいない。抱え込むと、すっぽりとその胸は背中は腕の中に納まってしまう。今まで服に隠れてあまり見えなかった首の線の細さは少女の様だ。
濡れた銀色の短い髪から水滴が落ちて俺の顔に広がる。奴はくすくすと笑いながら幾度も俺の顔をついばんだ。
俺は俺で、歌姫の背に回した手をゆっくりと動かしていた。柔らかい感触の下に、少し力を込めたら折れてしまいそうな骨の存在が判る。
そして左手だけを、背から外し、奴の髪の間に指を差し入れた。
瞳と同じ色に染まった頬をそのままするりと撫でる。歌姫は一瞬瞳を閉じる。色づいた唇が微かに開く。そして俺は自分のそれを押し当てた。
体勢が少し変わる。押される形となった歌姫は、のしかかるような俺の重さに今度は本当にバランスを崩し、そのまま頭を後ろに倒した。何か掴むものが欲しいとばかりに、細い腕が伸ばされる。
視界が歪む。湯の中に、引きずり込まれる。口の端からあぶくが漏れる。髪がゆらめく。数秒。俺は奴の背に回していた手を大きく引き上げ、立ち上がった。唇を離す。だらだらと長い髪から、水が滴り落ちて、時々目に入ろうとするから、なかなか目が大きく開けられない。
重力が身体にかかる。慣れないものに長く浸かっていたせいか、歌姫はぐらりとよろめいた。俺は奴を猫のように抱え上げると、浴槽の外にちょんと置いた。
確かに少し湯当たりしているようだった。置いた場所から少し身体をずらすと、奴はへりに背をつけてぼんやりと半円の窓を眺める形になる。そして濡れていた身体は、そのままずるずると床の上に広がった。
浴室の床は、淡いクリーム色のタイルが敷き詰められていた。窓から差し込む光の効果を考えたのだろうか、ちょうどその床にスデンドガラスごしの光が当たると、そこだけが海の底のようなゆらゆらとした模様を描き出す。
両腕を頭の上に投げ出して、歌姫はそのまま天井を眺めていた。
「大丈夫か?」
俺は奴の顔をのぞき込みながら訊ねる。だいじょうぶ、とかすれた声が答える。
さすがにそう言われては、もう止まらなかった。
歌姫は手を伸ばして、自分を見下ろす俺の髪をかき上げた。そして顔だけを起こして、もう一度と唇を求める。それに応える。のしかかる。そこに柔らかな胸が無いのが不思議な程に、掴んだ肩は細い。
手をそこから首筋に這わせると、口の中で軽い音が響いた。きん、と頭の中に何かが響く。何だろう、と俺は思う。
大きく息を一度つくと、そのまま俺はずらした唇を顎の裏から耳もとまで這わせる。
ゆったりと、その動きにつれて、頭が動く。未だ少し開かれたままの唇から、微かな声が漏れる。その声がするたびに、俺は背筋にぴり、と電流のようなものが走るのに気付いた。
ああ、共鳴しているんだ。
あの時と同じだ、と俺は気付いた。悲鳴を上げる奴の、最悪の記憶が、映像ではなく、その感覚として俺に共鳴を起こした時のことを。奴の感じているものが、俺の身体に、その声を通じて走り抜けていくのだ。
固い鎖骨のくぼみから、そのまま、なだらかな胸に、二の腕の柔らかな内側に、そしてあばらの透けるような脇腹に、少しそれよりは柔らかな腹の上に、一つ一つ俺は跡をつけていった。歌姫の白い肌は、それを克明に刻んでいく。彼女は嫌った、その跡だ。
だが歌姫は大きく息をつきながら、そして時々小さな声を漏らしながらも、それを厭う様子はなかった。むしろ、その表情は逆の方向に変わっていく。
だが俺はややその次へと進もうとして躊躇した。勝手が違うのだ。
いや女でないから、ということではない。友人の中にはそういう趣向の奴も居た。いくら女が多い星域とはいえ、いくら女が多い軍隊だったとは言え、全くそういう趣味が皆無という訳ではない。
それに自分も男だから、何処をどうすれば気持ちいいかくらいは判る。だがそのどちらでもないというのは。
そしてそのためらいが判ったのか、奴はぼんやりとした表情をやや曇らせ笑みを浮かべ、腕を立て、身体を半分持ち上げた。奴は自分自身に刻まれた跡に目をやると、唇の端を軽く上げた。そして俺の手を取ると、自分自身に触れさせる。
それは、何と言うのだろう?俺は妙に悲しい気持ちになる。
「ここでは、何も感じないんだ」
低く、柔らかな声で歌姫は言う。
「俺は、そういう生物なんだ。代わりに何を貰ったとしても、俺は」
その昔、それでも時々は出てきたという、どちらも半端にあるというのでは、なく。
「…気持ちわるい?」
俺は迷わずに首を横に振る。歌姫は再びその綺麗な顔に、笑みを浮かべた。
「お前は、そういうと思ってた」
彼女の姿がだぶる。あの夜、自分が男でも好きになったかとと訊ねた。俺は判らない、と答えた。
ああそうか、と俺は思う。そういうことでは、ないんだ。
そして奴は俺の手をその奥へと動かさせる。いいのか?と俺は訊ねた。
「いいも何も」
それは相手次第なのだ、と歌姫は無言で示す。苦痛も快楽も、それをする相手次第で変わる。
そんな仕草一つ一つが俺の視覚に訴え、身体の中に火をつける。膨張する感覚。目の裏に太陽が浮かぶ。大きく息を吐き、俺は歌姫の背を抱え、膝の上に乗せると、もう片方の手で、そのままその場所を突き止めた。
半分開いた目に、涙が浮かぶ。生理的なものだ、とは知ってはいた。だが真っ赤な目のはじに浮かぶそれは、少しばかりそちらの胸まで痛める。
俺は歌姫の腕を取ると、自分の首にそれを絡めた。つかまるものができたとばかりに、奴はぎゅっとしがみつく。微かな動きにつれて、髪からまた、水滴が落ちる。まさぐる場所は、俺の知っているものより、熱く、柔らかい。だが本当に大丈夫かと不安にもなる。
とは言え、俺自身にも、限度というものがあった。顔をのぞき見たら、奴は口元を上げた。それを見て。
手を添えて、ゆっくりと。
彼女にそうした時より、前のめりになった身体が、密着する。鼓動が、伝わる。
大きく肩が上下する。俺は奴の身体をゆっくりと下ろしていく。こころもち上げたあご。やや苦しそうに寄せられた眉。ぐるりと首が回る。唇が開く。腕に込めた力が強くなる。
そして一しきりそんな動作をしたかと思うと、今度はその俺に回した自分自身の腕に歯を立て、何かをこらえている。
俺はそこから歯を外させると、やや強引にまた唇を重ねた。気が逸れたせいか、力が抜ける。その隙をつくかのように、奴の身体を深く沈み込ませた。
離れた唇が大きく開く。
声が上がる。
途端、何がが俺の背中から頭の後ろを駆けのぼった。
感覚が伝わっているのだ。それが俺自身をも、強く揺り動かす。普段なら感じない感覚をも、俺は歌姫を通して受け取っていた。
がくがく、と俺は背に回した手で、奴の身体を揺り動かす。
はあはあ、と息づかいが荒くなるのが聞こえる。
ゆらゆらと首が揺れる。
薄く開けた目が、天井を見上げ、力の完全に抜けた、凶悪な程の視線を時々何かの拍子に俺に向ける。
笑っているように、見える。
それが声になっているのかは判らない。本当に、声になっているのか、は。
だけど俺には伝わってきた。
あはははははははははは、と笑う声が、頭の中に乱反射する。
キラメキ。
窓の斜めに入る光。
目の裏の太陽。
頭の中が、白く、爆発…