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明月


時は哲学者の死後

明星の賢明な瞬きも空しく、夕闇が濃くなってゆく彼の墓前に戻ります。


悪魔は彼の眠る墓を見ながら尋ねました。


「前世のあなたが僕と契約するのを、阻止することもできたんじゃないですか?」


「それが、契約したのがいつだったか細かくは思い出せなくてね。」


彼女は笑いました。すべてを達観した彼女にとっては

悪魔に対する気持ちも、もはや敵意ではなくなっていました。


「それにその頃には、この人生を愛せるようになっていたわ。

 大切な人が自分を愛してくれていると分かっている人生は、とても温かい。

 誰よりも苦しかったけれど、誰より恵まれてもいたのよ。」


彼女は、ここまで言うと少し俯きました。


「それでも、最期まであの人の子を産むことはできなかったけれど。」


それがこの夫婦に子供のいない理由でした。割り切ったつもりでも、

やはり自分自身と交わることは受け入れられなかったのです。


「だからせめて、あの人をどんなことがあっても最期まで支えようと思った。

 あの人の気持ちを一番よく知っていたのはわたしだから。」


 悪魔は彼女の話を静かに聞いていました。

 そして、すこし間をおいて尋ねます。


「結局、世界は救えずじまいでしたね。

 あなたの正体が旦那様にばれることはもう無いのだから、

 今からでも真理を世界に公表してみたらいかがです?」


「いいのよ、もう。」


彼女は微笑みながら言いました。

満足したようにも、諦めたようにも見えました。


「あの人なら言うわ、きっと。


 私が何を言っても、世界の人々は『言葉』としてしか受け取れない。

 そんなことをしても、その解釈がもとで新たな争いが起こるだけだ。

 正しさというものは結局、一人一人が誤りを重ねて見出していくほかない。

 親鳥が雛に餌を与えるように、出来合いの価値観を与えることはできん。

 

 って。」


すると悪魔は、ため息と共にいいました。


「つまり全人類が、経験を重ねて各自で正しい生き方を求めるほかない、と。

 でも、人間は他人の言葉に流されがちな生き物です。

 思考を放棄せず、あえて自分で生き方を考え続けるなんて、とても難しい。

 しかもそれを全ての人に求めるなんて、本当に途方もない話ですね。」


「そうね。それはきっととても難しいことなのでしょう。

 それが実現する前に、人類は自分自身を殺すかもしれない。」


彼女は、夕闇に屈しつつある明星を見ながら、落ち着いた口調で言いました。


「それでも正しい生き方っていうのは、

 一人一人が痛みを感じながら少しずつ求めていくしかないのよ。

 過程を無視して他人から教えてもらった生き方なんて、

 言の端を弁えない歪んだ生しか生まないのだから。」



二人は、彼女の家への道を歩きながら話し続けます。


「ところで、これからどうするのですか?

 真理を世界に語っても、経験を伴わない『言葉』で世界は救えない。

 自分を愛してくれる夫ももういない。

 何を支えにして生きていくんです?」


「そうね。それについては、すこし考えていることがあるわ。」


「へえ。ぜひ教えて下さい。」


「人は、言葉に至る経験を得て、初めて言葉の真意を得ることができる。

 なら、その経験を含めて伝えたい思いを語ればいい。

 これからは、そうやって生きていこうと思うの。」


「どうやってそんなことを?」


「人が相手に経験を伝える古典的な方法があるでしょう。」


不思議そうな表情の悪魔に、彼女は言いました。


「物語よ。」


彼女は続けます。


「伝えたい言葉、そしてその言葉に至るまでの経緯を、共に伝える手段。

 物語なら、書き手の心を本当に伝えることができるかもしれない。」


「やっぱり人間って楽しい。」


悪魔は、彼女の予想外の答えに満足そうでした。

一人の人間が生涯をかけて出した答えを、純粋に賞賛しているようでした。


「もちろん、たとえ物語で経験を語っても、事実としては伝わらない。

 それに言葉である以上は、解釈の余地と誤解は消しきれない。

 なにより、言葉だけで語られる経験が実体験の代わりになるとも思えない。


 でも、それでも、物語はきっと無意味じゃない。

 たとえ形だけの『言葉』に過ぎなくても、自分自身で生き方を求める意義を

 世に広められるなら、それはいつか世界から争いをなくす助けになる。

 そしてそれこそ、きっと哲学者のすべき最も大切な仕事なのよ。」


そう言うと、彼女は言葉を切りました。


「ええ。そうなのかもしれません。」


悪魔はその哲学者を、慈しみをもって見つめていました。

どれほどの迷いと苦しみを味わっても希望へと戻ってくる、この高潔さ。


「やっぱり僕は、あなたのような人が大好きです。」


「あなたにはお礼を言わなくてはね。」


その人は、静かに微笑みました。



それ以来、悪魔は現れなくなりました。


世界のために生き、悪魔と出会い、二度の生涯に渡って

「真理」に踊らされたその生涯は、大きな波乱に満ちたものでした。

しかし言の端を知り、一人の人間としての生に回帰したその人生は、

今では凪の海のように静かに揺れています。


その人の生が、はたして幸せと呼べるものだったのか。

それは、今となってはその人自身にも分かりません。

しかし、そんなことはもう大した問題ではありませんでした。


彼女はいま、愛用するアンティークの椅子に座り考えています。


「どんな物語を書こうかしら。」


そして、窓の向こうで夜闇を照らす美しい月を見ているうちに

ふと思いつきました。


全てを照らす輝きは必要ない。

自分の感じたことと、ありふれた言の葉さえあればいい。


少し間をおいて、わたしは書き始めました。


『これは、ある哲学者の物語です。』


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