明星 前
彼女は温和な女性でした。
若年期の経済苦が、彼女を老成させたのかもしれません。
背伸びをせず、何事も穏やかに、人並みに。それが幸せ。
そんな彼女にとって、「世界を救う」という大望に燃える彼の人生は
自身が無意識に抑圧してきた生き方そのものでした。
夢を追う彼は、年上のはずなのにあまりに純粋で、可愛らしくて、
そして遠くを見据える彼の姿は、いつも危なっかしくて、放っておけなくて、
そんな迷いの無さがほんの少しだけ妬ましくて。
わたしはこれ以上何も悩まずに、平凡に生きていくつもりだったのに。
その小柄な女性は、いつもそんな具合に
癖毛の頭を彼のことでぐるぐるとさせていました。
そんな二人が幸せに結ばれたのも、きっと運命だったのでしょう。
そして、運命は幸せな人間には特に残酷です。
まだ結婚して間もないある日、彼女は公園のベンチで夫を待っていました。
すると一人の少年が、彼女の前に歩いてきました。
そして笑顔で言います。
「こんにちは!」
「こんにちは。」
子供好きだった彼女は微笑みながら答えました。
可愛い子だな。わたしもこういう男の子が欲しいな。
そういえばこの子、目元がちょっとあの人に似てるかも。
そんなことを考えていました。
すると子供はそのまま近づいてきて、彼女の膝の上に乗ってきました。
彼女は少しばかり驚きましたが、その少年には
彼女にそれを嫌だと感じさせない不思議な安心感がありました。
礼服を着ているから、きっと親と出かける用事があるのだろう。
母親はどこだろうか。
そんなことを尋ねようとしたその時です。
耳元で、その子供は冷たく言いました。
「『この世界には、あなたしか生きていない』」
「!!!」
その瞬間、彼女は彼女だけではなくなりました。
まず目の前に広がったのは鮮血色の夕焼け。そして次の瞬間
走馬灯のように、自分の知らない人生が彼女の中に流れ込んできたのです。
失神しても不思議でない程の衝撃が、稲妻のように彼女を撃ちすえました。
子供は彼女の膝から飛びのき、少し待ってから言います。
「思い出しましたか?」
激しく息を切らして彼女、いえ、今は彼でしょうか、
とにかくその人は尋ねました。
「私になにをした!悪魔よ!」
彼女の中に流れ込んできたのは、ほかでもない自分の夫、
つまりあの哲学者の記憶だったのです。
「言ったでしょう?あなたの魂で遊ばせてもらうって。」
何もかもが理解できませんでした。
さっきまで、私は「わたし」だった。
しかし今、わたしには「私」がいる。
何、何なの?私って誰!?
その様子に悪魔は満足げでした。
「説明しますね。簡単に言うと、あなたは生まれ変わったんです。」
混乱する頭を整理しようと必死になりながら、その人は言います。
「馬鹿を言わないで!
どうして私が妻に生まれ変わるというのだ!
わたしの存在は幻だって言ったじゃない!
実在しない現象に生まれ変われるはずがないだろう!」
口調が見事に滅茶苦茶でした。
それを見た悪魔は笑いながら言います。
「誰がそんなことを言ったんです?僕はこう言っただけ
『この世界には、あなたしか生きていない』と。
この世界が全て現象だなんて言ったのはあなた自身ですよ?」
「だから!」
ひとまず、女性の体を持つこの人のことは彼女と呼ぶことにしましょう。
彼女は叫びました。周りに人影がないのは悪魔の仕業でしょうか。
「どうしてその真理からこんなことになっているか聞いてるの!」
魂が生まれ変わること自体はそこまで驚くべきことではありませんでした。
問題は生まれ変わった先が、存在しない幻に過ぎず、
しかも彼自身の生存中に生きていた彼女であったこと。
一体何がどうなれば、こんな事態が生じるのか。
「言いましたよ、僕は。」
やれやれ、という風に悪魔は言いました。
しかし、やはりどこか楽しそうです。
「人間は、時間とか空間とかいったものにこだわりすぎます。
前にも言ったように、そんなものはたいして大きな概念じゃない。
でもまあ、とりあえずあなたが現状を理解できるように
輪廻の構造について説明をしてあげます。」
そう言うと悪魔は、まるで教師が生徒に教えるように丁寧に話し始めました。
「分かりやすいように、空間の話から始めましょうか。
西の国で死んだ男が、東の国で女として生まれ変わる。
これは、魂が輪廻するなら当然あり得ることです。
では魂は、どうやって西の国から東の国へ移動したんでしょう。
答えはこう。
死んだ魂は、西の国からいったん『あの世』へ向かいます。
そこで魂に付与された前世に関わる要素が全て取り除かれ、
そして今度は『あの世』から、『この世』の東の国へと向かいます。
ご存知の通り、『あの世』は『この世』の空間とは独立した世界です。
空間的な繋がりのない世界を経由することで、魂は空間跳躍を行えるんです。
そしてもちろん、輪廻による魂の空間跳躍に距離の制限はありません。
場合によっては、他の星の生命にだって宿ることが可能です。」
「そんなことは説明されなくたってわかっているわ。
魂が輪廻するなら当たり前のことじゃない。」
「そのとおり、ここまでは当たり前の話です。
では、時間に関してはどうでしょうか。
今この瞬間に、ある男が死んだとしましょう。
この男の魂は、いったん『あの世』へ向かいます。
そして前世に関わる要素を全て消去された後、『あの世』から出て
『この世』の別の生命に宿ります。
問題は、空間的に独立しているのと同様に
『あの世』は『この世』から時間的にも独立しているということ。
すると、魂が『この世』の時間からいったん切り離されることで、
空間跳躍と同様に、魂の時間跳躍が発生するんです。
そして時間跳躍にもまた、空間跳躍と同様に制限はありません。
前世の時間軸の拘束から逃れた魂は、
『男が死ぬより前の時間の生命』にも生まれ変わることができます。
だとすると、どういう可能性があるかわかりますか?」
「・・・!」
「その通り。死んだ魂が過去の生命に転生することで、
生前の生命と同時に存在することもあり得る。
つまり、同じ魂が同時に複数存在できるんです。」
ここまで来て、彼女の理解も追いつき始めました。
「僕は『あなたの魂で遊ぶ』と言いましたね。それはこういうことです。
哲学者のあなたが死んだ後、僕は死後の魂を
その妻になる女性の生命に宿るよう誘導したんです。
つまり、あなたは前世の自分と結ばれて、一緒に生きている。」
「そんな!」
頭での理解に、心がついて来ていませんでした。
あの人が前世の自分?
再び混乱しかかった彼女を制止するように、悪魔は続けます。
「といっても、こんなことは本当にお遊びでしかありません。
だって僕が何もしなくたって、いずれはそうなるはずだったんですから。」
散り散りになりそうな思考を必死にかき集めて、彼女は考えました。
いずれはそうなるはずだった、とはどういうことか。
「・・・まさか。」
すると彼女の頭に、今まで思いもしなかったような考えが浮かびました。
それは、人間が思い描くにはあまりに大きすぎる可能性でした。
輪廻のよる魂の時間跳躍、そして同時並存。それらが可能だとすれば・・・。
「一つの魂が同時にたくさん存在できるなら、
そもそも魂は複数である必要はない。
全ての生命は、時空間跳躍を繰り返す一つの魂を通じて繋がっているんです。
僕は、魂の描く円環の上で輪舞を踊る生命達の場所を少し入れ替えただけ。」
そして、彼女の心に浮かんだその可能性を、悪魔は口にしました。
「あなたの魂は、時の始まりから、あらゆる生命に宿り続けてきたんです。」
ここまで来て、彼女はようやく完全に理解しました。
自分が置かれている状況を。
そして、ひとつの魂によって全ての生命が繋がる世界の構造を。
「つまり、」
彼女は悪魔に代わって続けました。
「『この世界には、わたししか生きていない』」
そして、彼女はもう一度言いました。今度は言い方をかえて。
「『この世界に生きているのは、全てわたし』」