夕闇 後
それから彼の人生が変わったのは言うまでもありません。
世界を救済する方法を探究するのを止め、彼は新たに求めました。
最初は、独我の檻から脱出する方法を。
次に、現象に囲まれ生きる人生に適応する方法を。
最後に、真理に関わる自身の記憶を忘却する方法を。
しかし「自己」という牢獄は頑強でした。
感じ取るものすべてが、自分の精神の映す幻に過ぎない。
その意識は彼に逃げ道を与えず、心を確実にすり減らし、
決して消えない契約の感覚が、記憶の放棄さえ許しませんでした。
彼を苦しめたのは、現前する状況だけではありません。
「世界を救う必要がなくなった」という意識は皮肉にも、
彼にこれまで感じたことのない解放感を与えました。彼は思います。
もう世界のことで悩まなくていい、世界なんて存在しないのだから。
世界を救うために苦しむ必要なんてもうないんだ、と。
そして気づきました。
なんだ、まるで今まで世界を呪っていたみたいじゃないか。
彼の人生が、彼を嘲笑いました。
彼のたどり着いた結論は「自死」でした。
自分が死ねば、この幻の世界からもおさらば出来る。
しかし彼は、どうしても自ら死ぬことができなかったのです。
彼を引きとめたのは、長年連れ添った妻の存在でした。
彼にとって、妻と接することは最大の苦しみでした。
妻は、彼の心がどれだけ荒み乱暴になっても、彼を愛しました。
彼にとってその愛は幻でした。妻もまた現象に過ぎなかったのですから。
それを意識するたびに、彼はどうしても苛立ちを隠せませんでした。
そして、幻相手に隠す必要もないことに気付いて、更なる嫌悪を感じました。
そして妻は、共に追ってきた夢を一方的に諦めた彼を責めませんでした。
真理を得て世界を救う、そのために二人で支え合ってきたのに。
それを勝手に諦めた私に、なぜお前はそんなにも優しいのだ。
嫁に来た頃の理不尽さはどうした。いっそ泣いてくれた方が楽なのに。
結局私の夢など、妻にとってはその程度のものだったのか。
彼は、妻の無条件な優しさに少なからず失望しました。
こんな苦しみは、もうたくさんだ。
しかしそれでも、彼の心は唯一の家族である妻に支えられていたのです。
自分が死ねば、妻は悲しむだろう。
妻を悲しませるような選択は、やはりできない。
おかしなものだ。私は存在もしない幻を相手になにを言っているのだ?
私が死ねば消える幻のくせに、何故?
彼にはとても不思議なことでした。
たとえ相手が幻でも、彼の持つ妻への想いは消えませんでした。
そして、自分が妻に想われているという感覚も。
その事実は、彼を誰よりも傷つけ、また誰よりも支えたのです。
妻の無条件の優しさに失望しつつも、彼にはそれが唯一の生きる支えでした。
彼は、そのうちに考えるようになりました。
意味も義務も罪悪も合理も、全くないはずなのに
私が妻への想いを捨てられないでいるのはなぜだ。
なぜ、存在もしない、価値もないもののために
私は自死を選択しないでいるのだ。
自我の檻の中で極限まで摩耗し、それでも生存をやめられない彼は、
自分の中に、どれだけ心が擦り減っても
消えないものがあることに気付きました。
愛
なんと月並みで、退屈で、ありきたりな答えでしょう。
愛がそれほど強いものなら、とうに世界は愛で救われていたでしょうに。
しかし実際、心の全てを削り取られてしまった彼には、
自分の生きている理由が他に何も見出せなかったのです。
彼はふと考えていました。
人は愛する者がいて初めて、辛くても正しく生きていける。
真摯に愛している者との間で、互いを殺す争いは起こらない。
真理などいらない。世界の人々はお互いのことを想いさえすればいい。
なんと単純で、わかりやすい。
なぜこんな当たり前のことに人類は気付かないのか。
しかし、そこまで来て哲学者は笑いました。
何を今更、と。
悪魔との契約から何年かして、彼は心労からこの世を去ることになります。
彼は苦しみ続けましたが、最後まで自死は選択しませんでした。
そして愛する家族を残して逝くことには、やはり心残りがあったようです。
妻も彼の死を穏やかに、そして労りをもって受け入れ、悲しみました。
彼がその寿命を遂げた後も、妻は彼の墓に花を絶やさなかったといいます。
彼がその寿命を遂げた後も、妻は彼の墓に花を絶やさなかったといいます。
「なぜ?」とお思いでしょうか。
「なぜ『彼が死んだ後の世界』が描写されているのか。
世界を描出していた彼が死んだのに、なぜ世界は消えない?」と。
今しばらくお付き合い下さい。
この物語には、まだ続きがあります。
「すっかり暗くなってしまったわね。」
ある冬の終わり、哲学者の妻は夫の墓前にいました。
空では小さな明星が、夕闇を照らそうと懸命に瞬いています。
彼女は夫に花を手向け、ちょうど帰ろうとしていました。
すると彼女の後ろから、ひとりの子供がやってきました。
卒業式の後でしょうか。黒い礼服を着た、10歳過ぎくらいの少年です。
その少年は、学者の妻に向かって笑顔で言いました。
「こんにちは!」
すると彼女は振り返り、静かに答えました。
「久しぶりね、悪魔の坊や。」