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夕闇 前


契約は正しく履行されました。


悪魔は真理を語り、哲学者はそれを聞きました。


そして知ったのです。


世界は救えない。


いや


世界に救う価値など無い。


違う


救うべき『世界』など、最初から存在しない。


悪魔はこう言ったのです。



『この世界には、あなたしか生きていない』



独我論


それは、世界の幸せのために哲学探究を続けてきた彼が

見過ごすはずは無く、また同時に、見過ごして然るべき可能性でした。


まず彼の頭をよぎったのは、ある有名な映画。


主人公の生きる世界は、脳への電気刺激により作り出された虚像の世界。

感覚されるすべては、自分自身が生み出した「現象」に過ぎない。


次に頭に浮かんだのは、水槽の中の脳。


哲学においても、世界の存在を疑う思想は既にありました。

世界は自身の意識がもたらす幻想でしかないのではないか。

水槽で培養される脳が見ている夢に過ぎないのではないか。

世界は観念のみによって創られているのではないか。


つまり、彼の知覚している世界全てが

彼の精神が映し出す幻に過ぎないということ。

音も、匂いも、痛みも、味も、色も。

そして人も。


独我論という言葉は、哲学の世界では批判の言葉として用いられていました。

「――の考え方は独我論である。」という具合に。


そして、世界という「他者」のために哲学を修めてきた彼は、

そういった観念論を、独我論として無意識に否定してきたのです。

救いたい世界が、実は存在しない。

それを強く恐れるが故に、知らないうちに考慮を拒否していたのです。

 

しかしいま、まるで日が落ち、世界が夕闇に飲まれたかのように

独我論という孤独な事実が彼の全てを暗く覆いました。


我は独り


『この世界には、私しか生きていない』


彼は悪魔に尋ねました。しかし既に先程までの冷静さはありません。


「悪魔よ、お前も現象だというのか。」


悪魔は、こんな時に限って、まるで母親が子供に向かってするように

目を細めて慈しみに満ちた表情で答えました。


「僕はもともと現象ですよ。」


学者の「思考が追い付かない」という様子を見ながら

今度は子供らしく笑って言います。


「悪魔は、生命が生まれる以前の存在です。だからもともと生きてはいません。

 分かりやすく言うなら、人格のある現象ってところでしょうか。


そもそも人間は、時空とか生死とか善悪とかいったものにこだわりすぎます。

そういうものって、本当はたいして大きなものじゃないんですよ。」


そして続けました。


「悪魔は、そういう全ての枠組が生まれる前から存在してるんです。

 だから人間が善くなったって悪くなったって構わないですし、

 生きているとも死んでいるともいえません。

 容姿はもちろん、物体としての体の有無だって自由ですしね。

 

 あ、でも時間が生まれてないなら『前』ってのはおかしいかな。

 そもそも『悪』魔っていう名前からして紛らわしいかも・・・。

 ほんとに、言葉って面倒!」


悪魔が真面目に取り合おうとしない一方で、

学者は完全に冷静さを失っていました。


「では、おまえという存在が、私の見ている幻覚なのだ!

 私は自分の幻覚に偽りの真理を語らせて、勝手に慌てているだけなのだ!

 世界が存在しないなど、私しか存在しないなど、認められるものか!

 とっとと消えてくれ!」


「ひどいなぁ。」


ソファで頭を抱える彼の前に立っていた悪魔は、

ふいに息がかかるくらいまで彼に顔を近づけました。

そして甘い表情で、囁くように言います。


「たしかに僕が幻なら、僕の言葉を信じる必要なんてないでしょうね。

 でも、ほんとにそんなこと言えるんですか?

 僕が幻に見えます?」


悪魔の息遣いを感じました。

人間を追い詰める興奮を隠して、わざとらしく落ち着いた呼吸をしている。

そんな風に感じられました。

そんな風に感じられるほど、悪魔の存在は現実感を持っていました。


「それに、契約の感覚はどうしたって消せないはずです。

 感じるでしょ?『契約が交わされた』って。

 どれだけ気のせいだと思っても無駄ですよ。

 悪魔との契約は重いんです。」


その通りでした。

普通の感覚なら、無理やり気のせいだと割り切ることもできたでしょう。

しかし契約の感覚は、人間が五感で感じ得るどんな刺激とも違う。

それが確かに存在すると、それこそ絶対的に確信してしまうものでした。


気づくと悪魔は学者の膝の上に乗っていました。

楽しくて仕方ないという気持ちが、上気した頬から伝わってきます。

そして耳元で、今度は冷たく言いました。


「『この世界には、あなたしか生きていない』」


「!!!」


彼の精神を支配したのは、大きすぎる孤独でした。

何を見ても、何に触れても、何を聞いても、

何にも届かない。すべては幻。

彼は凪の大洋に、小舟で独り漂っていました。


私の他には、誰も生きていない。


しかし気付きます。


他の現象とは違う特殊な存在が目の前にいる。

この少年は、生物ではないかもしれない。

しかし、生の有無以前の存在ならば、他の幻よりは信用できる。

もう他に、私の手が届くものは存在しない!


悪魔の存在が地獄に仏となるとは、皮肉なものです。

しかし悪魔は、学者の膝から飛びのくと言いました。


「本当はもっとあなたと遊びたいのですが、ここまでですね。

 では契約の通り、僕はこれからあなたには干渉しません。

 また死んだ後にお会いしましょう。それでは!」


そう言うと、悪魔は掻き消えてしまいました。


彼の中に、契約の感覚という呪いを残して。



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