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夕暮


その学者の人生はおおむね、いえ、とても恵まれたものでした。

一定の社会的地位、不足のない収入、良好な人間関係。

そして家族は、子供こそいないものの、彼を深く愛する温和な妻がいます。

真理など得なくとも、彼の人生は充足しているように見えました。


しかし彼は、人類が平和を実現できないでいることに苦悩していました。


どうして人類は、未だに争いの歴史と決別できないのか。

正義の名のもとに無辜の人を殺める技術は日々進歩を遂げている。

急がなくては、争いの大規模化が先に人類を滅ぼしてしまう。

それなのに、私の人生をかけても、やはり真理には届きそうにない。


神よ、どうか人類に世界の真理を掴ませてくれ。


いや、もはや神でなくても、誰でもいいから、どうか。



物語は、彼が四十を過ぎ、年とともに大きくなる憂いにまいっていた

ある日の夕方に始まります。


彼のもとに、奇妙な客人がやってきたのです。


季節は秋。紅葉が彩る山際を、夕陽がさらに赤く染めあげる日暮れ時。

その陽光が柔らかく、温かく彼の書斎を照らすなか、

客人はいつからか彼の愛用するアンティークの椅子に座っていました。

そして彼が書斎の扉を開くと、振り返って笑顔で話しかけたのです。


「こんにちは!」

 

そこにいたのは幼い子供でした。声から察するに、おそらく男の子でしょう。

おおよそ10歳を少し過ぎたくらい。少し小柄で、子供用の黒い礼服に白い肌。

少し癖のついた黒髪とぱちりと開いた目が、年相応の快活な印象を与えます。

いかにも無邪気で可愛らしい、それでいて品のよさそうな少年でした。


「あなたの強い渇望を感じました。何を求めているのですか?」

 

何かがおかしい。

これが、少年に目をとめた学者の第一印象でした。

 

言うまでもない。自宅に見知らぬ子供が現れた時点で状況としては不自然だ。

しかしそこではない。もっと根本的に、この空間の何かがおかしい。

学者はその子供を見つめました。


見た目こそ卒業式後の小学生そのものだが、どこかが違う。


学者は数秒のあいだ静かに考え、結論に至ります。


違和感の原因は、この子供の唐突な出現に対して

学者が極めて冷静な考察を行っているという事実自体にありました。

なぜ私は今、こんなにも落ち着いているのだ。

そう思った瞬間に気が付きました。


この少年からは、異常なまでの強い安心感が放たれていたのです。


この子なら、大人ですら直視に堪えない人間のあらゆる醜悪な劣情も

きっと笑顔で、さながら慈母のように受け入れてくれるでしょう。

人間が持つにはあまりに大きすぎる包容力。

無邪気さのなかに、人間の負の面を全て受け入れる歪な優しさがありました。


学者は、長年の知的探求で培った明晰な頭脳で結論します。


自分に子供がいれば、きっとこれくらいの年齢になっていただろう。

しかし、こいつは人じゃない。

信じがたいことだが、この少年は明らかに人間の枠組を外れている。


そして静かに尋ねました。


「お前は悪魔か。」


「ええ。尻尾か羽を生やしたほうが信じてもらえます?

 ・・・よいしょ。」


悪魔は座っていた椅子を学者の方に向けなおすと、再び腰かけました。


「なにか強く願ったんじゃないですか?『悪魔でもいいから』って。」


「ああ。」


「よかったら、あなたの求めるものをぜひ教えてください。

 悪魔は人間の望みを聞くのが大好きなんです!」

 

悪魔は身を乗り出して聞いてきました。目が輝いています。

独特な雰囲気を除けば、そこにいるのはただの好奇心にあふれた子供でした。

 

哲学者はしばし考えます。


目の前に悪魔が現れた。

この異様な事態に、どう対処したものか。


警察を呼んでも仕方ないのは間違いない。

叩き出すべきか。いや、子供とはいえ、悪魔相手に暴力で勝てるかどうか。

適当にあしらうか。敵意はないようだから、飽きれば帰るかもしれない。

しかし何にせよ状況が異常すぎる。今は相手の出方を見るのが賢明か。


一切が謎に包まれた相手に対し、哲学者はひとまず様子をみることにします。

会話から悪魔の狙いを探るため、彼は先程からの悪魔の問いに答えました。


「悪魔よ、私は真理が知りたいのだ。

 全ての人がそれを頼りにして正しく生きていけるような、絶対的な真理が。」

 

すると悪魔の動きがぴたりと止まりました。大きな眼が丸く開かれます。

彼はその様子を見て、はっと自信の言葉の危うさに気づきました。


「『真理が知りたい』ですって?」

 

冷静な彼にしては少し、いえ、かなり迂闊な発言でした。


問われたことに答えただけとはいえ、まずいことを言ってしまった。

悪魔にとって『絶対的な正しさ』など、十字架の如き害悪でしかないだろう。

そんな望みを持っていることを明かすなど、悪魔相手に宣戦するも同然だ。

子供の姿に油断して、図らずも逆鱗に触れてしまったか。

 

思考に囚われるほど、根本的なものを見逃していくのが人間です。


彼は、自身の軽率な言動を呪いました。

 

数秒間の静寂

 

それから、悪魔はゆっくりとうつむき、

 

次の瞬間


お腹を抱えて笑いだしました。

 

「おもしろい人!本当におもしろい人!

 自分の幸せをほったらかして、他人のためにそんなに必死になれるなんて!

 なんて高潔で素敵な人なんだろう!

 僕、あなたみたいな人、大好きです!」


悪魔は可笑しくてたまらないといった様子で笑い続けました。

椅子から床に届かずぶらりと垂らしていた白い足を

ばたばたと前後に振っています。眼には涙まで浮かんでいました。

 

「しかも、それで悪魔を呼んじゃうなんて!

 正しさを望みすぎて悪魔を呼んじゃうなんて!」

 

「悪魔を指名した憶えはないが。」

 

学者は知らぬ間に、安堵か呆れか

自分でもよくわからないため息をついていました。

 


悪魔がひとしきり笑い終えるまでには数分を要しました。

 

あまりの大笑いに苦しそうな表情を浮かべる悪魔を見ながら、

ひとまずソファに腰を下ろした哲学者は考えます。

 

どうやらこいつは、私の思っているような悪魔とは少し違うらしい。

 

この捉えどころのない子供の悪魔を相手に、

一体どうすればこの状況を無事にやり過ごすことができるか。


いや、待て。

 

むしろ・・・。

 

鮮血色の夕日が山際にかかり、じりじりと沈みゆく中

哲学者の頭にある考えが浮かびました。


これは、危機ではなく好機かもしれない。

 

悪魔が落ち着くのを待ってから、ふいに学者は尋ねました。

 

「悪魔よ。人知を超えたお前なら、

 人類が未だ到達しえない『絶対に正しい真実』も知っているのではないか。」


「もちろんです!」

 

悪魔は元気よく答えます。

 

「それを私に語る気はないか。」

 

これが彼の狙いでした。


悪魔と対話した哲学者など、おそらくこれまでに一人もいない。

人を超えた知性と接触している今は、真理を得る千載一遇の好機ではないか。

多少のリスクを覚悟してでも、試す価値はある。

問題は、どうやって悪魔を説得するかだが・・・。

 

「いいですよ。教えてあげます。

 あなたには楽しい思いもさせてもらいましたしね。」

 

悪魔はあっさりと同意しました。

 

悪魔は哲学者の想像以上に奔放でした。

世に悪をはびこらせたいなら、こんな頼みは断固拒否するべきです。

しかしこの悪魔に、そんなこだわりは微塵もありませんでした。

善悪への執着自体の拒否、これが悪魔の持つ「悪」なのかもしれません。


「でもいいのです?悪魔に『正しさ』を問うなんて、神様が怒っちゃうかも。

 まあ僕は悪魔だし、楽しそうだからいいのですけれど・・・。」


そして悪魔は続けました。不思議そうな表情です。


「それに、僕が真理だといいながら嘘を言う可能性もあるんじゃないです?

 僕、悪魔ですよ?」

 

悪魔が嘘の真理を教えて自分を騙すかもしれない、

そのくらいの可能性はもちろん彼も考慮していました。

学者はすかさず答えます。

 

「簡単なことだ。悪魔が嘘をつけなくなる古典的な方法があるだろう。」

 

首をかしげた悪魔に彼は言いました。

 

「契約だよ。」


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