たった一度の恋
「なあに、わたくし、忙しいの。これから出掛けなければならないのよ。手短にしていただける?」
屋敷の執務室に、執事に無理矢理に連れて来られた姉は、いったいどこの夜会に出るのか、はしたないほどに胸元と背中の大きく開いたドレスを着て、黒髪を妖艶に結いあげていた。
けっして自分の前に座らないだろうとは知っていたが、当主である弟は礼儀に従って、姉に椅子をすすめた。それに返ってきたのが、さきほどの言葉だった。
彼は姉の失礼な態度にはかかずらわず、扉の横で立ったままの彼女を見据え、先を続けた。
「あなたの嫁ぎ先が決まった」
「あら、そう」
姉は陽気に笑んで、肩をすくめた。
「それで、厄介者を引き受けなければならなくなった不幸な殿方は誰かしら?」
「ラタンタを治めるリアム子爵ジェイムズ殿だ」
「そんな方、いたかしら」
姉は唇に人差し指をあて、考え込むふうをした。それだけの仕草で、なんとも言えない媚をふりまく。
そういう女なのだった。たった十五の歳から男という男を虜にし、貢がせては捨てて、次々と文字通り男を乗り換えてきた。
……こんな女だと知っていたら、十年前のあの日に、あんなことを言ったりはしなかったものを。
苦い後悔とともに、そう思う。ここ何年も、彼を苛んできた記憶だった。
「十数年前に王宮の職を辞してから、領地に引っ込んでおられる。あなたを後妻にと望んでおられる」
「ということは、かなりのお歳なのかしら?」
「ああ。六十五歳だ」
「そうなの。そのお歳で未だ子爵でいらっしゃるのは、お子様がいらっしゃらないからなのね?」
「そうだ」
姉に言う気はなかったが、子爵は病を得ていて、そう長くないと聞いていた。つまり、子爵が神に召される前に神の前で結婚を誓い、証明書にサインさえすれば、何年も待たずに財産と爵位は彼女のものになるのだ。
「あら、まあ、それで最後に子供を残そうと、上に乗って勝手に腰を振ってくれる女をご所望ってわけなのね。わたくしほどお誂えの女もいないわね」
しなをつくって口元に扇をあて、婀娜っぽい流し目を彼によこし、姉はクスクスと笑った。巷に広がる噂と、これまでの所業にふさわしい色香で。
「ああ。そういうわけだ」
彼は特に何の反応も見せず、肯定して頷いた。
「ロバートは置いていくといい。私が面倒を見よう」
幾人もの愛人を持ち、誰の子とも知れない姉の子供だった。しかし、黒髪に黒い瞳、高い鼻とがっしりした顎を持っており、ハルニヤ家の男子らしい容姿をしていた。……弟自身の子供と言っていいほどに。
「それは、だめよ」
姉は扇をたたむと、つかつかと部屋の奥まで入ってきた。彼の着く執務机の前に立ち、正面から彼を見据えて、パシ、と机の端を扇で叩く。それから何食わぬ顔で扇を広げ、優雅にゆらゆらと口元を隠すようにして揺らした。
「だったら、わたくしは嫁がなくってよ」
「あなたの息子として育つよりも、この家の子弟として育った方が、彼のためだと思うが?」
姉は微かに柳眉をひそめたが、それも一瞬で、高飛車に顎をあげ、彼を見下すようにして言った。
「わたくしの生んだ子供ですもの。ロバートは一生、わたくしの子供と言われるにきまっているわ。たとえ、ハルニヤの庇護があろうと。……あの、何人もの男を食いものにした、レディ・フェリスの息子だ、と。そうでしょう?」
そこで一転、彼女はまたクスクスと笑い、扇を煽ぎながら、彼に背を向けた。
「だめよ、あの子は。わたくしの唯一の慰めですもの。それとも、家の名に泥を塗った女から何もかもを奪い去って、みじめに追い落としてやらないと気が済まないのかしら、我が弟殿は?」
最後の呼びかけに、彼は、ぐ、と歯を食いしばり、束の間険しい表情となった。
……そう。彼女は彼の姉なのだった。れっきとした同じ父をもつ、血の繋がった姉弟。彼女が十五、彼が十三になるまで、知らなかったことだったが。
彼女は庭師の孫だった。女と見れば見境なく物陰に引っ張り込んだ父と、憐れな下働きの娘の間にできた子だった。
彼は知らなかった。ただ、お互いに愛人を持ち息子に興味のない両親と、仕えはしても愛してくれるわけではない使用人たちの中で、たった一人、本当の笑顔を見せて手を握ってくれる相手だった。彼は、幾人も付けられた家庭教師による勉強の合間をぬって、庭の片隅にもぐりこみ、疲れて冷え切った心に与えられるぬくもりを、切に欲した。
彼が彼女を愛するようになったのは、当然だった。幼い頃は一心に慕う気持ちにすぎなかったものが、体と心の成長とともに、激しい恋情になっていったのも。
十三になり、二つ上の彼女の背に追いついた時、彼は彼女の両手を握って、彼女に告げた。君を愛している、と。いつか私の妻になってくれ、と。
ひどく狼狽え、結婚などできない、と言った彼女に、君は私を愛してくれてはいないの、と詰め寄った。主の息子だから、それだけの理由で、自分と会っていたのか、と。
彼女は長い逡巡のあと、違う、と言った。私もあなたをお慕いしています、と。
震えている彼女に、触れるだけのキスをした。それ以上のことは、まだよく知らなかったから。
けれど、それだけで幸せだった。両親の放蕩で名ばかりとなっている伯爵家を立て直し、いつか必ず彼女を妻にするのだと、希望と決心を抱いた日だった。
しかし、それから一月後、突然彼女は美しく着飾らされて、離れの館に住まわされるようになった。そこに、夜になると父の知人という人物が、入れ代わり立ち代わりやってきた。
父も執事も、それがどういうことなのか教えてくれなかった。が、彼は使用人たちの噂を盗み聞いて知った。彼女は父の借金の形に売られていたのだ。
そうして、彼女が血のつながった姉だと言うことも知った。
三年後、放蕩の限りをつくした父が死んだ時、彼が一番最初にしたのは、彼女を離れから連れ出すことだった。あなたはもう自由にしていいと。望む未来を用意すると。
でも、彼女は、このままで、と言った。この離れに住まわせてほしい、と。それから、用事のないかぎり、父親にそっくりなその顔を、わたくしに見せないでちょうだい、とも。
辛い要求だったが、当然のことだと思った。それ以来、離れの姉のことは使用人に任せた。そうして、傾ききった家を立て直すのに没頭した。姉の生活を保障するためにも、それだけは必要だったから。
二度と笑ってもらえなくても、彼女を守りたかった。穏やかな日々を与えたかった。
なのに彼女は、しばらくすると今度は外に出ていって、男をあさるようになった。さすがあの色事の末に死んだ男の娘と嘲笑われながら、夜の都を渡り歩いた。
彼は怒りに襲われ、彼女を呼び出した。激しく叱責した。彼女は鼻で笑って言った。何も持たないあなたが、私に何を与えてくれるの、と。彼に返す言葉はなかった。彼は彼女を追い返し、それ以来、いっさい彼女に関わるのをやめた。
そうしていつからか、離れに金を渡さないですむようになったようだった。執事からの報告だった。彼女の愛人たちが、ドレスも宝石も馬車も生活費も与えているようだった。それどころか、わたくしの馬が貧相だとみっともないでしょう、と屋敷の厩は修理され、飼葉が山と積まれるようになった。同じ理由で、屋敷の門扉が直され、死んで以来いなかった庭師が入り、荒れた屋敷が美しくなっていった。
同時に、若くして当主になった彼を引き立ててくれる貴族たちが、ぽつぽつと現れるようになった。没落しているばかりか、悪い噂ばかりだった伯爵家の当主を、だ。
こと、ここにきて、彼にも悟るものがあった。彼女が裏から手をまわしているのだろう、と。
注意深く観察していれば、そんな証拠はいくつも出てきた。男たちの中には、それを匂わす者もいた。
……わかっていた。知っていた。しかし彼はそれをすべて無視した。彼女が何を代償にしているのか、考えるだけで腸が煮えくり返った。そんな欲してもいないものを押し付けられて、怒りしか感じられなかった。
だから。
憂さ晴らしに気まぐれを起こして出席した仮面舞踏会で、黒髪に黒い瞳の妖艶な女を捕まえ、客室に連れ込んだのは。
……こんな集いに出てしまった己の馬鹿さかげんに、酒ばかり壁際でさんざん飲んでいたせいもあったかもしれない。けれど、飲みすぎですよ、大丈夫ですかと掛けてきたその声が。いたわりに満ちたそれが。遠い記憶の彼方にあったものと、酷似していて。
思わず、唇でその声を封じていた。激しいキスの合間に交わしたまなざしは、戸惑ってはいても、拒むものではなかった。その瞳を逃せなかった。ひきずるように客室に連れていき、豊満で華奢な体を押さえつけ、欲望のままに貪った。
仮面は取らなかった。それが礼儀であるし、誰かなど、知りたくなかった。夢の一夜だ。それを過ごすために、誰もかれも仮面を着けているのだから。
幸せだった。夢のようなひと時だった。いつまでも果てたくなかった。抱きしめて、このまま永遠にすべりこめるならと。どれほど、願ったか。
しかし、覚めぬ夢はない。そして、夢が甘美であればあるほどに、現実は醜悪だった。
この手でだけは傷つけたくないと思っていたものを、自ら踏み躙った。そういうことでしかなかった。……夢の中の出来事であっても。
「どうしても、ロバートは連れていくと?」
彼は姉にもう一度尋ねた。……誰の子とも知れぬ、子供の行く末を。
「ええ。わたくしの子ですもの」
姉は向き直って答えた。
「そうか。ならば好きにするといい」
姉は何も言わず、微笑んでまた肩をすくめた。
「では、行ってもいいかしら?」
「ああ。出発は明後日だ。それに間に合うならばだが」
彼女はそれを聞くと、ふん、と鼻を鳴らし、彼を睨みつけた。
「思いやりのないお貴族様だこと。侍女たちを急がせなければならないじゃないの」
「それが何か?」
「もういいわ。どうせ言い争ってもしかたのないことですもの。では、ごきげんよう。もう、顔を合わせることもないでしょうから、ここでご挨拶しておくわ」
「体を大切にするように」
彼女は片眉を跳ね上げ、驚きを表してから、ふっと溜息をついた。
「ありがとう」
くるりと背を向け、扉へとつかつかと向かう。彼女がドアノブに手をかけた時、彼は独り言ともとれる呟きを漏らした。
「私はあなたを姉だとは一度も思ったことはない」
彼女はノブに手をかけたまま振り向いて、うっすらと笑った。
「わたくしたち、似たもの姉弟ね。わたくしもあなたを弟だと思ったことはなかったわ」
一呼吸の間だけ見つめ合い、彼女は出ていった。
彼は詰めていた息を吐きだし、肘を机について、目をつぶって両手で顔を覆った。
長い夜のはじまりなのか。新しい朝の到来を待っているのか。その夜、執務室の明かりは遅くまで消されることはなかったのだった。