遊び人行状記
草木のひとつもない荒涼とした土地。上空は黒雲が渦巻いており,辺りは不気味な静けさに包まれている。時々風に舞い上がる埃以外動くものなどないような,まるで死後の世界を思わせた。しかし,そのような風景の中にあって,ひとつの古城が重々しく,死の世界の中心のごとく,そびえ立っていた。
それは魔王の城であった。魔王の城は,そのおどろおどろしい威容を以て,この地の覇者のごとくあった。また実際にそうであった。そしてその覇は今や,この世界全域にまで及ぼうとしていた。
だがこの世界の者たちは,魔王の侵略に対して手をこまねいているを良しとしなかった。彼らは魔王を打ち倒すべく勇者を育て,送り出した。勇者は仲間を得,各地の魔物たちを撃退して行き,世界に光を取り戻していった。そしてついに,勇者たちは魔王城にたどり着くこととなった。
恐るべき古城を前にして,しかし,二人の男たちだけが立っていた。一人は勇者,一人は遊び人であった。各地で得た仲間たちはもはや居ない。旅の途中で一人また一人と,勇者のもとを去って行ったのだ。曰く,「あなたにはもう,ついていけません」と。ある者は涙ながらに,ある者は憮然として,またある者は軽蔑と怒りとを共にして,彼らは勇者に背を向けた。勇者はただ,その背を見送るだけであった。「そういうところですよ」かつての仲間の一人が,冷たいまなざしを振り向かせてそう言った。そしてもう二度と振り返らなかった。
それでも勇者は旅を続けた。そうするより,彼は他の生き方を知らなかった。
「本当に行くのか」
遊び人が問いかけた。古城の門は開かれている。魔王はすぐそこに居た。だが,勇者はすぐには答えなかった。そしてしばらくの沈黙の後,こう問い返した。
「なあ,君はなぜ私についてきたのだ」
その問いは,思いのほか遊び人の胸をついた。そうだ,どうして俺は彼について来たのだろう。遊び人はかつての仲間が,自分たちのもとを去っていくのをその目で見た。彼らの勇者への非難を聞いた。しかし,彼は勇者のもとを去ろうなどと考えたことはなかった。そしてそれがなぜなのか,彼には分らなかった。
勇者は彼の沈黙に,どこかすまなそうに微笑むと,最初の問いに答えた。
「行くよ,私は」
勇者の答えは毅然としていた。遊び人は思わずはっとして,勇者の顔をまじまじと見つめた。勇者の目は,城門を突き抜けて,その先にいる魔王を捉えているらしかった。
「終わりにしよう」
勇者は呟いた。
遊び人は悲しくなった。勇者の態度から,彼がすべてを終わりにしようとしていることを感じ取ってしまったからだった。
果たして死闘の末,魔王は倒された。勇者がその身を以て,魔王にとどめを刺したのだった。
遊び人が勇者の最期を看取った。勇者は嬉しそうに微笑んで,息を引き取った。
魔王が倒されたという報は,瞬く間に世界中に広まった。人々は歓喜し,平和を唱和した。そして勇者を称えた。己の命を犠牲にして世界を救った英雄として称えた。そして遊び人は,英雄を支えた人として,彼もまた英雄となった。
遊び人は魔王討伐の功労者として,大金を貰い受け,爵位と土地を賜った。遊び人は喜んで,自分の土地に立派な屋敷を立てると,人を呼んでは宴会を催して楽しんだ。酒は好きなだけ飲める,食べ物もほしいだけある,女も選り取り見取り,博打も好き放題。彼は大いに幸福であった。遊び人の屋敷は夜も煌々と明かりがついて,女たちの嬌声が周囲の山川に響いた。
しかし幸福はその時々にだけ訪れた。彼が一人になると,幸福はたちまち彼の手を離れた。彼は困惑した。こんなことは以前にはなかったからだ。飲食,女,博打。これらがあれば,遊び人は十分であった。それだけで満たされるはずだった。しかし,今は何かが足りなかった。
ふと思い浮かばれるのは勇者のことだった。遊び人は一人になると勇者の言葉と勇者の姿を思い出した。「君はなぜ私についてきたのだ」その言葉。そして,最期の嬉しそうな顔。それらが己の心に重くのしかかり自身の性質を変えようとしているのだと,遊び人は思った。そしてそれを受け入れようとしている自分を見い出して,遊び人は不思議に思った。
しばらくすると遊び人は屋敷に人を招かなくなった。招くにしても親しい仲の者たちだけで,遊び人の屋敷は急に静かになった。友人が屋敷を訪ねれば,彼と酒を酌み交わし談笑する。相手する者がいなければ,屋敷の自室で書を読んだり,もの思いにふける。それに嫌気が差すと,外へ出て山や川を眺めてまたものを思う。思うのはいつだってひとつのことだった。
――俺はどうして勇者について行ったのだろう。
そうして遊び人は,隠者のような日々を過ごしていった。
魔王討伐から数年経つと,国家間の情勢に不穏な動きが見られるようになった。かつては魔王という脅威のもと一致団結していた各国がその団結の根拠を失うやいなや,元々抱えていた国家間の問題が反動のように表出したのだ。
遊び人もその不穏な国際情勢については知っていた。定期的に訪れる友人たちから,彼は色々な話を聞いていたが,最近話題にのぼるのはどれもその争いの気配に関する話であったからだ。だが,知っているからとて何かするわけでもない。遊び人はいつも通りの生活を続けていた。
何年も住み続けるうちに,自分の住む土地に愛着を持つようになった遊び人は,屋敷近くの散歩を日課とするようになっていた。賜った土地は田舎であったが,山もある川もある気候も穏やかであったので,見るべきところはあった。山川に身をゆだね,鳥虫の歌声,せせらぎの清らかなる音,風の草花を分ける音,それらに耳を澄ます。そうして自然の風景をあるがままに見るとき,遊び人は全身の充足感を得るのだった。しかし得るものはそれだけではない。共に不思議な確信を抱くのだった。
――この中に真意があるはずだ。俺の内の本質はこの中にあるはずだ。
そして長年の疑問が解けてしまうような,そんな気がしてくるのだった。答えが目の前まで,手の届きそうな所まで来たような気さえするのだった。しかし,遊び人は答えを得られないでいた。指の先が触れそうになると,それはふっと霧散してしまう。得ようと思って得られるものではなかった。それを遊び人はもどかしく思った。
樹々が秋色に染まってすぐ,山々は白色を冠した。その白が下まで降りてきたかと思うと,あっという間に遊び人の領地は雪に埋まった。連日の物凄い雪で日課の散歩も出来ずにいた遊び人は,数日を屋敷の中で鬱々として過ごさねばならなかった。ようやく雪雲が退くと,遊び人は嬉々として雪景色の中を歩いた。
陽光を受けて白銀のように輝く風景を堪能している遊び人のもとへ,雪深い中を苦労そうに踏みしめてくる一人の男があった。その男は遊び人の友人であって,ある国の官吏であった。
彼は遊び人に話があると言って,彼を屋敷へ連れ戻した。
男が遊び人に言うには,近々戦争になるかも知れない,我々として戦争回避に尽力するが,その際君の手を煩わせるかも知れない,どうかよろしく頼む,とのことであった。
「いまさら俺が何の役に立つ」
遊び人はすぐさま反論した。それは彼の本心であった。己のことなど皆忘れたことだろう。遊び人は思った。そしてそれは事実であった。近隣の領民のなかには,この地の領主がかつての英雄の一人であることなど,知りもしない者が大勢いた。
「いやそんなことはない! 英雄の一言は重い。君の言うことを無視できる者など,今の世にはいないさ」
男は熱を込めてそう言った。
それから男は根気よく説得を続けて,とうとう遊び人の承諾を得た。
「それではよろしく頼むよ」
男は渋い顔の遊び人に見送られて帰って行った。
春になった。領地の雪もむら消えになり,春の風景がぽつぽつと現れ始めていた。遊び人はその中にあって山へと向かっていた。雪が解け切ってしまえば,戦争という選択肢が現実味を帯びてくる。それを阻止することに尽力するにせよしないにせよ,その前に,遊び人は自分のことを,己という存在のことをしっかりと確かめておく必要があると考えた。
――俺は今どこに居てどこへ向かっているのか。
そのことをはっきりさせなければならない,と彼は思った。そして,どうすればはっきりするのかと考えたとき,彼は山へ行くことを決めた。何かを語りかけてくるとすればそれは山であることを,長年の観察から遊び人は知っていた。だから彼は山へ行こうと決めたのだった。
山道は雪解けの水で濡れていた。足を滑らさぬよう慎重に歩いていた遊び人は,山道の所々に水の流れが出来ているのを発見した。それは雪解けによるものだった。これが集えば川になるのかと思うと,遊び人は少し面白く思った。そして,この水の流れを辿ってみようと思った。春の山気に心洗われて,本来の目的を忘れたのだった。
水の流れを追って長らく歩いていると,さすがに遊び人も足が疲れて,近くにあった岩に腰かけた。幸い,岩は日当たりの良い所にあったため濡れていなかった。
木漏れ日に当たりながら,遊び人は目をつぶって春の山の気配を楽しんだ。世の乱れとは無縁であった。争いの気配など一つもなかった。遊び人は思った。今の俺にはこれで十分なのではないか,これ以上できるものがあるだろうか。
彼は日々の,自然との対面のなかで,自身の卑小さを知った。己の一生に降りかかる様々な問題の,その取るに足らなさを知った。巨石のように思えた物事は,過ぎてしまえば砂粒にも満たないものだった。そう思うと遊び人には,人というものが自身と同じく取るに足らないもののように思えた。そして人々が作り出した,国家だとか,戦争だとかも同じく取るに足らないもののように思えた。
しかし,その境地に至ってもなお,彼の心に一点のくもりを残すものがあった。かの勇者であった。人の存在も,その言葉も,儚いものだとするならば,彼の中にある,かの勇者は何であったか。遊び人が一日たりとも忘れることが出来なかった,かの勇者の言葉は何であったか。
彼と彼の言葉が,遊び人には到底砂粒のごとくには思えなかった。吹けば消えてしまうような儚いもののようには思えなかった。それは,どんな巨石よりもはるかに大きな,ひとつの普遍的な何か,己が己であるためのひとつの真理に思えてならなかった。
山道を一陣の風が吹き抜けた。それは山頂からの吹き下ろしらしく,冬の名残りが感じられた。その冷たさに,遊び人は目を見開いた。
するとふと,遊び人に,あの感覚が,ずっと考え続けてきた疑問がまったく解けてしまいそうなあの予感が,不意に訪れた。遊び人は,しかしながら,いつものようには,その感覚を逃さまいと躍起にはならなかった。彼は不思議に待とうという気になった。座してその感覚を見つめていようと思った。
遊び人は一心になってその感覚と向き合った。
どれくらいの時間が流れたであろう,ふと,遊び人は足先に冷たいものを感じた。それは,今まさに新しく出来た,細くゆっくりとした雪解けの水流であった。流れが遅いために他に遅れて今ようやく,遊び人の足元へ流れ着いたものと見える。
遊び人がしげしげと足元を流れる水を眺めると,その水流は細いために,地形の変化を強く受けて,あっちに流れこっちに流れと蛇行していた。そして,その水流は,山下りの途中で拾ったものと思しき,葉や木の実といった小さな物を様々運んでいたが,あまりに蛇行するので,それらの中には堪え切れず,流れから外れてしまうものが多々あった。しかし,その中にあって唯一,流れから振り落とされずに済んでいるものがいた。それは小さな羽虫の死骸であった。もとが軽いのに加え羽が水を受けるものと見えて,羽虫は他のものが水流から離れていくのを尻目に,ずんずんと流れていった。その羽虫を遊び人はじっと見つめていた。
「あぁ……」
遊び人は嘆息して,全身の力が抜けていくのを感じた。安堵とも達成感とも開放感ともつかぬ,奇妙な感覚が全身を包んだ。
――そうか,そうだったのか。
遊び人は胸の内がいっぱいになり,彼は両手で自身の顔面を包むと,静かに涙を流した。
遊び人の疑問は瞬く間に解消してしまったのだった。彼を長年思い煩わせたあの問いの答えを,彼は確かに発見したのだった。そして,問いの答えは確かに,砂粒のごときものではなかった。
彼は勇者の名を,二度三度口にすると,その場に泣き崩れた。
遊び人の嗚咽が,春の山間に響いた。
その後,彼は友人たちともに各国を説得し,見事争いを鎮めた。諸国の王たちが,かつての英雄を無視できないという事情があったにせよ,彼の言葉を聞き入れたのは,ひとえに彼がまったく中立でどの国にも利さなかったのと,何より各国の問題に次々と解決の糸口を与えていったからである。
彼の手腕に人々は驚嘆し,口々に彼を偉大なる人と呼んだ。だが彼は言う,「己は小さき流れに従う小さき者だ」と。
人々は彼の功績とその人徳を以て,彼を「賢者」と称え,賞賛を惜しまなかった。