シンドウ
シンドウ
あおぶた
エレベーターの夢を見た。
僕はエレベーターの匂いが好きなのだが、後にそれがシンナーだと知った時の微妙な気持ちは、今は関係ない。
いつも通り、僕は一二階を目指していた。一二階の隅にあるのが我が家だ。明日の練習試合に向けて、帰ったら素振りでもしようかと少し意気込んでいたような気もする。グローブの手入れは既に済んでいた。
光と闇とが交互にやってくる。エレベーターが一一階を通過した。かつ、まったく減速しなかった。ここで僕は違和感を憶えた訳だが、一二階を通り過ぎたところでそれは悪寒に変わった。階を示すデジタル盤が、淡々と数字を重ねていく。そして、その数字がこのマンションの最上階である二三を超えた時、その淡々とした姿勢は愈愈狂気にしか思えなかった。僕は目を閉じ、両耳を塞いでとりあえず逃避してみる。
二分くらい経った頃だろうか。エレベーターが徐々に減速し、いつもやっているようにゆっくりと止まった。目と耳の拘束を解いてみる。階の表示は消えていたが、ドアは何事も無かったかのようにスライドした。僕はこの数分間でエレベーターに対する信頼を失っていたので、思い切って外に出てみた。
そこは、広いグラウンドになっていた。上方には青い空が見えるが、雲は一つも無い。地面はどこまでも伸びていて、その終わりの部分は見えなかった。もちろん、このマンションにそんな広大な敷地など無かったのだが、生憎僕は、その点を見落としていた。
程なく、地平線の彼方から何かがこちらに飛んできた。最初は黒い点にしか見えなかった。あれは何だろうと二、三歩踏み出してみると、いつの間にか左手にグローブが装着されていた。捕れ、ということらしい。僕はそこそこ慣れた動きでもって、飛行体をキャッチする。案の定、それはあばら骨だった。あばら骨には、「消費者どもより」という落書きがあった。僕は、そのあばら骨を地平線の彼方へ投げ返してやったが、もう戻ってくることは無かった。向こうさんにキャッチボールをする意志はないらしい。
すると、どこからやって来たのか、一匹のモンシロチョウが僕の周りをひらひらと舞い始めた。その真っ白な揺らめきは、僕に白球の美しさを想起させた。あれを僕のものにしたい。そう思って、自分の指先を木の枝のように差し出す。モンシロチョウは、期待通りに止まってくれた。手に入れた直後ほど味気ないものはない。
こうやって近くで見ると、人外というのはひどく変だ。不気味なくらい目が離れているし、手足の付き方も怪しい。なにより、何を考えているのかまったく分からないという点において不気味だった。ヒトの持つアブラは他の生物には有害だと聞いたが、ではこいつは何故僕の指に止まったのか。羽をもいだら、少しは表情のようなものを見せるだろうか。
チョウが、急に思いついたように指先から離れた。チョウの複眼には、何十個もの僕の顔が映っていた。何か言わなければ、チョウがそのまま飛び去ってしまうような気がした。
「ごめん……」
そこまで言ってのけた時、突然地面が唸る。
地面は上下に震動を始めた。先刻までの恐怖が再びせり上がってくる。チョウは、どこかへ飛んでいって見えなくなっていた。
グググ、というくぐもった音と共に、地面が上昇を始めた。その不条理な上昇に、色々な意味でもって吐き気がした。視界が絶えず揺れた。せめてビージーエムでもかかってくれればいいのに。雑音ばかりが体を伝う。
大気がだんだん薄くなってくる。胸が痛くなってきた。このまま大気圏を出てしまうと、愈愈僕は宇宙の塵となるだろう。耳の奥の方で、甲高い悲鳴がひとつ聞こえた。
というのが今朝の夢だった。
携帯は、二〇〇六年六月三日を指している。もう寝汗を掻く時分であった。
朝練があるため、僕は五キロ以上ある鞄を背負いこんだ。家の外に出る。朝日が煌々と、僕の顔を焼いてきた。鞄によってできた影が、何だかモンシロチョウに見えて仕方なかった。
【シンドラーエレベータ死亡事故】
東京都港区にある区営の特定公共賃貸住宅「シティハイツ竹芝」に設置されていたシンドラー社製エレベーター2基のうち1基で、自転車に乗ったまま乗降中の高校生が、扉が開いたまま突然上昇したエレベーターのかご部分と建物の天井との間に挟まれ折りたたまれて圧死する事故が発生した。事故発生直後、国土交通省はシンドラーに、国内にある同社製エレベーターの全リストの提出を求めたが、当初は「個人情報保護」を理由に国交省へのリスト提供を拒否した(6月9日にリストを提出)。また、スイスのシンドラーグループ本部は6月9日、「(事故は)欠陥ではなく他社の不適切な保守点検か、閉じ込められた乗客による危険な行為が主因」とする声明を発表した。当時、保守は同社と資本関係のない競合会社が受注していた(2005年度は日本電力サービス、2006年度はエス・イー・シーエレベーター)。事故当初より、シンドラーは再三の住民説明会や記者会見の要請を拒み続け、初めて記者会見を開いたのは、事故から9日経過した6月12日であった。この会見で、同社による保守業者への情報の提供が不充分であったことが明らかになった。翌日の6月13日に、初めて住民説明会を開いて、ケン・スミス社長が謝罪した。(ウィキペディア)




