杉坂女子高校 VS 天帝高校
マウンドの黒崎さんが汗を拭う、相変わらずの無表情だが楽なマウンドではない。
試合は三回裏まで進みお互いにまだ無得点の展開。
この回の天帝高校の攻撃はサードのエラーでランナーを出し二死一塁となっている。
本来ならばチェンジだったはずがさらにアウト一つを要求されている状況。
この炎天下では少しでも球数を抑えたいだけにかなり苦しいワンエラーだろう。
しかし、ある程度のエラーは野球につきものでありそれを乗り越えてこそエースだ。
そんな風に黒崎さんなら考えるだろうな、と俺はぼんやりとそう思った。
そして三番の佳矢に対してカウントツーボールツーストライクとする。
そこから二球ファールで粘られ、フォークを見極められてフルカウント。
逆に追い込まれた形となったが、最後は打ち取り強めのショートゴロが正面に飛ぶ。
その打球をショートが前にこぼした、しかし当たりが強かったのだから落ち着いて処理すればそれからでも十分アウトを取れる状況だったはずだ。
しかし平静を保てない、ボールが手につかず拾い直そうとしたそれを再びこぼす。
記録はショートのエラーで二死一・二塁とピンチが拡大する。
これで杉坂女子のエラーは早くも三個目である、言うまでもなく異常なペースだ。
準々決勝まで勝ち進んだことと、相手が天帝高校であるということで観衆も多い。
それによりただでさえ緊張しているのにますます負担がかかっているのだろう。
元々守備のレベルが高いとは言えないが、その実力以上にミスが出てしまっている。
そして迎える打者は四番で左打者の東堂さん、現時点では最強打者といえる存在だ。
そんな相手をピンチで迎えてしまった、ここをどう乗り切るのか。
第一打席は東堂さんが速球に詰まってのライトフライに倒れている。
大事な初球、真ん中付近の速球をスイングされるが、力でねじ伏せた。
打球はバックネット方向に飛ぶファールとなりまずワンストライク。
続いてボール球を一球挟んでから再びストレートを投じる。
今度は東堂さんがそれをしっかり捉えた、引っ張った強烈な当たりがライン際に。
ギリギリで切れてファールとなるが、あと五十センチもずれていれば長打だった。
何にしても追い込んだ、ここからどう止めを刺すかだ。
黒崎さんは続いて胸元のボール球で身体を起こしてから、最後に膝下に投じた。
東堂さんが反応しスイングするが、ボールはストライクギリギリから鋭く落ちた。
黒崎さんのウイニングショットであるフォークが完璧に決まった。
あの東堂さんから空振り三振を奪ったことに、スタンドがどよめく。
味方が二つのエラーで招いたピンチを完全に火消ししたのはさすがエースと言える。
しかし、一つ気になるのは球数がかなり嵩んでいることだっった。
相手はチーム指示なのか、早いカウントでは待球し追い込まれても粘ろうと試みる。
味方のエラーで余計なアウトを必要としたこともありここまでで五十八球を要した。
九回を投げる計算でいくと百七十四球ペースとなる、どう考えても無謀な数字だ。
黒崎さんは決してスタミナのない投手ではないが、それでも当然限界はある。
それを考えれば、最後まで投げきるためには球数を減らす必要があるのは明らかだ。
しかしそれもなかなか難しい、黒崎さんは素晴らしい投手なのだが弱点もある。
一つは制球難、といっても組み立てが成り立たないほどコントロールが悪いというわけではないのだが安定した制球力を持っているとは言えないレベルである。
細かいコントロールではなくスピードと球威で抑えこむタイプだから当然ではある。
しかしそれは意図しないボール球やそれによる四球を誘発する可能性を意味する。
そうなれば当然球数は嵩むことになる、それは避けられないことだ。
そしてもう一つは緩急が付けられないことが挙げられる。
黒崎さんの持ち球はストレートの他には決め球のフォークに加えスライダーがある。
投球の殆どをストレートが占める速球中心のピッチャーであり、更に変化球であるスライダーやフォークもかなりのスピードが出る。
それ自体は悪いことではないが、タイミングを外す緩い球が存在しないのは弱点だ。
一定のタイミングで安定して待てる分、カットしやすいという事実はあるだろう。
それらの理由により、どうしても球数を少なく抑えることは難しそうだ。
だからこそ味方の守備がしっかりして負担を少しでも減らしてあげて欲しいのだが。
一方で希望もある、ここまで黒崎さんはただの一本もヒットを打たれていない。
万全な状態で対戦することが出来れば天帝高校の打線を相手にしても対等に、いやそれを抑えこむことすら出来る実力があると証明されつつある。
とは言え、常に万全な状態で投げられるとは限らないのがピッチャーでもある。
悪いなりに抑える、苦しい時を凌ぐ、そういった技術もまた必要であろう。
試合は四回表の杉坂女子の攻撃へと移る、ここまで杉坂女子はヒット一本。
そしてそのヒットを放ったのが三番の黒崎さんであった。
シュートピッチャーの宍戸さんの特性を考えれば、左の強打者である黒崎さんが鍵となるのは容易に予想できたことではある。
そして黒崎さんの打力であれば十分に結果を期待することも出来そうだ。
問題は残りの打者だ、もう一人の強打者である四番の堀越さんは右打者。
先ほどは内角を攻められバッテリーの思惑通りの内野ゴロを打たされてしまった。
やはり右打者では宍戸さんの相手は厳しいのだろう。
しかしそれを言い出すのであれば宍戸さんの攻略はますます絶望的とも言える。
なぜなら杉坂女子のメンバーに左打者は黒崎さんを含め二人しか存在しないからだ。
そんな状態ではどうしても右打者にも結果が求められる、なんとかするしか無い。
しかしその願いも届かずこの回は三者凡退に終わる。
三番の黒崎さんにも打順が回ったがこの打席はショートゴロに倒れた。
宍戸さんから点をとるのは想像以上に厳しそうだ。
それだけに黒崎さんは死ぬ気で抑えに行かないといけない、常に全力で投げる。
試合は六回裏を終えて、依然スコアレスの投手戦が続いていた。
そして黒崎さんの球数は百十球を超えた、相手の待球策が実ったこともあるが、それに加えて味方のエラーが五つ目を記録したのも大きかった。
本来ならばもっと早くイニングを切り上げられるのに、エラーで続投させられる。
これは通常よりもさらに負担がかかるのではないかと俺はそう想像していた。
もっとも俺は投手経験がないから断言は出来ないが、少なくとも味方のエラーにより楽になることはないだろう。
そして七回表の杉坂女子の攻撃は二番から始まる。
先頭打者が三振に倒れる、一死無走者で三番の黒崎さんが打席に入った。
黒崎さんが杉坂女子で今一番期待できる打者であることは間違いない。
だからこそ何とかランナーをおいて彼女に回せれば、と思ったがそれは叶わない。
後続に期待するのは難しい、そして試合はもう終盤である。
それらを考えれば今の黒崎さんの狙いは一つだろう。
そしてその初球、ストレートが僅かに甘く入った。
黒崎さんのバットが動く、完全に一発を狙った豪快なスイングが繰り出された。
真芯で捉える、鋭いライナー性の打球がセンター方向へと飛んでいく。
センターの桜庭さんが背走する、しかしこれは追いつけそうにない。
激しい衝突音が響いた、フェンスの最上部に打球が直撃して跳ね返り地面に落ちる。
桜庭さんの外野守備はトップレベルで跳ね返りを正確に処理して返球。
三塁を窺おうかという積極的な走塁を見せた黒崎さんを二塁で止めた。
その時、それまでどんなピンチでも崩れなかった黒崎さんの表情が僅かに崩れた。
あと数十センチで柵を超えていたはずの痛烈な打球、紙一重だった。
しかしその僅かな差が致命的だったということを黒崎さんは悟ったのだろう。
そしてそれが現実となる、四球こそ出たものの結局後続は倒れ無得点に終わった。
杉坂女子は最高のチャンスを逃した、この時点で流れは反転したのかもしれない。
八回裏の天帝高校の攻撃は三番の佳矢から始まる。
その佳矢が得意な直球を綺麗に捉える、左中間を真っ二つにする二塁打となった。
無死二塁のピンチで四番の東堂さん、ここは当然勝負を避ける場面である。
立ち上がって敬遠し、無死一・二塁となって五番打者へと回る。
そこからは圧巻の投球だった、まず五番を追い込み低めのフォークで空振り三振。
六番打者に対しては全て直球で勝負しに行き、高めの直球で空振り三振に仕留めた。
二者連続三振で二死一・二塁、このままいけば最大のピンチを脱することが出来る。
そして投手で七番の宍戸さんにも力勝負でワンボールツーストライクと追い込む。
最後のインコースの真っ直ぐに宍戸さんは完全に力負けした、高いフライが上がる。
ショートとレフトがそれぞれ打球を追うが、これはショートの打球だ。
下がりながら捕球する必要がある難しいフライ、走って打球を追うも不安な動きだ。
距離を詰めてきたレフトの位置が気になったのか、打球を追うショートが一瞬視線をそちらに走らせた。
それが致命的だった、一度打球から目を切ってしまい感覚がずれたのだろう。
目測を誤る、慌てて打球に向かってグラブを伸ばしたもののボールは地面に落ちた。
二塁ランナーの佳矢がホームベースを踏んで〇対一、ついに均衡が破れた。
確かに難しい打球ではあったと思う、しかし今のは捕って欲しかった。
今までなら抑えていたであろうコースのボールだった。
疲労で球威が落ちた分、難しい打球になるところまで運ばれてしまったのだろう。
記録はヒットと表示された、今のが黒崎さんの自責点になるのは気の毒だ。
もっとも彼女はチームの勝利しか考えていないから、それに興味を示さないだろう。
誰の責任だとしても、失点したという事実は動かすことが出来ないのだから。
九回表の杉坂女子の攻撃、残された最後のチャンス。
〇対一と相変わらず点差は僅かに一点だが、その一点が重い、
一番から始まる攻撃だったが、あっという間に二死無走者。
ここで倒れれば試合終了という崖っぷちの状態で、三番の黒崎さんに回った。
そして、その結果は残酷なものだった。
ストレートの四球、ストライクゾーンには一球も投じられることはなかった。
当然の結果ではある、先ほどの打席であわや一発という一撃を浴びた相手。
そして杉坂女子の打線の中軸であり、間違いなく最強の打者である。
そんな相手と一点差の場面で危険を犯して勝負する理由はどこにもないだろう。
実質的な敬遠で二死一塁、そして四番の堀越さんが内角のボールに詰まらされた。
サードの前にゴロが転がり一塁に転送されて、試合が終わった。
黒崎さんの八回百四十五球の熱投が報われることはなかった。




