覚醒
試合が終わった後、俺達は関西国際女子のメンバーが出てくるのを待つことにした。
伊良波さんの様子が気になる、あの結果でかなりのショックを受けたはずだ。
そしてしばらく待ったあと、少しずつ人が流れ出てきた。
しかしなかなか伊良波さんの姿は見えない、だんだんと心配になってくる。
他の選手が出始めてから十分以上して、ようやくその姿を見ることが出来た。
ベンチ入り登録から外れたためスタンドで応援した後に、一緒に着替えていた浅野さんや捕手の和泉さんが下を向く伊良波さんを支えながらゆっくり歩いている。
「……伊良波さん」
愛里がそう声を掛けると、ゆっくりとそちらに向かって顔を上げた。
真っ赤に充血したその目は、先ほどまで伊良波さんが号泣していたことを窺わせた。
「さすが関西ナンバーワンのキャッチャーだった安島さんだけありますね、全く持ってあなたの言う通りでしたよ。私は高校で通用するピッチャーじゃなかったです」
「……私が言ったのは、今のままでは通用しないということだけ」
「下手な慰めは止して下さい、素直に自分の見る目が確かだったことを喜んでくれたほうがまだこちらとしても納得がいきますよ」
「伊良波さん、あなたはまだ一年生なのにそんなに責任を感じる必要は無いわ」
「私なんかが口を挟める問題じゃないけど、和泉さんの言う通りだと思う」
和泉さんと浅野さんがそれぞれ慰めの言葉を口にするが、伊良波さんには届かない。
「一年生だから打たれて負けても仕方ないってそんなわけないじゃないですか、監督も期待して二番手として私を起用してくれたのに……こんな……」
「……伊良波さん、三年生はこれで引退してその後のあなたはエース候補なの。そんな大事な存在が、いつまでも一度打たれたことを引きずるならうちはやっていけない」
優しく言ってもダメなら厳しくということか、伊良波さんが必要だとそう伝える。
しかし今の伊良波さんにとって、その言葉は負担にしかならないようだった。
「やめてくださいよ、もう私に何も期待しないで下さい……誰かの期待を裏切ってしまうことがこんなに苦しくて、こんなに罪深いことだなんて私は知らなかったんです」
元々、精神面で強いタイプのピッチャーではなかったと思う。
中学時代はエリート街道を歩み、鳴り物入りで高校に進学したのだから当然だ。
そして高校に入学してから、初めて壁にぶつかり苦しんでいる。
「……それでこれからどうするの? どんなに悔やんでも今日の負けは取り返せない」
愛里のその言葉は厳しいものだったが、確かな事実でもある。
前向きな気持ちになれれば、今後の活躍で取り返したいという結論になるのだろう。
しかし、今の伊良波さんがそういう結論に辿り着けるとはとても思えなかった。
「私はこれ以上誰にも迷惑をかけたくないです、今日で野球を辞めます」
その言葉に周囲の人間がざわめく、
やはり、今の伊良波さんは前向きな選択が出来る状態ではなかった。
今まで築いてきたものが打ち砕かれ、全てを投げ出す選択をしようとしている。
「……私に打たれたまま逃げるの?」
愛里の挑発、伊良波さんを発奮させ引退を撤回させようとしているのは明らかだ。
「私はあなたみたいに才能がないですから、そのことにもっと早く気づくべきでした」
「……残念ね、私はあなたのことをライバルになり得る存在だと思っていたのに」
「取ってつけたような称賛ありがとうございます、ご期待に添えず申し訳ありません」
今の伊良波さんは自分を傷つけることで、精神の安定を図っているように見える。
以前の悪く言えば傲慢とも言える程の自信に満ち溢れた彼女を一度見ているだけに、そんな光景を見るのは心苦しい。
そしてその時、一つの異変に気づいた。
浅野さんの目に涙が浮かんでいる、歯を食いしばりそれを必死に堪えようとしたようだがついに溢れてしまう。
時を同じくして、周囲のみんなもその事に気付き浅野さんに視線が集まる。
伊良波さんもそれを見て、困惑の表情を浮かべた。
「なんで浅野先輩が泣いてるんですか、おかしいですよそんなの」
「まだ一年生なのにあれだけの速球が投げられて、それで才能が無いわけない」
「スピードだけじゃ通用しないってことですよ、所詮はお山の大将だったんです」
その言葉を聞いて浅野さんが伊良波さんを睨みつけた、初めて見る光景だった。
「伊良波さんは持たざる者の気持ちが分かっていないよ、本当に才能がないっていうのは私みたいな人間を言うの。どんなに練習しても平均値にすら届かないんだから」
「私は悔しいよ、どうして伊良波さんみたいな人に才能があって私にはないのか。まだまだ練習で伸びるのに、それを鑑みずに自分には才能がないなんてふざけてるよ」
もしも、今の発言を他の誰かがしていたら伊良波さんも反発したかもしれない。
しかし、他ならぬ浅野さんの発言では反論の余地は全くなかった。
誰よりも練習し、誰よりもひたむきに野球に取り組み、その姿勢で誰よりも人望を集めた浅野さんの発言だからこそ、それには強い説得力があった。
黙りこんでしまった伊良波さんに、俺が一つの提案をすることにする。
「野球を辞めるぐらいの覚悟があるなら、最後に一つ賭けてみないか?」
「賭け?」
俺のその言葉に視線をこちらに向けるも、その意味は良くわかっていないようだ。
「今の伊良波さんの一番大きな問題点は制球力だ、それを劇的に改善出来る可能性がある方法がある。代わりにハイリスクだがどうせ野球を辞めるつもりならいいだろう」
伊良波さんは無言で考え込んでいる、その手を浅野さんが引いた。
「安島さんならきっと悪いようにしないと思うから、話だけでも聞いてみよう」
浅野さんのその言葉を受けて、しばらくしてから伊良波さんが頷いた。
そして関西国際女子のグラウンドへと場所を移した。
手間になってしまうが、再びユニフォームに着替えてもらう。
「これから、どうするんですか?」
みんなが集まってから、浅野さんが誰もが持っているであろう疑問をぶつけてくる。
「伊良波さんの投球フォームを変える、具体的にはサイドスローに転向させる」
「幸い、今ここにいる詩織はサイドスローとしては完成形といってもいい安定感があるし教科書としては最適だろう」
「でも、他の高校の選手のフォームを勝手に変えるのはまずいよ」
詩織のその発言はもっともであり、俺もそのことを考えなかったわけではない。
フォームの変更というのは高いリスクを伴う行為であり、それに失敗して以前よりも能力が落ちることだってままあることだ。
それを所属するチームの監督に断りも入れずに行うのは非常識以外の何物でもない。
しかし、それでも今の伊良波さんには劇的な変化が必要なのだ。
野球を辞めるとまで口にする、それほど追い込まれているのが今の状態だ。
そこから立ち直るためには何かしらの大きな収穫が必要だ。
そして、それを得ようとした時にリスクは避けて通れないものである。
「最終的な判断は伊良波さんに任せる、選手生命に関わるぐらい重大な選択なのだから本人の決断が尊重されるべきだ」
そう言いつつも、俺は伊良波さんの答えを予測していた。
当の本人が高校野球の壁というものを嫌というほど感じたはずだ。
そして致命的な制球難、これを改善しないといけないというのも理解しているはず。
リスクを承知のうえで、これに挑戦するだろう。
「……わかりました、ダメで元々ですから」
そしてその予想通りに承認を得て、本作戦の実行を決定する。
和泉さんが捕手となり、試合が終わって冷えた肩を温めなおす。
その間に浅野さんが声を掛けてきた。
「うまくいくと、思いますか?」
その声色からは、なんとか上手く行って欲しいというそんな想いを感じ取れた。
「一般的にはサイドスローに転向すれば制球が改善されることは多い、しかし同時に球威が落ちることも多くそれで結果的に通用しなくなるパターンも多々ある」
「少なくとも詩織はサイドスロー転向のコーチ役としては問題ないとは思っている、しかし最終的にモノを言うのは本人の適正だからな」
「安島さんでも、どうなるかは分からないってことですか」
浅野さんの不安そうな表情に申し訳ないと感じる。
「無責任な俺に失望したか?」
「いえ、そんなことはないですよ。全てが安全に上手くいく方法なんて無いですよね」
「そうだな、もっと確実で安全な方法があるならそれを提案していた」
なんとか理解して貰えたようで、一つ安心する。
同時に浅野さんに悪く思われたくない、そう考えている自分に気付き困惑した。
しかし今は目の前のことに集中しないといけない、気持ちを切り替える。
肩を温めた伊良波さんに、詩織がサイドスローでの投法について口頭で説明する。
詩織はオーソドックスなサイドスローで、左右の違いはあれど参考になるはずだ。
そしてしばらくして、詩織が伊良波さんの側を離れた。
どうやらアドバイスが終わったようだ、後は実際に投げてみるしかない。
伊良波さんがゆっくりと投球モーションに入り、ボールを投じた。
見様見真似の拙いサイドスローだったが、そこから繰り出されたボールはしっかりとストライクゾーンに吸い込まれた。
その瞬間、伊良波さんの雰囲気が変わったのを俺は確かに感じた。
二球目、再びストライクゾーンにボールが投げ込まれる。
三球目、四球目、五球目、伊良波さんが次々とテンポ良くボールを投げ込んでいく。
その度にフォームは洗練され、ボールのスピードが増していく。
「修平、これは……」
同じピッチャーである詩織は俺よりも敏感にその変化の恐ろしさに気づいただろう。
「俺は、とんでもない武器を敵に贈っちまったかもしれないな……」
その光景をみた俺は思わずそう呟いていた。
そして十球程を投げ終えた後だろうか、伊良波さんがそれを投じた。
投げられた瞬間は、ストレートだと思った。
そのぐらいのスピード持ったボールが、手元で鋭く変化した。
予測していなかった和泉さんがをそれを捕球できるはずもなく、ボールが逸れる。
以前から投げていた高速スライダーだったが、スピードもキレも増している。
元々スライダーはサイドスローと相性の良い変化球ではあるのだが、ここまでとは。
伊良波さんも満足が行くボールが投げられたのか、笑みを浮かべた。
それからも投球を続けたが、安定感のある別人のようなピッチングを見せた。
球数が三十球を超えた辺りで、限度だと感じて止めに入った。
「今日は試合でも投げたんだから、そのぐらいにしておいたほうがいい」
成果を得られた今、投げ込みたくなる気持ちは分かるが無理をしてはいけない。
伊良波さんの表情は輝いていた、投げることが楽しくて仕方がないといった様子。
それは純粋に野球が好きだった子供のころを思い出させるような表情だった。
「投げていて、こんなに気持ちが高揚したのは初めての経験です」
その言葉通り、伊良波さんは興奮を隠し切れない様子だ。
自分の投げたボールに相当の手応えがあったのだろう。
「安島さんのお兄さんも成宮さんも、お付き合い下さってありがとうございました。これでなんとか野球を続けられそうです」
「元々伊良波さんに力があっただけの話だよ、俺達は大したことしてないさ」
「でも安島さんのお兄さんが提案しなかったらフォーム転向はなかったと思いますし、それに成宮さんの指導がなかったらダメだったかもしれません」
「あの程度は指導っていうレベルじゃないよ、あなたに適性があっただけ」
「とにかくお二人のおかげだと私は思ってますから」
最後にそういって一礼をしてから、他のメンバーの元へ伊良波さんが話をしにいく。
「あのボールを見て、愛里も焦ったか?」
「……あのぐらい投げてくれないと、手応えがないぐらいだよ」
そう強がる愛里の口元にも笑みが浮かんでいて、望ましい結末に至ったことを喜ばしく思った。
「大成功でしたね、良かったです。やっぱり伊良波さんの才能は凄いですね」
浅野さんがそう伊良波さんを祝福する、その表情には羨望の色が浮かんでいる。
「正直、ここまで適正があるとは思わなかったな」
オーバーからサイドに転向すれば、大半の場合スピードは落ちざるを得ない。
しかし適性がある場合、スピードが落ちないどころか加速する投手も存在する。
伊良波さんはその稀な存在にあたるのではないかと、そう感じていた。
事実、最後の方のボールはオーバーの時と遜色ないスピードを保っていた。
「さっきは偉そうに私なんかが説教しちゃって、なんか恥ずかしいですね……」
そう言って浅野さんが気まずそうな表情を見せる。
「浅野さんは、自分に才能がないって言ったけど俺はそうとは限らないと思う」
それを見た俺は無意識の内にそう口を開いていた。
「そんなことはないと思います、私なりに限界まで練習してますし」
「その練習は確実に血となり肉となっているよ、あとはきっかけ一つかもしれない」
「きっかけ一つ、ですか……」
そう言って浅野さんが何やら考えこんでしまう。
そう口にしてから無責任な言葉だなと我ながら思う。
「ごめん、無責任だよなこんなの。どうなるかなんて分からないのに」
「いえ、その可能性を信じて練習を積み重ねるしか無いですし。少し元気が出ました」
そういって浅野さんが微笑んでくれる、気を使わせてしまったかな。
何にしても、これで関西国際女子の次期エースは決まっただろう。
サイドへの転向初日でこの調子なら、一年後にはどんな投手になっているのか。
恐ろしさを感じると同時に、その成長を見てみたいという思いも抑えられずにいた。




