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嵐の前の静けさ

 目覚ましの音で目を覚ます、時計は午前七時を指し示している。

 今日は十一時から関西国際女子の三回戦が行われる。

 とりあえず顔を洗い、着替えを済ませることにする。

 俺の携帯に着信があったのはその着替え中のことだった。

 ディスプレイには浅野さんの名前が表示されている、昨日番号を交換したばかりだ。

 それに応答して、耳に携帯を当てる。

「おはよう、浅野さん」

「おはようございます、安島さん……こんな朝早くからご迷惑じゃなかったですか?」

 真っ先に俺のことを気遣ってくれる、彼女らしい反応だなと思った。

「大丈夫だよ、既に起きて着替えてるところだから」

「そうですか、よかったぁ……あっ、私も着替えなきゃ」

 そう言ったかと思うと衣擦れの音が携帯越しに聞こえてくる。

 生々しいその音は、浅野さんが着替えているその光景を連想させる。


「……安島さん、どうしましたか?」

 俺からの返答が無いことが気になったのか浅野さんがそう声をかけてくる。

「悪い……浅野さんが着替えてる音が聞こえてきて、平常心を失ってた」

 そう俺が素直に白状すると、数秒の空白が生まれる。

「……えっ!?」

 そして俺の言葉で理解したであろう浅野さん、動揺した様子が伝わってくる。

「な、な、何を言ってるんですか安島さん!」

 あまりにも正直に伝えすぎた、これではまるで俺が変質者のようではないか。

「ごめん、せっかく電話掛けてきてくれたのに変なこと言って」

「私なんかスタイルも良くないし、チビだし、子供っぽいし……仮に見ても全然面白くないですよ。それこそ他に魅力的な子が一杯いるのに何を血迷ってるんですか」

 冗談じみた口調で浅野さんがそう俺を窘める。

 論点がずれている気がするが、俺が気になったのは他のポイントだった。

 それは、浅野さんが自分にコンプレックスを感じているようだということだ。

 浅野さんは自分を過小評価する傾向がある、そして俺はそれをよく思っていない。

 そう考えた末に、俺は誤解されることを覚悟で口を開く。


「俺は、浅野さんの着替えが見られるなら見たいけどな」

 口にして改めて思う、完全に変態の言動だ。

 軽蔑されるかもしれないし引かれるかもしれない、その危険性は十分にある。

 そういう意味ではこの発言は好ましくない、けれども言わずにはいられなかった。

 浅野さんは魅力的な存在なのだと、そう認識して欲しかった。

 案の定、俺のこの過激な発言を聞いた浅野さんは取り乱した。

「も、もう! 冗談が過ぎます! そんな風に女の子を弄ぶ安島さんは女たらしですか」

 幸い、その声色からは怒りや軽蔑といったマイナスの感情は感じられなかった。

 ただ照れている、そんな風に聞こえたのはあまりに都合の良すぎる捉え方だろうか。

「安島さんが変なことを言うから、着替えは後にします」

 拗ねた口調でそう口にする浅野さんを可愛らしいと思った。

 そして同時に、そんな打ち解けた態度を俺に見せるようになってくれたことを嬉しく思っていた。

 以前の彼女であれば、そんな様子を見ることはとても無理だっただろう。


「俺が悪かったよ、それで肝心の要件はなんなんだ」

 逸れに逸れた話題を、本題へと戻そうと試みる。

「そうでした、安島さんはいつ頃お出かけになりますか?」

「俺か? 俺は試合の一時間前の十時ぐらいに家を出るつもりだよ」

「そうですか、もしよろしければ一緒に球場に行きませんか? もちろん私が安島さんのお家まで行かせてもらうのでご足労いただく事はありません」

「俺は構わないけど、わざわざうちまで来てもらうのは悪いな」

「いえいえ通り道なんですよちょうど、それこそ気にしないでください」

 通り道のついでということか、それなら断る理由は全くない。

「了解だ、ってそういえば俺の家の場所知ってるのか?」

「はい、野々宮さんにお聞きしました……ごめんなさい勝手に聞いちゃって」

「いや、それは全く気にしてないから大丈夫だ」

 中学時代は野々宮の家で勉強を教えてもらうことが多かったが、その逆の時もあり野々宮も何度か俺の自宅を訪れている。

 俺の家は入り組んだ場所にあるわけでもないし、迷うことも恐らくないだろう。

 そう思いながらも一応フォローしておこう、万一ということはありえるのだから。

「もし、道に迷ったら遠慮なく連絡してくれな」

「ありがとうございます……あの、安島さん」

「ん? どうした」


「昨日はありがとうございました、私一人だったらきっと神代さんは説得できなかったと思います。安島さんのおかげです」

 浅野さんはそう言ってくれたが、俺は全く逆だと考えていた。

 神代さんの心を動かしたのは、浅野さんの純粋な思いだったはずだ。

 それこそ俺なんていなくても、浅野さん一人で説得できただろう。

「あれは浅野さんの功績だよ、俺だけだったらまず住所に辿りつけなかったからな」

「いえ、安島さんがいてくれたから……ですよ」

 そう言ってくれるのであれば、わざわざ強く否定する必要もない。

「そういってくれると俺は嬉しいな、それじゃあまた後で」

「はい、また後で会いましょう」


 通話を終えて、一つ思い立つ。

 神代さんの件では野々宮も巻き込んだ、その経緯を説明しておいたほうがいいな。

 野々宮はマネージャーだし、選手の状態が気にかかるところでもあるだろうし。

 そう考えた俺は通話終えたその手で野々宮へと発信した。

「安島くん、おはよう」

「おはよう野々宮、朝早く悪いな」

「ううん大丈夫だよ、それでどうしたの?」

「昨日の神代さんのことだけど……」

 なんとか丸く収まったことを伝えると野々宮は安心したようだった。

 彼女もマネージャーとして神代さんのことは心配していた。

「ごめんな、昨日のうちに伝えておけばよかった」

「連絡くれただけでも嬉しいよ、ありがとう」

 これで要件は終わりだったが、ついでにもう一つと思いついた。

「そうだ、浅野さんに俺の家の場所教えてくれてありがとうな。お陰で手間が省けた」

「そんなこと、全然大したことないのに」

「……そうだな、俺が中学時代に散々勉強のことで掛けた迷惑に比べたら全然だ」

 そう冗談っぽい口調で伝えると、野々宮が笑みを漏らした。

「ふふ、安島くん勉強頑張ってたもんね」


「しかし浅野さんと俺の家がちょうど球場への通り道にあるとは思わなかったよ」

 何気なく零れたその一言に、野々宮から意外な反応が帰ってきた。

「あれ? 浅野さんの家はそれと反対方向だけど……」

「え? でも浅野さんが通り道だって……」

 野々宮に浅野さんの住む場所の地名を教えてもらうと、確かに反対方向だった。

「おかしいなぁ、勘違い……ってこともないだろうし……」

 そう俺が考えこもうとしたその時、野々宮が慌てたような声でそれをかき消した。

「いやきっと勘違いだと思うよ! あんまり深く考えないほうがいいんじゃないかな!」

 心なしか声が大きく、強引にそれを押し通そうとしている雰囲気を感じる。

「お、おう、そうだな、大したことじゃないしな」

 それに反抗する気もなく大人しく引き下がり、野々宮との通話を終えた。


 約束の十時、その十分前に玄関のチャイムが鳴らされる。

 早足で玄関に向かい、ドアを開ける。

「安島さん、来ちゃいました」

 そういってニッコリ微笑む浅野さん。

「悪いな、わざわざ」

「やだなぁ、通り道だっていってるじゃないですか」

 そう口にする浅野さん、今朝方野々宮と交わした会話が脳裏に浮かぶ。

 野々宮が正しければ浅野さんは本当は反対方向なのに、通り道だとわざわざ嘘を付いていることになる。

 その理由は俺にはよく分からない、とりあえずそれに対する掘り下げは保留する。


「そうだったな、すぐにみんな呼んでくるから」

 既に準備を終えていた詩織、愛里、千隼の三人を呼んで玄関を出る。

 浅野さんがそれぞれに丁寧に挨拶をしてから、五人揃って出発する。

「成宮さんってすごいピッチャーですよね、安島さん」

 そう浅野さんに声を掛けられる、その答えはもちろん決まっている。

「映像を見たんだっけか、詩織は本当に素晴らしいピッチャーだと思ってるよ」

 そう素直に称賛すると、詩織が照れたように視線を逸らす。

「お二人の仲は古いんですか? その馴れ初めに付いて良かったら聞かせてください」

「な、馴れ初めって……私と修平は別にそんなんじゃ……」

 一人もじもじとする詩織を放置して、俺は話を続ける。

「最初に会ったのは小学生の頃だよ」

 それから要点を掻い摘みながら俺と詩織との出会いから別れまでを一通り話す。

「すごいです、二人とも素敵なバッテリーだったんですね」

 浅野さんが目を輝かせながらそう口にする。

「詩織がすごかったんだよ、俺は壁をやっていただけさ」

「安島さんにそこまで言ってもらえるなんて、詩織さんは幸せものですね」

「実際圧倒的だったんだ、詩織以上のピッチャーには未だに出会えていない」

 そう詩織を褒めちぎると、浅野さんの表情に僅かに影が差した気がした。

 しかしそれも一瞬、すぐに浅野さんが次の言葉を発した。


「それで……その、お二人はお付き合いをしてるんですか?」

「違います!」

 そう声が二つ重なった、声の主は愛里と千隼の一年生コンビだった。

「……お兄ちゃんと成宮さんはバッテリーを組んでただけ、野球バカなだけです」

「そうです、私もそう聞いてます」

 なぜかムキになる二人、なぜ二人が答えているかはよく分からないが事実ではある。

「二人の言う通りだよ、俺達はそういうのじゃないから、な、詩織?」

「……そうですけど」

「それじゃ、うちのマネージャーの野々宮さんとですか?」

 ここでその名前が出てくるとは思っておらず、少なからず驚いた。

「なんで野々宮が?」

「中学生のころかなり仲がよかったらしいじゃないですか、少なくともお互いの家を訪れ合うぐらいだったみたいですし」

「……お兄ちゃん、私それ初耳なんだけど」

 愛里が俺を睨みつけている、数少ない野々宮が俺の家を訪問した機会は全て愛里が野球部で活動しているタイミングだったから知らなかったのも無理はない。

「いやいや、今ここに俺がいられるのが野々宮のおかげなんだよ。勉強が苦手だった俺につきっきりで教えてくれたんだ、野々宮がいなかったら桜京には入れなかった」

「つまりただの教師役で特別な関係じゃなかった、ということですか」

「当たり前だろ、変な勘違いしたら野々宮に失礼だ」

「そうですか」

 聞きたいことを聞き終えたのか浅野さんはどこか満足気だ。


「しかし、なんでそんなことを聞くんだ?」

 素朴な疑問をぶつけると、浅野さんが返事に困ったように顔を伏せる。

「それは……その、興味本位、ですよ」

 詰まりながらもそう返されて、納得する。

 恋愛話に興味があるお年ごろ、そういうことなのだろう。

「なんだ、そういうことか」

「そういうことなんです」

 あからさまにホッとした様子を見せる浅野さん、その理由が受け入れられるか不安だったのだろうか。

 そして俺は、何気ない感じで先ほどからの疑問をぶつけることにした。

「ところで、浅野さんの家が通り道じゃなくて反対方向だったって本当か?」

「ど、ど、ど、どうしてですか!?」

 これまでに無いぐらいに激しく動揺する浅野さんにこっちまでびっくりしてしまう。

「いや……野々宮から聞いたんだけど……」

 何かマズイことを言ってしまっただろうか、純粋に疑問だっただけなのだが。

「えと、それは、その、えっと……」


 俺に気を使わせないために嘘をついた?

 そう考えたがすぐに否定する、そもそも通り道でないなら俺の家に寄る必要がない。

 そんな風に思考してると、詩織にデコピンをされた。

「いてっ、何すんだよ詩織」

「……このことは追求禁止、黙って忘れること」

「なんでそんなことを詩織が……」

「いいから忘れなさい、ね?」

「はい……」

 迫力のある笑顔でそう言われては従う他なかった。

「……またライバルが増えた、油断も隙もないんだから」

 そんな風に詩織が呟いたのが耳に入ったが、その意味も同じく謎のままで。

 結局、それらの謎は永遠に闇に葬られることになってしまった。

 その後なぜか桜京三人組の俺に対する視線が冷たいものになったのもまた謎だった。

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