崩壊の足音
「浅野さん、大丈夫か?」
マウンドを降りた浅野さんに真っ先にそう声を掛けに行く。
「安島さんは心配性ですね、なんでもないですから」
「投げてる途中で一度膝をついただろ、目眩がしたんじゃないか?」
そう指摘されて浅野さんが困ったような表情を見せる。
「素晴らしい観察眼ですね、どんな些細なことでも見逃さないといった感じですか」
どこか軽い口調で誤魔化し冗談にしようとしている感じがして、嫌な胸騒ぎがする。
「真剣に話してるんだ、俺は浅野さんのことを心配して……」
「やだなぁ安島さんってば、他にもっと目をかけるべき選手はいくらでもいますよ」
そう言って自虐的な笑みを浮かべる浅野さんを見るのは心が痛む。
彼女は自分が大変な時でも、他人のことを優先してしまうのだろう。
「選手としての実力なんて関係ない、俺は浅野さんの人間性に心酔しているのだから」
予想外の言葉だったのか、浅野さんが困惑しているのが伝わってくる。
「……安島さん、ここは野球部ですよ。野球の実力が最も尊重されるべきなんです」
それでも作り笑いを浮かべながら、そう言って再び自分のことを否定した。
浅野さんが自分を否定する度に、息苦しさを覚える。
なんとか彼女に自分の素晴らしさを理解して貰いたい、ただその一心だった。
どう伝えればいいのだろう、なんと言えば彼女は分かってくれるのだろう。
そうして考え込んでいたその時、浅野さんが崩れ落ちそうになる。
反射的にそれを抱きとめた、なんとか地面に崩れる前に支えることが出来た。
「……やっぱり、無理をしてたんだな」
あまりに軽い手応え、消えてしまうのではないかと不安を覚えてしまうぐらいだ。
「あ、安島さん、すみません……私は大丈夫ですから」
「大丈夫なはずないだろ」
そう言って俺は強引に浅野さんを抱き上げた。
周囲のメンバーがその光景にざわめくが、それに構っていられる状況ではない。
驚いたのか浅野さんが身体を震わせたものの、抵抗する様子は見せない。
抵抗する気がないのか、それともそんな余力も無いぐらいに弱っているのか。
「……ダメですよ安島さん、こんなのダメです、私は誰にも迷惑を掛けたくないのに」
そう言って浅野さんが瞳を潤ませる、その視線に庇護欲が刺激される。
「ダメじゃない、俺は浅野さんの力になりたいってそう考えているんだ」
そう話ながらマネージャーの野々宮の姿を探し、その方向へ慎重に歩く。
「野々宮、浅野さんが体調を崩したから保健室まで運びたい。案内してくれるか?」
「わかった、こっちだよ」
野々宮の先導で保健室に辿り着く、保健の先生は不在のようだ。
浅野さんの靴を野々宮に脱がせてもらってからゆっくりとベッドに下ろす。
「このタオルを浅野さんに使ってあげて。私は監督にこの事を報告してくるから」
「頼んだ、こっちは俺に任せてくれ」
野々宮が持ってきてくれたタオルを濡らしてからしっかりと絞る。
そのタオルを使って浅野さんの汗を拭いてやる。
「安島さん……」
「迷惑じゃないから、俺がやりたくてやってるんだ」
また後ろ向きなことを言われると思って、そう先手を取る。
「違います、その、恥ずかしいん……です」
顔を真っ赤にして浅野さんが俺から視線を逸らしながらそう口にする。
どうやら浅野さんが言いたいことは俺が考えていたようなことではなかったらしい。
「恥ずかしいって、ちょっと汗拭いてるだけじゃないか」
別に服を開けているわけでもないのに、浅野さんの反応は過剰な気がする。
そしてその反応に連鎖して、俺もどこか気恥ずかしい気持ちになってしまう。
「安島さんはモテそうだから女の子慣れしてるんでしょうけど、私は男の子と接するのなんて初めてなんですから……」
浅野さんも御多分に洩れず女子小学校から女子校まで一直線だったのだろう。
今時珍しい話ではない、むしろそれが圧倒的多数を占めるはずだ。
「いや、そんなことはないけどさ。それにこのぐらい大したことじゃないだろ」
「大したことですよ! 今も汗かいちゃってるのにこんな近くに安島さんがいて……」
「そんなこと、俺は全然気にしないのに」
「だから私が気にするんですってばぁ……」
そう言ってから浅野さんは横向きに転がり完全に俺に背中を向けてしまう。
「ごめんなさい、せっかく色々してくれてるのに変な反応しちゃって……」
背中を向けたまま浅野さんがそう口にする。
「いや、俺の方こそ強引すぎたと反省してるよ。嫌な思いをさせたかな?」
男に不慣れな浅野さんに対する行動としては、適切でなかったかもしれない。
「そんなことないです! 私は全然安島さんのこと……嫌じゃないですよ」
「そ、それならいいんだけど」
そんなことがあるはずないのに、浅野さんの返事がまるで別の意味を持ってるかのように感じてしまった。
自意識過剰な自分を心の中で戒める、こういう勘違いほどみっともないものはない。
そうしていると、保健室のドアがノックされる。
「失礼します」
その言葉の後に扉が開き、次々と他のメンバーが入室してくる。
みんながみんな口々に浅野さんを気遣う言葉を掛けている。
「浅野さんの様子はどう?」
その中に混じって日下部さんが俺にそう尋ねてきた。
「あの様子だと一時的な過労だと思う、とりあえず休ませてあげて様子を見たい」
「そう、みんなも心配しているし少しでも早く回復してほしいわ」
「浅野さん、人望があるんだな」
「彼女が誰よりも努力をしているのはみんな知っていることだからね」
浅野さんが軽症だと伝えるとみんな安堵したようで、和やかな雰囲気になる。
その時、突然ドアが開いた。
神代さんが姿を見せる、相変わらずのサングラス姿だ。
その瞬間、部屋の空気が確かに変わったのを俺は感じた。
他のメンバーも神代さんが浅野さんが倒れた経緯に深く関係していると知っている。
それだけに、神代さんに対していい感情を持っていないのは間違いないだろう。
冷たい視線も意に介さず、神代さんがベッドの側に歩み寄る。
「倒れたらしいわね、大丈夫なの?」
「ええ、軽症ですから問題ありません。ご心配かけてすみませんでした」
「自分の限界を知ることは大切よ、限界なら無理をせず休息を取るべきだわ」
「神代さんの言う通りですね、私の見通しが甘かったです」
そういって浅野さんが申し訳無さそうな表情を見せる。
「神代さんは浅野さんを無理に投げさせた事をなんとも思わないのかよ」
気づくと俺はそう口にしていた、こんなことを言うつもりは無かったのに。
「安島さん、私を責めるのはお門違いですよ、私はきちんと浅野さんに投げられるかどうか確認を取り強制はしていません。その上で投げたんですから自己責任でしょう」
悪びれた様子もなく神代さんがそう口にする。
「安島さん、やめてください。神代さんの言う通りです、私の判断が甘かったんです」
浅野さんが泣きそうな顔でそう口にする、彼女にそんな顔をさせたくなかったのに。
そう思ったけれどももう手遅れだ、引き返すことは出来ない。
「例え神代さんの言う通りだとしても、浅野さんは神代さんのために打撃投手を務めた結果倒れたんだぞ。他にもかけるべき言葉があるんじゃないのか?」
「倒れてまで打撃投手をしてもらいたかったわけではないんですけどね。それに浅野さんのことは心配してますよ、彼女は最高の打撃投手で代わりはいませんから」
言葉を失う、この期に及んで神代さんは浅野さんを道具としてしか見ていないのか。
周りも今の発言に対してはいい印象を持たなかったようで、空気が張り詰める。
「なんにしても軽症ということで安心しました、それでは失礼します」
そういって神代さんが保健室を出て行こうとする。
「ちょっと待ちなさいよ!」
そう声が上がる、声の主は神代さんが来るまでセンターのレギュラーだった子だ。
それを聞いて神代さんが足を止めて振り向いた。
「なんでしょうか?」
「あなたは非常識すぎるわ、仲間を思いやる心がないのかしら」
後ろからそれに同意する声が上がるも、神代さんは顔色一つ変えない。
「それがあれば、野球が上手くなるのかしら?」
うっすらと笑みすら浮かべながらそう言い放った。
「……どうかしてるわ、大体高校生の癖にサングラスなんてしてプロ気取りかしら?」
恐らく精一杯の皮肉だったのだろうが、神代さんは余裕そうだ。
「いえいえこれは普通のサングラスですよ、野球が上手くなる魔法のサングラスではないです。少なくともあなたと私の実力差はコレのせいではないのは間違いないですね」
「くっ……とにかくここにいたいなら最低限常識的な行動を取って欲しいわ」
言葉に詰まりながらもそう言い返す。
「私からすればあなたの方が余程非常識に思えますけどね。レギュラーを奪われて以前から私を目の敵にしてましたし、これを好機と私を攻撃しているように感じます」
「……今すぐ取り消して下さい! 今の最低な発言はさすがに許せません!」
「人間図星だと過剰に反応する、と言います。もし私の勘違いなら申し訳ないです」
言葉と裏腹に神代さんは飄々としている、相手の女の子は悔し涙すら流している。
「もう止めて下さい! 大事な部員同士でこんな事になるのは嫌ですよ……」
その口論に終止符を打ったのは浅野さんの叫び声だった。
その悲痛な声に誰もが、神代さんさえも、口を噤んだ。
「今度こそ、失礼します」
そう言って神代さんが退室する、今度は誰も引き止めなかった。
俺も神代さんの後を追い退室した、今話さないとチームが崩壊する予感がしていた。
「神代さん!」
「……今度は安島さんですか、何の御用ですか」
神代さんを足を止めない、俺も足を動かしながら話しかける。
「このチームで野球をやるのであれば、今からでも引き返して謝ったほうがいい」
「このサングラスは外せないですよ、私は目が弱いので必要なんですよ」
「そんなことを言ってるんじゃないって分かってるだろ、それにサングラスにそういう理由があるなら素直にそう説明すればいいじゃないか」
ようやく神代さんがその足を止めた、面と向かって言葉を交わす形となる。
「何を話しても無駄ですよ、私が受け入れられることなんてありませんから」
「そんなことはない、きちんと話して誤解を解けばみんな分かってくれるはずだ。それにこのまま過ごすわけにも行かないだろう」
「もしかしたらみんなから拒絶されて部を追い出されるかもしれませんね、調整の場所がなくなるのは残念ですがそれはそれで仕方ありません」
淡々と神代さんがそう口にする。
「神代さんは、それでいいのかよ……そんなのって、悲しすぎるだろ」
「安島さんには分からないでしょうね、コウモリには居場所なんてないんです。日本にもアメリカにも、どこにもないんですよ……」
その言葉からは悲壮感が漂っていて、何も言い返すことが出来なかった。
神代さんは俺を残して立ち去った、その背中を追うことはもう出来なかった。




