小谷高校 紅白戦③
この回の先頭バッターは四番の岡本くん、今日白組唯一の安打を放っている。
「俺がもう一度チャンスを作る、今度こそ安島くんの力を見せてくれや」
打席に向かう前、すれ違いざまに岡本くんが俺の耳元でそう囁いた。
そして見事に有言実行、ツーボールワンストライクのバッティングカウントからインコースのストレートを引っ張ってライト前に運んだ。
これで岡本くんは好投手松尾くんに対してマルチヒットを記録、その非凡なバッティングセンスを見せつけた。
そして打席には五番打者、ゲッツーにさえならなければランナーを残して六番の俺に回る。
その打席は、俺が全く予想だにしていなかった結果が待っていた。
初球からバントの構えで三塁線に転がした。
良いバントではないが二塁で刺せるほど悪いバントでもない。
送りバント成功で一死二塁となった。
「バント? どうして……」
五番を打っているのだからそれなりに実績がある選手のはずだ、自分で決めたいと思ってもおかしくない。
それが送りバント、しかも他所者の俺につなぐためにそれを選択したというのか?
「さっきの打席を見て俺よりも安島のほうがヒットを打てる可能性が高いと思ったんだ、俺の目が節穴じゃないことを証明してくれよ」
そう言い残してヒラヒラと手を振るとベンチへ下がっていく。
それを見送ってから、俺はバットを左手に持ち打席へと向かった。
時間をかけて足場を慣らしながら心の平静を取り戻すように努める。
俺は感激していた、彼はあの大事な場面で自らの打席を犠牲にする決断を下した。
そして俺の打席にこのゲームの命運を託したのだ。
俺は前の打席、チャンスで凡退している。
あの打席がこの試合絶対にモノにしないといけない唯一のチャンスであるはずだった。
そこで失敗した俺の前に、チームメイトが土壇場で最後の好機を掴みとってくれた。
ここで打たなきゃみんなに顔向けできない。
こうして得点圏にランナーを進めてくれたのは非常に大きい、二塁ランナーの岡本くんはなかなか足も早いようだったから同点を目指すのであれば単打狙いでよくなった。
もしもランナー一塁だったら、最低でも長打を打たなければ得点を狙えなかったはずだ。
改めてバントという決断をしてくれたことに感謝しなくてはならない。
バッティングは一流でも三回に二回も失敗するものである。
それを踏まえて、普段凡退してもここ一番で打てるのが一流の条件だと俺は常々考えている。
そして俺はそういう場面が得意な選手であった、そこで必ず結果を残してきた。
集中力が高まり、どんどん感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。
少し気にかかることはあったが、狙いは先ほどと同じくストレートに絞ることにした。
凡退した前の打席も狙いは悪くなかった、あとはちゃんと打ち切れるかどうかだ。
その初球、投じられたスライダーがアウトコースに決まった。
返球を受け取ってテンポよく二球目、スライダーが外角にはずれてボールとなる。
ワンボールワンストライク、次の一球がこの打席の行方を大きく左右する。
ここまで松尾くんは結構な数の四球を出している、そしてこの場面一塁は空き。
カウントが悪くなったら四球やむなしという判断になっても不思議ではない。
もちろん場合によっては四球も素晴らしい貢献であることは事実だ。
しかし六番の俺のあとは下位打線へと続いていく、それが報われる可能性は低い。
今の俺がすべきことでは繋ぎではない、ここで勝負を決定づけることだ。
だからこれ以上ボールを待っている猶予はない、次で決める。
松尾くんがキャッチャーの出すサインを覗きこみ、二度首を振った後に頷いた。
その時、俺は狙いを一点に絞った。
ボールがリリースされる、三球目も外に逃げていくスライダー。
ギリギリまで引き付けて、思い切り踏み込んで逆方向へと飛ばした。
打球が低い、ファーストが限界まで手を伸ばしてジャンプする。
取られるかと思った打球はギリギリファーストミットの鼻先を抜けた。
そのまま打球はラインを叩いて長打コースに転がっていく。
俺は一塁を蹴って二塁へ向かいながらチラリと打球の方向に目をやった。
ライトの打球処理が少し遅れている、三塁を狙えるか?
これがもしも二死だったら足を止めたかもしれない、しかし一死ならば話は別だ。
三塁に進めばスクイズや犠牲フライ、点を取りに行くための選択肢が大きく増える。
思い切って二塁を蹴る、三塁は際どいタイミングになるだろう。
送球が飛んでくる、それとほぼ同時に頭から滑ってベースに手を触れた。
タッチは間に合っていない、セーフとなりタイムリースリーベースヒット。
沸き立つ白組ベンチに向かって手を突き上げた、最後の最後で何とか貢献できた。
これで九回裏の土壇場で一対一の同点に追いつきなおも一死三塁のチャンス。
サヨナラ勝ちも十分に期待出来る展開だ。
続く七番打者は甘く入ったスライダーを叩いた、レフトへと打球が飛ぶ。
しかし芯を外れている、定位置より少し前の浅いフライ。
白組ベンチからスタートを切るように大きな声が飛ぶ、ここは強引でも行くしかない。
レフトが捕球すると同時にスタートを切った。
無謀ともいえる挑戦、しかし八番九番と続く流れである以上この外野フライが本塁に帰るための最後のチャンスになると俺はそう考えた。
正面はしっかりとブロックされている、キャッチャーの教育も行き届いているようだ。
そして送球もいいコースへと飛んできた、捕球したキャッチャーが俺にタッチしにくる。
俺は身体を大きく横に滑らせてそれを躱しながら本塁へと滑り込んだ。
試合後、着替えを終えた俺は渡部さんと向かい合っていた。
「惜しかったね、安島くん」
「ええ、でもあの場面は走って正解だったと思ってます、悔いはありません」
結局、俺の本塁突入は失敗した、タッチアウトとなり一対一の引き分けで試合は終わった。
「そうだね、私もその判断が間違っていたとは思ってないよ。しかし、よく松尾のスライダーを打ったね」
「あの場面はスライダー一本に絞ってましたから」
「ほう、それは何か根拠があってのことかね?」
興味深そうな顔で渡部さんが俺に問いかけてくる。
「そうですね、言い出せばキリがないのですが……まず大本として松尾くんは自分のストレートよりもスライダーを高く評価してるっていうのは感じてました」
「ピンチの時にはスライダーの割合が多くなってましたし、勝負球は殆どがスライダーでした」
「なるほど、過去の配球の傾向からということか」
「そうです、しかしこれでは確証までは至りませんでした。あの場面は連続で二球スライダーを投じてきていて、最後に決め球として再びスライダーを使うのであればその前に別の球種も十分にあり得る」
「その迷いを打ち消したのはバッテリーのサイン交換でした、松尾くんが首を振った瞬間僕はスライダーを確信しました」
「その理由も聞かせてくれるかね?」
「もちろんです、とは言っても大した理由ではないんですけどね。松尾くんがサインに対して首を振ったのはランナーを背負ってピンチを作った後半を中心に全部で十一回でした。そして首を振ったあとに投じたボールは全てスライダー」
「松尾くんほどの投手となれば投手主体のリードになるのも仕方ない、そしてピンチになれば松尾くんは好きなスライダーを投げたがって違うサインには首を振る……というわけです」
「打たれたのはバッテリーが未熟だったから、そういう結論になってしまうかね」
「未熟、というよりは対等でなかったのが問題なのかもしれません。投手主体で投げたいボールを投げるだけじゃ相手は抑えられない、キャッチャーはそこをコントロールしないと」
「恐らくですけど松尾くんはあの打席ストレートを捨てていた、岡本くんにヒットを打たれた二本はともにストレートだったし僕の大飛球もストレートの狙い打ち。その後ピンチを迎えれば、そこまで一度も打たれていないスライダーに頼りたくなるのもよく分かります」
「しかしそれではダメなんです、ストレートがあって初めて変化球が生きる。それなのにストレートを捨ててスライダー一辺倒の選択した時点で勝負は決まってたのかもしれません。もし内のストレートと外のスライダーを上手く組み合わせられていたらやられてましたよ」
「安島くんがキャッチャーだったなら、そんな事態にはならなかっただろうね」
「それはどうでしょうか、良いピッチャーを気分良くリードさせるのって難しいですよ。そういうピッチャーは得てしてプライドが高いですから」
「それでも、君なら出来そうな気がしてしまうんだから不思議だ」
長い長い俺の話が終わった、渡部さんはその一つ一つを興味深そうに聞いてくれた。
「バッテリーをよく観察して奪い取った殊勲打、見事だったよ安島くん。」
「最終的には四打席で一安打でしたけどね、それに一度は決定機で凡退してますし二回目のチャンスをくれたチームメイトのおかげですよ」
その言葉に渡部さんが首を振る。
「今日初めて会った安島くんのために繋ぐバントをしたい、そう思わせたのは君の打撃がそれだけ魅力的だったからだよ」
「それに二回に一回打てれば十分すぎるしあの安打がゲームを大きく変えた、そういう場面で打てる選手は尊敬に値するよ。そこでだ安島くん……小谷高校に転入してくれないかね?」
「俺が小谷高校に転校、ですか?」
思いがけない言葉に一瞬思考が止まる。
「安島くんの力が必要なんだ、君は野球部に所属してないから転校してすぐに公式戦に出られる、来てくれるならレギュラーを保証しよう」
「今日僕を呼んだのは、そのテストってことですか」
「ああ、私はあのケガの後もずっと安島くんのことが忘れられなかった、今までスカウトした選手の中で君は指折りの逸材だと今でも思っている、今の四番の岡本以上だともね」
「そんな、買い被りすぎですよ」
「事実、君はブランク明けの今日の試合で松尾を打ったんだ、ますます君が欲しくなった」
あまりにも大きな話だ、即答出来るものではない。
「すぐに返事が貰えるとは思っていない、大事な話だしゆっくり考えてくれ……そうだ、最後にこれを」
そう言って渡部さんは一枚のDVDを俺に手渡した。
「これは?」
「今日の安島くんの様子をうちのマネージャーが撮影したビデオだよ、見せたい相手もいるんじゃないかと思ってね」
「お気遣いありがとうございます、ありがたく頂いていきます」
そのDVDを手に、俺は小谷高校を後にした。
渡部さんの言葉が今でも脳裏から離れなかった。




