予期せぬ依頼
予定のない休日、こんな日の俺の予定は決まっている。
「店長、こんにちは」
「安島くん、よく来たね」
俺は今も、リトル時代からお世話になっているこのバッティングセンターを利用している。
ここの店長さんの力添えがなければあの試合での栄光はなかったはずだ。
あの時俺の無茶を聞いてくれたここの店長さんには感謝してもしきれない。
マシンにコインを投入してから打席に立つ。
スピードは百四十キロ、高校レベルで考えればかなり速い部類に入るだろう。
最初は調整がてらストレート一本の設定、リズムよくボールを弾き返していく。
速めの設定とはいえ、一定の速度でボールが来るのならばそれに対応するのは難しくない。
目を慣らしながら、少しすれば左右への打ち分けを意識するぐらいの余裕も生まれる。
しかしこれはあくまでウォーミングアップに過ぎない、本番はこれからだ。
速球の他に幾つかの変化球を混ぜる緩急をつけた設定に変更し、再び打席に立つ。
速球と変化球の球速差、それに柔軟に対応出来る柔らかいバッテイングが俺の理想形だ。
むろんこれはマシン相手の練習にすぎない、生身の投手が投げる生きたボールを相手にすればまた苦労することになるだろう。
しかし逆に言うならばマシンのボール程度を打ち込めないようでは、生きたボールに対応出来るはずもない。
直球を基準にタイミングを合わせつつ、溜めを作り変化球にも対応しなくてはいけない。
最初はそれにひどく苦労したものだが、何度も繰り返すうちにだんだんとその打撃は俺の理想形に近づきつつあった。
ストレートに加えてスライダー、カーブ、チェンジアップなどのオーソドックスな変化球が交じり合う中、それらに自分のスイングを崩されないように丁寧にボールを叩く。
そのまましばらくバットを振り続けてから俺は打席を後にした。
入り口に向かって歩いて行くと店長に声をかけられた。
「調子良さそうじゃないか」
「いやそんな、まだまだですよ店長」
「これでも野球を見る目にはそれなりの自信があるつもりなんだけどな、安島くんの打撃なら高校野球でも通用しそうなのに……本当に惜しいよ」
「俺は今のマネージャー生活も悪くないと思ってますよ、毎日が楽しいです」
店長には俺のケガのことや現在女子野球部のマネージャーをしてることなどを包み隠さず全て話していた。
店長に見送られながらバッティングセンターを後にする。
先ほどは気のない素振りで返事をしたが、店長に高校野球でも通用しそうだと太鼓判を貰った時には嬉しかった。
とっくに諦めたつもりなのに、それでもやはりまだ野球に対する情熱は完全に消えたわけではないのだと改めて気付かされてしまう。
自室に戻ってからいつものように夕食を作り、彩音や広橋さんと一緒に食事を済ませる。
その後、彩音と一緒にくつろいでいると俺の携帯が鳴った。
そのディスプレイに表示された名前はあまりにも意外な相手で、一瞬戸惑った。
一つ大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「渡部さん……安島です」
「久しぶりだね安島くん、もうあれから三年ぐらい経つんだな……元気にしてたかな?」
「はい、それなりに元気にやってます……今日はどういったご用件で?」
本当に久しぶりの電話、あの時に俺が大怪我をした時点でもう縁が俺と彼との繋がることはないと思っていた。
しかし今日こうして連絡があった、一体何が起ころうとしているのだろう。
「私がプレゼントしたファーストミットはお役に立てたかな?」
「ええ、それはもう……ありがたく使わせていただいています」
「ということは、左のファーストに転向して野球を再開しているのかね?」
自意識過剰かもしれないがその声からは期待感が伝わってきたような気がして、少し罪悪感を覚える。
「いえ、そうではないんです」
俺は女子野球部のマネージャーを務めている現状を掻い摘んで説明する。
「なるほど、そこで多少は身体を動かしているのだね」
「そんなに本格的なものではないですけど、打撃の調整もしてます」
「それを聞いて安心したよ……そこでなんだが安島くんに一つお願いがあるんだ」
「なんでしょうか?」
俺に目をかけてくれた相手のお願い、多少の無理なら聞き入れたい。
「実は来週の土曜日にうちの高校で紅白戦をやるんだが、それに参加して貰えないだろうか?」
「僕がですか? なら人数なんて有り余ってるでしょうし僕なんかが参加しなくても……」
小谷高校のレベルを考えれば部員数は何十人になるだろうか、正確には分からないが少なくとも紅白戦をするための人数に困るなんてことはあり得ないはずだ。
「いや私は安島くんに参加して欲しいんだ、頼むよ」
詳しい事情はよく分からないが、長い間縁が切れていた俺に頼まないといけないぐらい切羽詰まっているということだろうか。
そういった状況だとしたら、その中で俺に連絡をくれたことが喜ばしく思えた。
「分かりました、僕で良ければ参加させてもらいます」
「そうか、ありがとう安島くん」
それから約束の詳細を詰めて電話を切った。
「誰と電話してたの?」
同じ部屋でずっと俺の電話してる姿を眺めていた彩音が声をかけてくる。
「……俺の大切な人だよ」
なんと応えていいのか分からずそう口にすると彩音が俺に詰め寄ってきた。
息がかかりそうなぐらいの距離に思わず怯む。
「なによそれ……もしかしてまた女の子なの?」
「顔、近いって」
彩音を直視出来ない、視線を逸らしながらそう絞りだすのが精一杯だった。
「あっ、ごめん」
自分の今の状況にようやく気づいたのか彩音が飛び跳ねるようにして距離を開ける。
心なしか頬が赤らんでいるように見えた。
「……今の電話の相手は小谷高校ってとこの野球部の監督さんだよ、中学のころ俺を小谷高校に誘ってくれたんだ」
小谷高校は地区大会優勝を狙えるぐらいの強豪校で、そこの監督から誘いを受けたという事実は随分と自信となったものだ。
「それで、その人がどうして今になって修平くんに電話を?」
「理由はよく分からないけど今度紅白戦をやるから参加して欲しいんだとさ、別に用事もないし受けることにしたよ」
「ふーん……そうなんだ」
そう口にしてから彩音はしばらく考えこんでしまった。
「ま、無様な結果にならないように出来る限り頑張るよ」
転がしていた携帯を拾い上げて充電器に差し込む。
「ねぇ、その監督さんが電話してきた理由ってもしかして……」
「ん? なんだ?」
「……ううんなんでもないよ、試合頑張ってね」
そう話す彩音の表情はどこか無理をしてるように見えて、先ほど口にしかけた何かと相まってとても気になってしまった。
そして、あっという間にその日はやってきた。
小谷高校に到着した俺を渡部さんが出迎えてくれた。
「大きくなったね、安島くん」
「渡部さんはお変わりないようで、安心しました」
案内してもらいながら渡部さんと共にグラウンドへと向かう。
「渡部さんが今でも監督を続けていらっしゃって、嬉しいです」
「ああ……でも、それももう終わりかもしれないんだ」
「……そう、なんですか?」
思いがけない言葉に一瞬思考が止まった。
「これだけのチームを任せて貰いながら私は未だに甲子園に連れて行けてないからね……あと数年で甲子園にいけなければ解任される予定だよ」
「厳しいですね……」
小谷高校が所属する東東京地区は激戦区だ、強豪とはいえ甲子園への切符を手に入れるのは困難であろう。
「確かにそうだ、それでも私はもしも甲子園にいけるなら今年か来年だと思っている」
「誰かいい選手がいるんですか?」
確信めいたその言葉の裏には、きっと素晴らしい選手がいるのだろうと俺は予想した。
「その通りだよ安島くん、君と同じ二年生に松尾という投手がいるんだが、松尾は今年既に最速百四十五キロを記録している」
「それはすごいですね」
甲子園に出る投手だって球速は百三十キロ半ばぐらいが平均といったところだろう。
もちろん球速が全てではないが、百四十五キロという数字は間違いなく驚異的だ。
「このまま成長すれば三年では百五十キロを超えるかもしれない、既にプロのスカウトも何人か彼をチェックしに来てるぐらいの逸材だ」
グラウンドに到着する、充実した設備はさすが強豪校だと実感させられる。
「着替えはそこのロッカールームでするといい、ウォーミングアップも適当に済ませてくれ」
「分かりました」
着替えを終え、ランニングやストレッチのウォーミングアップを済ませる。
「監督! どういうことですか!」
渡部さんに何人かの選手が詰め寄っているのをみたのはちょうどその時だった。
「どうもこうもない、彼をファーストのスタメンで使う」
恐らくその選手はファーストを守るのではないかとそう思った、俺が試合に出ることで彼の出番が失われてしまったのではないか?
「そんな、どこの馬の骨かも分からないような奴が……納得出来ないですよ!」
「これは決定事項だ、異論は認めない」
渡部さんはそう冷たく突き放すと、俺の方に向かってきた。
「見苦しいところを見せてしまったね、安島くんは白組の六番ファーストでスタメンだ」
「渡部さん……本当に、僕でいいんですか?」
あまり深く考えていなかったのだが、なぜ俺がここに呼ばれたのか改めて疑問に思う。
これだけの部員数ならば、この紅白戦一つとっても非常に大事なチャンスになる選手だっているはずだ。
実際に先ほどの選手はそういった立場の選手だったのではないか?
それを奪い取ってまで俺がこの試合に出る意味はあるのだろうか?
俺は選手として三年のブランクがある、それは渡部さんも分かっているはずなのに。
「余計なことは考えなくていい、ありのままの安島くんを見せてくれればそれでいい」
そう口にする渡部さんからは有無を言わせない圧力のようなものが感じられた。
それに気圧された俺はおとなしく首を縦に振ることしか出来ない。
「分かりました、精一杯のプレーをさせてもらいます」
「その言葉が聞きたかった」
満足気にそう口にすると、俺に背を向けて少し歩き出してから足を止めた。
「あ、そうそう、相手の紅組のピッチャーはさっき話した松尾だからな」
思い出したかのようにそう言い残すと、今度こそ渡部さんは去っていった。
「……えっ?」
思わず呆然と立ち尽くしてしまう、どうやら久しぶりの実戦はとてもハードになりそうだ。




