天帝高校 紅白戦
天帝高校の紅白戦、その当日がやってきた。
地図を手に天帝高校への道のりを進んでいく。
その校舎を視界に捉えた時、その存在感に驚かされる。
校門の前で到着した旨を宍戸さんに電話で伝えてから、改めて校舎を眺める。
「でかいなぁ……」
思わずそう呟いた、想像していたよりも数段立派な校舎だった。
桜京高校の施設も充実している方だとは思うが天帝高校はその更に上を行っていた。
文武両道の名門校、選ばれし者が集まる場所なのだろう。
宍戸さんが俺を出迎えにやってきてくれた。
大抵の女子校は出入りの規制が厳しく、生徒の身内や友人でもないと中には入れない。
そこでわざわざ宍戸さんに出迎えてもらったわけだ。
「お待たせ、安島くん」
「わざわざごめんね、宍戸さん」
「このぐらいなんでもないよ、グラウンドはこっち」
そう案内されるままグラウンドへ向かう既に試合前の練習を行なっているようだ。
「もう練習中みたいだね」
「うん、さっき打撃練習が終わって今は守備練習の時間、もう少しで試合始まるから練習でも見ながら待っててね」
その守備練習の光景で、一際目を引く存在があった。
盗塁阻止の練習をするキャッチャー、二塁への送球を何度も繰り返している。
矢のように鋭い送球をなかなかいいコントロールでまとめている。
その強肩は規格外といっていいだろうレベルに達していた。
うちの愛里にこの肩があればなんてことを考えてしまう。
捕ってから投げるまでも早くこのキャッチャーから盗塁するのは難しいだろう。
「あのキャッチャーが、宍戸さんの言ってた新入生か?」
「その通りだよ、すごい肩してるでしょ?」
「ああ、ちょっと前まで中学生だったとは信じられないぐらいだ」
しばらくして、練習を終えたそのキャッチャーが自分を眺める俺の存在に気づく。
ゆっくりと歩み寄ってきて俺の前に立つ。
「あっ、あの……」
顔を伏せ気味にしながらも何かを口にしようとしている様子だが、言葉にならない。
それならば俺から声をかけよう、そう決めて口を開く。
「初めまして、桜京高校野球部マネージャーの安島修平です、よろしく」
右手を差し出しながらそう挨拶をすると、彼女は顔を跳ね上げて俺に視線をやった。
その表情はどこか硬い印象を受ける、緊張しているのだろうか?
「江守佳矢、です」
俺の差し出した手を握ることもなく、それだけポツリと口にする。
「江守さんか、さっきの練習ではすごい強肩だったね、見てて衝撃を受けたよ」
素直に彼女を称賛するものの、ますますその表情は曇っていく。
「……練習があるので、失礼します」
それだけ言うと背を向けて立ち去ってしまう。
最後まで俺の差し出した手が握られることはなかった。
何かマズイことを言ってしまっただろうか?
しかし、自分の発言を振り返っても思い当たる節はなかった。
「俺、江守さんに何か悪いことしたのかな?」
「えーっと、その……どうだろうねぇ」
宍戸さんはそう口にするもののその声色にはどこか白々しい響きがある。
そしてなぜか宍戸さんが気まずそうな表情で頭を抱えていた。
「あはは……あっ、そうだ! 私も試合の準備しなくっちゃ、それじゃ!」
唐突にそう言い残して宍戸さんが江守さんの元に駆けていく。
何か一言二言声を掛けているようだが内容までは分からない。
「なんなんだ、一体」
江守さんの態度も、宍戸さんの態度も、その理由が分からず途方に暮れることになった。
そしてついに紅白戦が始まった、宍戸さんと江守さんは共に白組のようだ。
ちなみに奈央ちゃんと桜庭さんは紅組で、知っている選手が半々に分かれている。
先攻は紅組、白組の二人はバッテリーを組んで一回表の守備に入る。
紅組の先頭バッター左の桜庭さんをセカンドゴロに打ちとって、まずワンナウト。
続いて二番の武部さんというバッターが左打席に立つ、紅組のキャッチャーのようだ。
外寄りのストレートを叩いた当たりはフラフラと上がってレフト前にポトリと落ちた。
レフト前ヒットで一死一塁とランナーを出す。
そして三番打者に対する三球目で一塁ランナーがギャンブルスタートを切った。
牽制が来れば確実にアウトになるであろうスタートだったが、間が悪いことに宍戸さんがホームに投球するタイミングだった。
ピッチャーの宍戸さんの足がまだ動いていないぐらいの完璧なタイミングのスタート。
送球を諦めるかと思ったが、江守さんは捕球してから迷いなく二塁に投げた。
二塁ベース横、走者が駆け込んでくる一塁側足元に構えたグラブ。
そこに吸い込まれる様に送球が飛んでいく。
ランナーが滑りこむ足がベースに届く前に、ボールがグラブに収まった。
タッチアウトで盗塁阻止、度肝を抜かれた。
ランナーの足は遅くない、間違いなく平均より速かったように見えた。
スライディングの技術も問題なく、ギャンブルに勝った今回のスタートは完璧だった。
これだけ走者が完璧なプロセスを踏みながら最終的に盗塁が阻止された。
これは相手のランナーに相当なショックを与えたことだろう。
江守さんは二塁走者をアウトにした後に、大きく喜ぶこともない。
それが当然だというような涼しい顔をしているのがとても印象的だった。
一回の守備を終え、ベンチに戻るときに江守さんがチラチラとこちらに視線をやった。
最初は俺の自意識過剰かと思ったのだが、二度三度と視線が合った。
それに気づいた江守さんがソッポを向くような動作をしてベンチに入っていく。
あの短時間で俺は江守さんにとってそんなに気に食わない存在になってしまったのだろうか。
全ての謎が解けたのは二回裏の白組の攻撃の時だった。
四番キャッチャーとして出場している江守さんが右打席に入る、その姿を見た瞬間だった。
「あっ!」
思わず声を上げてしまう、周囲の視線が痛いがそれも気にならないぐらい衝撃を受けた。
江守さんの使っているそのバットにはとてもよく見覚えがあったのだ。
打席に入った江守さんが構える前にもう一度俺に視線をやったかと思うと、ゆっくりとバットを持ち上げた。
俺の座る方角に向けてバットを突きつけている。
ピッチャーに対してホームラン予告としてやるのは見たことがあるが、観客に対してやるのを見るのは当然初めての経験である。
これからのバッティングを目に焼き付けろ、そう宣言されているような気分だった。
江守さんが構える、そのバッティングフォームにも嫌というほど馴染みがある。
そして一度もバットを振らずにワンボールワンストライクとしてからの三球目。
高めに入ったストレートをフルスイングした。
快音と共に美しい放物線を描いて打球が飛ぶ。
ボールを捉えた後のバット投げまで完璧で、全てが寸分違わないぐらいだった。
打球は遥かにフェンスを超えて行った。
ゆっくりとベースを一周してホームベースを踏んでから、最後にもう一度俺の方を振り返って舌を突き出してみせた。
その全てが、俺の記憶を呼び起こすには十分過ぎるぐらい衝撃的だった。
江守さんのプレーは圧巻だった、最終的には四打数三安打二本塁打三打点の大活躍。
紅白戦とはいえ一年生を四番に起用するというその期待に応えてみせた。
試合を終えた江守さんに真っ先に声を掛けに行く、一刻も早く彼女に謝りたかった。
「江守さん!」
そう声を掛けるも振り向いてすらくれない、やはりこれは不正解だ。
「……佳矢、こっちを向いてくれないか」
この年頃になって女の子をいきなり名前で呼ぶことに照れがあったが思い切って口にする。
あの頃の俺は彼女を名前で読んでいた。
正解にたどり着き、ようやく彼女は振り向いてくれるがその表情はまだ不機嫌そうだ。
「……初めましてですねぇ、安島さん? 何の御用でしょうか?」
刺々しい言葉が飛んでくる、それでも怯んではいられない。
「確かに俺は、佳矢のことを忘れてた……ごめん」
「さて何のお話でしょうか、人違いじゃないですか?」
あくまでも俺を突き放す佳矢、俺は諦めずに言葉をかけ続けることしか出来ない。
「でも全部思い出したんだ! 俺にとってもあれは大切な思い出だから……」
「……口先だけで適当なことを言わないで下さい、あんなの……安島さんにとってはどうでもいいことだったんですよね」
「適当になんか言ってない、今の俺は真剣に佳矢のことを考えてるつもりだ」
強い意志を込めて彼女を見つめる、しばらくして彼女が視線を逸らした。
「別に興味も何もないですし、私は無関係の人違いでしょうけど……どうしてもっていうならその話を聞いてあげてもいいですよ」
佳矢は俺を試している、そう感じた俺はあの日の出来事全てを改めて伝えることにした。
「分かった、あれは城山リトルとの試合を終えた翌日のことだ」
大阪行きの新幹線に乗る前に、俺は城山リトルと試合をしたグラウンドを訪れていた。
至福の時間を過ごしたこの場所は、最高の思い出の場所になるだろう。
そこを離れることに名残惜しさを覚えていて、最後にもう一度足を運んでしまった。
つい昨日、ここで死闘を繰り広げたということが俄には信じがたいぐらい静まり返っている。
「あの……安島さん、ですよね?」
グラウンドを眺めていると背中から声をかけられる、一人の女の子が立っていた。
「そうだけど……君は?」
「私は江守佳矢といいます、昨日の試合を見てて安島さんのプレーに感動しました」
「嬉しいこといってくれるじゃないか、それで俺に気づいて声を?」
「そうです、その安島さんの姿を見て声を掛けずにはいられなかったんです」
「そうか……少し時間があるから話そうか?」
「はい!」
二人でベンチに並んで座る、緊張で江守さんが硬くなってるのが伝わってくる。
「江守さんは五年生なんだ、俺の一つ後輩ってわけだ」
そう呼ぶと江守さんが慌てふためく。
「安島さんにさん付けで呼んでもらうなんて恐れ多いですよ」
呼び方を気にしているらしい、それならば……。
「佳矢、でいいか?」
そう呼ぶと少し顔を赤らめながらコクリと佳矢が頷いた。
「じゃあ俺のことも修平って呼んでくれていいよ」
「それじゃあ……修平さん、でお願いします」
「ああ、了解だ……佳矢も野球をやってるの?」
「一応私もキャッチャーなんですけど、下手くそで……もうやめようかなって思ってたんです」
「それはまた、随分と思い悩んでたんだな」
「でも昨日の試合を見て思ったんです、修平さんみたいになりたいって」
佳矢は俺を目標にしてくれたらしい、とても光栄なことだった。
「俺を見て野球を続けたいって思ってくれたなんて、俺にとってすごい栄誉なことだよ」
まだ少し時間はある、立ち上がって持ち歩いていたバットを取り出した。
「このバットを使って、少し練習を見てあげようか?」
「いいんですか!?」
佳矢は目をキラキラと輝かせている。
「もちろんだよ、ちょっと振ってみて」
佳矢にバッティングにいくつかアドバイスを送りながら時間を過ごす。
最初は色々と問題点のあるスイングだったのが、アドバイスの度に改善されていく。
まるで乾いたスポンジのように俺の言葉を吸収していく、その感覚が気持ちよかった。
濃密な時間はあっという間に過ぎ去り、出発の時間が迫ってきていた。
「やっぱり修平さんは凄いです、とても参考になりました……あの、もしよかったらこれからも私に野球を教えてくれませんか?」
彼女の申し出は嬉しかったが、残念ながらそれに応えることは出来ない。
「ごめん……俺、今日で大阪に引っ越すんだ」
そう伝えると、彼女の顔が曇った。
「そう、なんですか……残念です」
肩を落とす佳矢の姿に胸が痛む、また一つ東京での心残りが増えてしまった。
「……これ、あげるよ」
少し考えてから、そういってバットを手渡した。
「えっ、でも……私なんかが……」
「俺が城山リトルのエースからホームラン打ったバットだからきっとご利益があるよ、それに佳矢にこのバットを使って欲しいんだ」
僅かな時間だったが、素直に俺の言葉を聞き入れて成長を感じさせてくれた佳矢。
その彼女に何かを残してあげたい、そんな強い気持ちが沸き上がっていた。
しばらく迷った後に佳矢がバットを手にとった、受け取ったそれを愛おしそうに抱きしめる。
「ありがとうございます、大切にしますね……今はまだまだですけど、いつかこのバットに相応しいすごい選手になってみせますから」
佳矢の秘めた可能性を肌で感じた俺は、その言葉を聞いて大いに期待してしまう。
「ああ、そうなった佳矢と会える日を楽しみにしてる」
「その時は、私と一緒に野球をしてくださいね」
「もちろんだよ、約束だ」
名残惜しいが、もう時間は残されていなかった。
後ろ髪を引かれる思いで、俺はその場を立ち去った。
「……きっとその子はその言葉を支えにずっと安島さんのことを考え続けてたんでしょうね」
話を聞き終えた後、顔を背けたままで佳矢がそう口にする。
「佳矢があのバットを使ってくれて、そして俺と同じ打撃フォームで野球を続けてくれていたことに……感激しているよ」
視線を逸らさずに俺の気持ちを伝える。
「……嘘つき、私のことなんかすっかり忘れてた癖に」
「ああ……俺は本当に酷いやつだよな、約束だってしたのに……」
「そうですよ……私は……私はっ! 一日足りとも修平さんのことを忘れたことなんてなかったのにっ!」
ようやく、佳矢が俺の名前を呼んでくれた。
気がつけば佳矢の目から涙が滲み出ていた、それを隠すように俺の胸に縋り付いてくる。
それは五年間抑えていた思いが溢れだしたかのようで、止めどなく涙は流れた。
俺にはそれをただ抱きとめることしか出来なくて、しばらくそのまま胸を貸し続けた。
「いやー仲直りできてよかったねぇ、抱き合ってたのはちょっと行き過ぎだった気もするけど」
宍戸さんに校門まで見送られながら帰路につく。
「……もしかして見られてた?」
「いやいや普通にみんな見まくってたよ、あんなことしてたらそりゃ目立つって」
周りの視線を気にする余裕なんてなかった、人前でとんでもないことをしてたのだと今更ながらに実感して顔が熱くなる。
「それにしても安島くんが佳矢のことをすっかり忘れてた時はどうなることかと思ったよ」
「宍戸さんも人が悪いな、俺と佳矢の関係を知ってたなら教えてくれればよかったのに」
「二人の大切な思い出は二人だけのものだよ、私はそれをちょっと横から聞いちゃっただけ」
そう口にする宍戸さんからは佳矢のことを真剣に考えている様子が伝わってきた。
「ずいぶん佳矢と仲がいいんだな」
「佳矢とは中学の時からバッテリー組んでるからね、色々話してもらってるんだ」
「そっか、長い間佳矢を支え続けてくれたんだな……ありがとう宍戸さん」
そう言うと宍戸さんは首を横に振った。
「私が佳矢に助けてもらってるぐらいだよ、あの子は本当にすごいって思ってる」
校門に到着する、ここでお別れだ。
「それじゃあね安島くん、これから佳矢のことをよろしく」
「ああ、それじゃ」
俺を目標としてくれていた佳矢が、あれだけすごいキャッチャーに成長していたこと。
そのことを誇らしく感じながら天帝高校を後にした。




