運命の出会い
「こんにちは、安島くん」
練習を終えて一人グラウンドを後にしようとしたその時、声を掛けられた。
見たことのない女の子だ、俺に何の用だろうか。
「いきなり、何?」
「ね、私と勝負してよ」
「……俺が? 女と? あんまり馬鹿にするなよ」
俺は全国大会に出たこともある柚島リトルの四番打者だ、女相手に負けるわけがない。
「馬鹿になんてしてない、ずっと安島くんのこと見てて凄いバッターだって分かってる」
「本当に分かってるなら勝負だなんて身の程知らずな言葉は出てこない」
「ううん、安島くんは凄いバッターだけど……勝負をしたら私が勝つよ」
その言葉を聞き思わず睨みつける、その自信の源は一体何なんだ?
少し興味が出た、その軽い挑発に乗って遊んでやろうじゃないか。
「そこまでいうなら勝負してやるよ、負けたら何でも言うこと聞いてやる」
「その言葉、忘れないでね」
万が一にも負ける可能性なんてない。
何を勘違いしてるのか知らないがその鼻を叩き折ってやればおとなしくなるだろう。
誰も居ないグラウンドに入り込み、俺が右打席に入る。
その女の子は左投げのグローブを付けマウンドに上がる、サウスポーのようだ。
投球練習に入る、綺麗なサイドスローから何球かボールが放られる。
その球は早くもないしど真ん中に集まっている。
この程度のスピードで俺に挑もうと言うのか、思わず鼻で笑ってしまう。
残念ながら俺は左投手を苦にしない、むしろ得意としているぐらいだ。
「勝負の方法はどうしようか?」
投球練習を終えてそう声を掛けられる、その返事は決まっている。
「一球勝負でいい、ただしファールとボール球はノーカウントでな」
「ほんとにいいの? ……それじゃあ私が勝っちゃうけど」
そう言って自信満々の笑みを浮かべる、その鼻先に向けてバットを突きつける。
「言ってろ、投げてみれば分かることだ」
「そうだね……それじゃあ」
女の子がセットポジションに入る、バットを構える俺の脳裏にはある考えがあった。
それに沿ってボールを待ち受ける、リリースと同時に確信した。
スピードが先ほどより遅い、やはり変化球だ。
あの程度のスピードのピッチャーが俺に勝つには変化球しか無い。
もし真っ直ぐでもあのスピードならいくらでもカットできる、変化球一本に絞っていた。
投球練習ではあえて投げずに一発勝負でそれを投じる作戦だったのだろう。
しかし、バットコントロールには自信がある。
たかが女の投げるボール、どんな変化球だろうがバットに当てるだけなら出来るはずだ。
一度ファールで球筋を確認してから改めて打ち直し、それで勝てる。
真ん中より少し外よりの甘いコース、そこからボールが変化した。
そこまでは予想通りだった、変化を予測してそれに合わせてバットを振る。
ボールが消えるといういうのはこういうことを言うのだろう、それを初めて実感した。
変化を目で追うことすら出来ない、必死に感覚だけでスイングをねじ曲げてバットに当てに行く。
信じられない変化をしたそのボールはワンバウンドしてバックネットへ転がっていった。
空振り、バットには当たらなかった。
無意識のうちに体が震えていた、その一球は今までにみたどんなボールよりも俺の心を激しく揺り動かした。
マウンドの方を向き直る、その女の子は喜びを爆発させるでもなく静かに微笑んでいる。
初めからこの勝利を確信していたのだろう、ゆっくりとマウンドを降りて歩み寄ってくる。
「今のは……」
「スクリューボールだよ、私のウイニングショット」
「……俺の負けだ、完敗だ」
そう認めざるを得なかった、悔しさよりも先に畏怖の念を抱く。
「不意打ちでの変化球だったからね、勝つためにだけど綺麗な方法じゃなかったと思う」
その言葉に首を振る、そこで言い訳はしたくなかった。
「変化球が来るのは読んでたよ、でもその変化が俺の想像を遥かに上回った」
「……そっか、それは嬉しいな」
自分の最高のボールで正面から空振りを奪い取ったことに喜びの表情を見せる。
「負けた以上約束は守る、何でも言えよ」
「うん……私の名前は成宮詩織、です、それで……」
それだけ途切れ途切れに言うとその女の子は少し俯いてしまう。
しばらくしてから、決心したのか思い切って顔を上げる。
「私とっ! 友達になってください!」
その声は二人だけのグラウンドに響き渡った。
それから俺は練習の合間を縫って成宮と一緒に野球をするようになった。
成宮は俺と同じ六年生、チームには所属しておらず一人で練習していたそうだ。
そして、一緒にプレーする度にますます彼女の凄さが分かってきた。
ウイニングショットのスクリュー以外にも多彩な変化球を操り、捉えるのが難しい。
更にそれを精密なコントロールが支えていた。
球速こそなかったもののそれを補って余りある魅力が成宮にはあった。
俺はどんどん彼女にのめり込んでいった、そんなある日のことだった。
「来週、大阪に引越し?」
「急な話でごめんね、仕事の都合で……」
申し訳そうな顔をする母さん、だがそれを責めることなど出来るはずもなかった。
妹の愛里が生まれる前に父さんを亡くし、それから女手一つで俺たち二人を育ててきたのだ。
生まれてからずっとここ東京で暮らしてきたのだから愛着がないと言えば嘘になる。
それでも最も尊敬する存在である母さんを子供のワガママで困らせてはいけない。
「うん、分かったよ母さん」
「本当は六年生の最後までいて卒業させてあげたかったんだけど……」
「そんなこと気にしないでよ、俺は全然大丈夫だから」
そう口にしながら脳裏には成宮の姿が浮かんでいた。
来週、引越しの前日には俺にとって最後の試合が予定されていた。
隣の県から遠征してくる城山リトルとの練習試合、全国大会でベスト四に入った強豪だ。
俺が所属する柚島リトルも全国大会に出たこと自体はあるが初戦で敗退している。
ハッキリ言ってしまえばレベルの違う相手だと言えた。
それでも最後の試合として俺なりに最善を尽くすつもりだったのだが、状況が一変した。
エースの佐々木と正捕手遠藤のバッテリーが試合をボイコットしたのだ。
「佐々木! 遠藤! どういうことだ!」
監督の怒声が響き渡るも二人は涼しい顔だ。
「どうもこうもないっすよ監督、なんで負けるって分かってる試合でわざわざ俺が投げないといけないんすか?」
「俺も同意です、佐々木が好投しても城山リトル相手にうちの打線じゃ点なんて取れませんよ、俺たち以外にまともなのって安島ぐらいじゃないですか」
二人共野球の実力は確かである。
そしてこの二人が柚島リトルを全国に引っ張った原動力だったのもまた事実だ。
四番サードである俺とその前後を打つ佐々木と遠藤の三人で点を取り、勝ち切ってきた。
しかし他のメンバーの能力は低く、はっきりいってしまえば全国レベルの選手は俺たち三人だけだった。
当然の様にそれでは全国では通用せず、それに鬱憤が溜まっていたこともあるのだろう。
今までこの傲慢な態度も野球の実力により許されてきた。
しかし、それがここに来て爆発してしまった形だ。
「負けるかどうかなんて実際に試合をしてみないと分からないだろうが、だいたい今まで一緒にプレーしたナインに対してなんとも思わないのか?」
監督は必死に説得をしているが、佐々木はそれに対して不快感を隠しもしない。
「いやいや、そういうの俺は嫌いなんで……それに中学になったらリトルシニア行くんだしこのチームになんの思い入れも無いっすよ」
佐々木はあくまでも飄々としている、その態度にはある意味頭が下がる。
あるいはこのぐらいの精神力がないとエースは務まらないのかもしれない。
「監督、佐々木がこう言ってる以上俺も試合には出ませんから」
遠藤が最後にそう言い残すと二人共その場を立ち去ってしまう。
これだけ明確に拒否の意志を示している以上、無理に試合に出すわけにもいかないだろう。
頭を抱える監督に俺はある考えを持って声を掛けた。
「監督……」
「安島か、すまないな……お前にとって最後の試合なのに」
監督には引越しのことを伝えていたが、こんな状況でそれを気にしてくれるとは。
自分が大変な立場の中俺のことを考えてくれたという事実に心が動かされる。
いい監督だったと少なくとも俺はそう思っている、最後になんとか力になりたかった。
「俺の知り合いにすごいピッチャーがいます、そいつを使ってくれませんか?」
「安島が言うなら間違いはないだろうが……相手は城山リトルだぞ?」
「それでもあいつならきっとやれます、例え城山リトルが相手でも、です」
そう断言してみせた、それだけの能力があいつにはあると俺は確信していた。
「分かった、そのピッチャーを連れてきてくれ」
練習試合の六日前となった日曜日、成宮を連れてグラウンドに向かう。
ユニフォームなどは俺の小さいころ使っていたものを使わせている。
「私が、そのエースさんの代わりだなんて……本当に出来るのかな」
「自信を持てよ、成宮は俺が初めて認めたピッチャーなんだから」
グラウンドに入ると俺達に視線が集まる、佐々木と遠藤の姿は見当たらない。
俺が代わりのピッチャーを連れてくると宣言したことはあっという間に広がり、みんながそれを待ち構えていた形だ。
成宮の姿を確認するとどよめきが広がる、女だとは予想していなかったのだろう。
「安島、その子が……」
「そうです、成宮っていいます」
俺の後ろに隠れるようにしながら、成宮が小さく頭を下げる。
「こういう言い方は良くないとは思うが、女の子に城山リトルの相手は厳しいんじゃないか?」
そういう声が出てくるのも当然予想していた、ならば実力でそれをねじ伏せるまでだ。
「そう思われるのも無理はないです、俺も最初は成宮のことを分かってませんでしたから」
「それを分かって貰うために、今いるスタメンと成宮で勝負させてください、ヒット一本でも打たれたらこの話は諦めます」
「ヒット一本でもとは、随分大きく出たな」
「それだけ凄いんです、成宮は」
そして俺は備品のキャッチャーミットを手に取り、プロテクターを体に身に付ける。
「ちょっとまて、安島が受けるのか?」
「ええ、未経験ですけど死ぬ気でボールを止めますから」
正捕手の遠藤に比べれば実力は大幅に落ちるものの控えの捕手だって存在する。
それでも俺が経験のない捕手を名乗り出たのは成宮の相手を俺が務めたかったから。
俺以外の奴に成宮の相手はさせない、そんな感情すら覚えていた。
俺が抜けた分の代わりを含めて野手八人が次々と打席に立つ。
その殆どがバットにすら掠らせることが出来ないまま倒れていく。
言ってしまえば彼らは成宮とはレベルが違う。
主軸を打っていた佐々木や遠藤であればまだしもその他の選手では手も足も出ない。
あっさりと八人全員からアウトを奪い取る。
そのうち三振が六つでピッチャーゴロとキャッチャーフライが一つずつ。
成宮がその圧倒的な実力をみせつけた。
その実力を目の当たりにした後は、誰ひとりとして彼女がエースの代役を務めることに異議を唱えなかった。
問題は急造捕手である俺がその半分近い打席でボールを後逸したことだ。
特に成宮のスクリューは激しく変化するため前に落とすことすら難しい。
だからと言って最大の武器であるそれを封印して戦うなんてことはありえない。
それでなんとかなるほど城山リトルは甘い相手ではない。
そうなれば答えは一つだ。
残りの僅かな時間で、俺が成宮の球を全部止められるようになってやる。
そう決意を固めた俺は練習が終わった後、ある場所に向かった。
行きつけのバッティングセンター、そこの店長とは顔見知りだった。
事情を話すと快く協力してくれることになった。
ボール磨きをする代わりにここでキャッチングの練習をさせてくれるそうだ。
借りてきたキャッチャーミットとプロテクターを身につけ、構える。
設定で変化球を織り交ぜながらひたすらマシンのボールを受け続けた。
ボールを受けそこねる度に体にアザができるが、そんなものに構ってはいられない。
綺麗にキャッチ出来るものばかりではないが、最低限後ろに逸らさないよう必死だった。
理屈で理解するには、俺には時間も経験も足りなさすぎる。
体で覚えるしか無い、滝を浴びるように大量のボールを受け続けるだけだ。
放課後を待って、成宮が無理をしない程度に投げてもらいそれを受ける練習。
成宮が限界になったら一人バッティングセンターに向かいマシンのボールを受ける。
そんな日々を練習試合の時までただ繰り返した。