イップス
翌日の練習、氷室さんはどこか緊張した面持ちでグラウンドに現れた。
ウォーミングアップの時ですら動きの硬さが伝わってくるようでとても見ていられない。
とりあえず一通りのウォーミングアップを終え氷室さんが俺の元に駆け寄ってくる。
他のメンバーには事情を伝えてある、しばらくは俺と氷室さんだけの特別メニューだ。
「安島、これからどうしよう……」
「まぁ落ち着けって、とりあえずもう一回きっちりストレッチだ」
「今やったばっかりだよ?」
「あれじゃあ全然足りない、まだまだ動きが硬いから俺が改めて付き合うよ」
そういって氷室さんを地面に座らせて体全体をゆっくりと伸ばしていく。
精神的にリラックスさせるのは難しいがせめて体だけは万全な状態で取り掛かりたい。
三十分ほどかけた長い長いストレッチが終わる。
先ほどよりも緊張がほぐれた様子が見て取れて一安心だ。
「よし、それじゃあキャッチボールをしよう……今の氷室さんの状態が知りたい」
氷室さんがピッチャー用のグラブを俺はキャッチャーミットを手に向かい合う。
まずは短い距離でお互いに立ったままボールを投げ合う。
いつものキャッチボールと違うのは俺が持っているのがキャッチャーミットだという点ぐらいだ。
俺は右手で返球が出来ないので一度ボールを受けるたびにミットを外し左手で返球する。
とりあえずこれは問題なくこなせるようだった。
少しずつ距離を伸ばしていく。
その距離がマウンドからホームベースの距離程度まで広がっていく。
「投球フォームをとって投げてみてくれ」
そう言ってから俺は座って構える、だんだんと投手と捕手の関係に近くなってくる。
氷室さんがボールを投げ込んでくる、綺麗なストレートがミットに収まった。
ボールはストライクゾーンにきちんとコントールされている。
その後も続けて何球か投げてもらったけれども概ね問題はなかった。
続いてマウンドに上がって投げてもらったもののこれも問題なし。
ここまできて俺はなんとなく氷室さんの状態が分かっていた。
その予想が正しいのであれば次が投手復帰するに向けて大きな壁になるはずだ。
「ここまでは問題ないみたいだから次のステップに移ろうか、そうだな……樋浦さん、ちょっと来てくれないか?」
俺に呼ばれた樋浦さんがこちらにやってくる。
氷室さんの中学時代からのチームメイトで、今いるメンバーの中でも一番親交が深い樋浦さんがこの練習には向いている。
「何かな、安島くん?」
「ヘルメットを被って打席に立って欲しいんだ」
「……うん、わかった」
事情を詳しく知る樋浦さんはこの練習の意図をおそらく察しているだろう。
右打席に入りバットを構える。
すると氷室さんの様子が目に見えて変わった。
足元を慣らしてみたり、落ち着きなくボールを弄んでみたりしてなかなかモーションに入ろうとしない。
そうしてたっぷり時間をかけてから覚悟を決めたように投球モーションに入る。
ボールがリリースされた瞬間俺は反射的に飛びついていた。
だがそのミットのはるか先をボールはすり抜けていく。
打者と反対方向に大きく逸れる大暴投はとても捕球できるレベルではなかった。
やっぱりそうだ、俺は確信する。
氷室さんは打者を打席に立たせると死球への恐怖でコントロールが効かなくなってしまうのだろう。
同じ練習を繰り返したものの結局一球もストライクは入らなかった。
全てアウトコース方向に大きく外れるボール球に終わり、氷室さんの心の傷はまだ癒えていないことを再確認する結果となった。
「課題は分かった、とりあえずここまでにしよう」
氷室さんへの負担も考えて練習を打ち切る、一度対策を考えなくてはいけない。
マウンドを降りた氷室さんは全部で三十球も投げていないのにまるで一試合を完投したかのような量の汗を流しており、今の練習の氷室さんに対する負担の大きさを物語っていた。
「ごめんね、安島」
「初日からうまくいくなんて思ってないさ、気長にいこう」
励ますように氷室さんの背中を軽く叩くも気分は晴れない様子だった。
その夜、俺は氷室さんの部屋を訪れた、これで部屋に上げてもらうのも二回目だ。
「それで、どうしたのこんな時間に?」
「練習のアフターケアをさせてもらおうと思ってね、まぁベッドに横になってくれよ」
訝しげな表情を見せながらも素直にベッドに横になる氷室さん。
「天城さんもお気に入りの奴だ、気持よくしてやるよ」
そういった瞬間氷室さんがベッドから飛び起きた。
俺から思い切り距離をとるように壁まで後ずさる。
「あ、天城さんと普段何してるのよっ!」
顔を赤くしてそう叫ぶ氷室さんの様子でようやく誤解を招いていることを理解する。
「バカ! ただのマッサージだよマッサージ、変な勘違いすんなって!」
こちらの顔まで赤くなるのが分かる。
可愛い女の子が相手だと意識しないように努力しているのにそれをぶち壊してくれる。
「ふん、どうだか……安島は天城さんのことお気に入りだもんね、何かにつけて色々してあげてるみたいだし」
「あれで案外世話の焼ける奴なんだよ、いいから横になれって」
もう一度氷室さんに横になってもらい、マッサージを開始する。
「んっ……気持ちいいかも」
「これで少しはリラックス出来るだろう、気持ちを切り替えていければいいと思ってね」
そのままマッサージを続けているとしばらくして寝息が聞こえてきた。
久しぶりに投手として練習をしたことで疲れていたのだろう。
マッサージを終えた後、氷室さんを起こさないように静かに自分の部屋に戻った。
ドアを開けて部屋に入って違和感に気がつく。
ベッドが不自然に盛り上がっている。
不審に思って布団を剥ぎ取ると天城さんが横になっていた。
「随分お早いお帰りですね」
皮肉たっぷりにそう声を掛けられる。
「天城さん? どうしたんだ」
そう尋ねると軽く睨みつけられる。
「どうしたんだ、じゃないです、氷室さん氷室さんってバカみたいにくっついてばかりで……私の相手はどうしたんですか」
ゴロゴロと俺のベッドを転げまわる天城さん、氷室さんのことで頭がいっぱいで天城さんのことをすっかり忘れていた。
「ごめんごめん、今やるから」
慌ててマッサージを開始する、柔らかい天城さん感触が指先に伝わってくる。
「ん……それで、氷室さんはどうでしたか?」
「まだ時間がかかりそうだよ、信じてじっくりやるしかないな」
「そうですか……」
そう言ったきり、なにか考えこんでしまう天城さん。
「私も私なりに協力させてもらいますから」
部屋に戻る前にそんな風に言っていたのがなんだか気になった。




