如月の海
―――――桜が咲いたら、お参りにいこうか。
蝋梅の甘やかな匂いがほんのりと猫の額ほどの狭い庭先を包む中、縁側に座したあなたの背中には、さわさわと揺れる梢の陽炎が戸惑うように舞っておりました。この初春に下ろしたばかりの合わせの紬は、艶やかな照りを返し、男にしては少し小柄な背中を控え目に象っております。
あなたは、差し込む春の日差しに眩しそうに目を細めながら、額際に手を透かして、鈍色が薄らと膜を張るような少しくすんだ空を眺めておりました。
蝋梅の蜜を吸いに番いでやって来たメジロが楽しげに囀る声がこだまいたします。この庭に来るメジロはいつも番い。仲睦まじげな様子で甲高いお喋りをするのです。
代わる代わる交替で淡い日だまりのような黄色い花の中に埋もれるその小さな若草色の影を視界の隅に留めながら、わたくしは、そっと縁側に座るあなたの背中へ問い掛けました。
「橋向こうの瑞祥寺でございますか」
少し離れた所にある小さなお寺です。鬱蒼と茂る木立の中に立つそのお寺は、起伏が激しいこの町の小高い丘の上にあり、木々の隙間からは、遠く海が望めました。
梢に縁取られた青い海。その遠い波間に時折混じる眩いばかりの銀色は、明け方の西の空に残る星々の名残のように、刻々と静かに姿を変えて行きました。
遠く、鷗の鳴き声を聞いたのは空耳であったのか。思わず確かめるように空を見上げたわたくしに、あなたは小さくお笑いになりました。
―――――鳶を鷗と違えたか。
あなたの言う通り、遥か上空を大きな円を描きながら悠々と鳶が一羽飛んでおりました。
わたくしは鷗でなかったことに少しがっかりして、茶色の羽が白かったらよかったのにと他愛のないことを考えてしまいました。
二人しての当て所ないそぞろ歩き。その途中で偶々見つけた小さなお寺でした。
通ったことのない細い脇道。その向こうにこんもりと見える冬仕様の梢の山。その隙間に覗く黒々とした瓦屋根。
あなたは、少し子供みたような顔をして、わたくしに目配せをなさいました。
―――――ちょいと覗いて見てみよう。
そう言うとわたくしが答えを返す間に、懐手をしたまま草履の鼻緒をきゅっと鳴らしてその小道に向かいました。
そのまま小唄でも飛び出しそうな軽やかな背中で数歩行き、そこで不意に首だけ振り返ると、微かに口の端を吊り上げなさいました。
―――――ほら、君もおいでなさい。
何やら愉快げなあなたに釣られるように、わたくしも小さく微笑むとあなたの背中を追いかけたのです。
そうして見つけたのが、人気のない小さなお寺でございました。掃き清められた参道とその脇を固めるようにひっそりと華を添える山茶花に、御勤めに入る御住職のお人柄が窺えました。
二人してお参りをすると、あなたは何かに引き寄せられるようにふらふらとこじんまりとした本殿の裏手へと歩き、そこでその木立の中にある海を見つけたのです。
―――――千代能。
あなたはわたくしの名を呼んで、ちょいちょいと手を拱きました。わたくしは、少し小首を傾げながらもあなたの傍に行き、そこで小さく切りとられた景色を見つけたのでございます。
―――――まぁ。
このような所から海が見えるとは思わずに微かに驚きと感嘆の息を吐いたわたくしに、あなたは懐に入れていた手を御自分の顎に当てて、感心したように目を細めて言いました。
―――――これは大したもんだ。
―――――ええ、本当に。
まるで一幅の掛け軸を見ているよう。
そのように評したわたくしに、あなたはちょっと考える風に首を傾げながら、言葉を継ぎました。
―――――水墨画というよりも油絵というところだろう?
水彩画よりも力強い。
この季節特有の澄んだ冷たい空気を鼻一杯に吸い込んで。寒さでほんのりと赤くなったその鼻先をひくひくとさせながら、あなたは尤もらしく言ったのです。
そのような少し威丈高で得意げな態度にわたくしは思わず吹きだしそうになりました。
銀行勤めで日々帳面片手に算盤勘定をしているようなあなたが、美術の方面に造詣が深いとはついぞ知りませんでしたから。ましてや絵心があるなんて。
ですが、表立っては口にせず、
―――――そうでございますね。
気が付けば、わたくしも似たような訳知り顔で、そのような言葉を返しておりました。
そうして二人して顔を見交わせて、互いの心の内をすっかり知っていたわたくしたちは、小さく笑みを零したのでした。
今、こうして縁側に座って空を眺めているあなたは、その時の海を思い出しているのでございましょうか。
あなたが生まれ育った故郷は、ここからは遥か遠く、高い山々を超えた向こうにございます。そして、わたくしの故郷もあなたと同じような山深い片田舎にございました。
二人して垣間見たあの冬枯れた木立の間の海は、あなたとわたくしが知るような【青】の色合いではございませんでしたが、それでも海は繋がっておりますから、揺れる瑠璃の狭間に、あなたは故郷の色を思い出していたのかもしれません。
滔々と流れる信濃の川が還りつくあの大海を。
あの時は、ちょうど冬のただ中でございましたから。
新しい年を迎え、移ろった季節。春めいてきた日差しに、柔らかに反射するあの煌めきを今一度見てみたいと御思いになったのかもしれません。
「小高い丘の上の…………」
あの時の一枚の絵のような美しくも力強い景色を思い出しながら、わたくしが口を開けば、あなたはどこか嬉しそうに小さく微笑まれました。
人好きのする柔らかい笑み。少し不器用で、それでいて人一倍真面目で仕事熱心なあなた。本当は涙もろいあなた。口にする言葉は多くはなくとも、その背中が語るあなたのお人柄は、こうして縁あって夫婦となり、少なからぬ年月を連れ添ったわたくしには分かっておりました。
それは、きっとあなたとて同じでございましょう?
ですが、その時の約束は、結局、果たすことが出来なくなってしまいました。
永久に。
それから暫くして、心内で密かに楽しみにしていたそぞろ歩きをせぬままに、あなたはお国の為にと戦地へと旅立って行きました。この国の男子としてその勤めを果たすのだと。赤い紙切れ一枚での招集でございました。
街の銀行屋。内勤で算盤片手に勘定を得意としていたあなたは、その手に鉛筆と算盤ではなく銃剣を持つ兵士となったのです。
わたくしが縫った合わせの紬ではなく、あなたの体を包むのは、お国より支給された柿渋色の隊服でございました。
膝にゲートルを巻いて、その背に背嚢を背負って。
わたくしは、そんなあなたの背中をただ見送ることしかできませんでした。無事であることを祈りながら。
体が丈夫な方ではなかったあなた。肉体労働を得意としなかったあなた。
そんなあなたが遣わされた満州は、いまだ寒さ厳しき過酷なる地だと聞きました。
小さな長屋に一人残ったわたくしは、仏様のお情けのように授かったややこを己が腹に宿しながら、あなたの無事を祈りつつ、そのお帰りを待ち続けておりました。
一月経ち、二月経ち。
あなたが旅立ったあの日より、わたくしの【時】は止まったまま。それでも確実に移ろう月日は、わたくしの日に日に大きく膨れる下腹に表れておりました。
否応なしに時が経つのを刻みつけるかのように。
あなたがお戻りになる頃には、身二つとなって新しい命と共にあなたをお迎えすることになることでしょう。あなたはきっとその涼やかに吊り上がった二重の目を見開いて、驚きを顕わにするに違いありません。そして、嬉しそうに目を細めてわたくしの手を握り締めてくだるのです。そんなことを思い描きながら、日々、あなたのいらっしゃらない暮らしに、一人、心を慰めておりました。
そして、一年が経ち。
無事、男の子を産んだわたくしは、徐々に激しくなる戦火から逃れるべく実家の片田舎へと戻っておりました。本当は、あの長屋であなたのお帰りを待っていたかったのです。ですが、激しくなる空襲にこのままではわたくしの身もどうなるか分からないということで、幼子を抱えて故郷へと向かう汽車に乗り込みました。
それからまた一年。
わたくしの元に、小さな紙切れが一枚、届けられました。
それは、あなたの戦死を伝えるものでした。
どこで、どのようにして。それすらも分かりません。あなたがお国の為に雄々しく散ったということを伝える暗号のような文字の羅列。遺骨も遺品さえもなく。あなたが死したという証拠はどこにもありません。ただ、そのような曖昧模糊とした紙切れ一枚だけで、どうしてあなたの永遠なる不在を信じられましょうや。
あなたがもうこの世にはいないのだということを、わたくしは信じたくはありませんでした。
こうして気が付けば、わたくしの元に残ったのは、あなたが生きていたという証の幼い命。そして、あなたが出征前に着ていたわたくしの縫った合わせの紬が一枚。そして、古ぼけた一枚の写真。
生きている限り、あなたのお戻りを待ち続けようと決めたわたくしの心は、揺らぐことがありませんでした。
それから。
その年の八月に終戦を迎えました。ラジオから流れる玉音放送を聞きながら、わたくしは長かった戦争が終わったことを知ったのです。そして、わたくしは思いました。これであなたは長きに渡る御勤めから解放されると。晴れて自由の身になるのだと。
あなたの影を探すように再び東京に戻ったわたくしの前に、あの二人して静かに暮らした長屋は跡形もなく消えておりました。
まるであなたとの暮らしが夢物語であったかのように。
通り掛かった人に聞けば、空襲で焼けてしまったのだということです。
―――――この辺りはぁ、一面焼け野原さ。見るも無残なものさ。
そう教えてくれたのは、煤だらけの顔の大工で。がれきの中に埋もれる木端の切れ端をわたくしはそっと手に取って、それを胸元にしまいこみました。
その足で、わたくしは、一人、あの小高い丘の中に立つお寺を目指しました。
本堂は残っておりました。その場所は幸運にも降り注ぐ焼夷弾の猛攻を免れたようで、所々、痛んだような箇所は見受けられましたが、わたくしの記憶の中にあった光景と殆ど変ることなく、つくねんと立っておりました。
わたくしは己が胸内に残る記憶に引かれるように、こじんまりとした本堂の裏手に向かいました。
季節は移ろい、再び、冬が訪れようとしておりました。あの時と同じ頃合いです。
茶色に枯れた葉っぱをそこかしこに付けた枝々の間から、あの時と同じ海がわたくしの目の前にございました。
ただ、あの時と違うのは。
わたくしの隣にあなたはいらっしゃらない。
それが、どうにも切なくて。哀しくて。
わたくしは溢れそうになる涙をじっと下唇を噛んで堪えました。ここで涙など見せてはなりません。何故なら、わたくしはあなたが無事この世界のどこかにいて、必ずやいつかまた、わたくしの元にお戻りになることを信じておりましたから。
それなのに。
わたくしの決心を裏切るかのように流れ出す涙は、何故なのでございましょう。
そのように千々に乱れたわたくしの心の嘆きを嘲笑うかのように、冷たさを増した秋のからりとした風が、わたくしの頬を撫でて行きました。
そして、甲高い鳥の鳴き声が致しました。
釣られるように顔を上げたわたくしの視界に、澄み渡った青空を悠々と円を描いて飛ぶ茶色い羽が見えました。
―――――鳶を鷗と違えたか。
あの時のからかうようなあなたの声は、今でもわたくしの中に残っております。
「鷗でしたらよかったのに………」
小さく漏れたわたくしの声に応える者はございません。
わたくしは、再び、梢の合間に覗く青々とした海を眺めました。連子格子のような枝の隙間から覗く瑠璃の波間は、あの時と同じくきらきらと銀の鱗を散りばめて、静かに揺れておりました。
―――――桜が咲いたら。
わたくしは眦に残っていた涙を懐に入れていたハンカチで拭うと、気持ちを入れ替えるように顔を上げました。
「ええ。桜が咲いたら」
―――――また、来ます。
そして、わたくしは、再びこの場所を訪れることを誓いました。
今度は、息子と二人で。
あなたとの約束を果たすために。
私の母の手元には、かつて祖父が着ていたという紬が一枚だけ残っております。その昔、それに一度だけ袖を通してみて、予想よりも小さくて驚いた覚えがありました。
祖母が亡くなったのは、私が小さい頃のことでした。母(嫁)は以前、祖母より一度だけ戦争前に撮ったという祖父の写真を見せてもらったことがあるそうです。我が父よりもずっと目鼻筋の通った男前だったと申しておりました。
もうすぐ我が父の誕生日。戦後、二人の息子を女手一つで育て上げ、大学まで行かせた祖母を偲びつつ。合掌。