雨の日、僕は傘を差す
ひどい雨だ。
まだ梅雨の時期ではないというのに。
傘を忘れた僕は、学校の玄関で立ち尽くしていた。仕方がないから、雨が止まずとも、弱くなるまではここでこうしているしかないだろう。
そうして、学校の玄関で立ち往生している僕を、他の生徒たちが追い越していく。気だるそうに傘を広げて、三、四人でグループを作って帰っていく女子や、傘についた水滴を飛ばし合って楽しそうにはしゃいでいる男子。学校の中では、グラウンドを見ながら、今日は部活が休みだとか、休みじゃないだとか、そんな会話が聞こえてくる。どれも、こんなふうに雨が降った日には、よく見る光景だ。
相合傘をして仲よさそうに帰っている人が、ちらほらと見えた。
僕には――――そんな人はいない。
この学校は公立で、小学校も同じだったという人は少なからずいるのだが、小学生の時も、学校では少し話す程度の友人が少数いただけだし、中学に上がっても、人と仲良くなることが苦手な僕は、まだ同じクラスの人達とも殆ど話したことさえなかった。
つまりは―――孤独なのだ。
僕がまだ小学校に上がりたての頃、今日と同じように雨が降っていて、今日と同じように傘を忘れて、困っていたことがあった。
一緒に帰る友達がいないのも……同じだった。
小学校から自分の家まではそんなに遠くなかったので、急いで帰ってしまおうかと思っていた僕の目に、嬉しい光景が飛び込んできた。困った時にはいつでも現れてくれる、僕にとってのヒーローが。
「ふふっ、雨で帰れなくて困ってたの?」
母が笑顔で傘を広げながら、僕が学校から出てくるのを待っていた。母が振りまくその笑顔は、雲間から差し込んだ太陽の光のような輝きだった。
僕は、そんな母が大好きだった。
その頃まで僕は『大きくなったらママと結婚する』なんていう常套句も言っていた。
そんな、大好きな母に小さい頃の僕なりに見栄を張った。
「このくらいの雨なら一人でもかえれたのに」
僕は嬉しさを隠して、そんな強がりを言っていた。
「はいはい、ごめんね。お母が勝手に来ちゃったね」
母は僕の頭を優しく撫でた。
本当はすごく嬉しいよ――――なんて、言えなかったけど、僕の顔は自然と笑顔になっていた。
「かさ、ぼくが持つよ」
「嬉しいんだけど……日向くんが傘持ったらママ濡れちゃうよ」
確かにその時の僕の身長では傘を持って精一杯背伸びしても、母の背丈には届かなかった。
僕は悔しがって舌打ちをし、傘の下の方をちょこんと持った。持った――と言うより、触れていただけという程度だったが。
僕はそんなふうにして、ずっと母と一緒にいられると思っていた。
――――いや、そうしていられるはずだった。
そのまま僕が成長して、反抗期なんかを迎えた時には母離れしてみたりして、もっと成長して大人になったら、それなりに親孝行して――――
そんな誰もが描く未来を僕は描けなくなってしまった。
「しょうがない、か」
待っていてもなかなか雨が止まないので、僕は諦めて外に出ることにした。
一向に弱まらない雨は、僕の全身を打ちつけた。その雨の一粒一粒がひどく冷たいものに感じられた。
雨は嫌いだ。雨は母を思い出させるから。
「大丈夫?」
突然後ろから聞こえた声に、僕は驚いて振り向いた。
「…大丈夫? 青野くん」
僕の全身に当たっていた雨が止んだ。
振り向いた先には、クラスメイトの小松有希さんがいた。
「あっ、うん。大丈夫だけど……どうして……」
僕にはその後の言葉を見付けることができなかった。
どうして傘を差してくれているのか――その答えなんて決まっている。僕が傘も差さずにこんな所に立っていたから、だ。
「どうして、って……こんな所で、そんなふうにしてたら誰だって心配すると思うけど」
小松さんは、そんなことを訊く方が不思議だという眼で僕を見ていた。
まあ、それも当然のことだとは思う。
「そうだよね……どうしてだろう」
と言う僕の返答に少し間をおいて小松さんは、
「どうしてだろう、って…どういうこと?」
そう言いながら、ふふっ、と笑った。
――――その笑顔が僕の記憶と重なった。
小松さんに母の面影は全くないが、その笑い方と優しい言い方が、僕の心に響いたのだろう。
そして、それに僕自身は気付いていなかった。
「えっ? ちょ、ちょっと、青野くんどうしたの?」
僕は目の前で小松さんが狼狽している様子を見て呆然としていた。
そして、小松さんは、これ使って、と言って、僕にハンカチを差し出した。
「…………」
僕はそれを受け取ったが、どうしていいか分からなかった。
小松さんはそんな僕を見て、
「大丈夫。気にしないでいいから、拭いて」
そのまま、ほら、と言って僕の手を取り、僕の頬にそのハンカチを当てた。
「あっ……」
その時、僕の目から涙が流れていたのだと気が付いた。涙は、振り続ける雨のように、僕の頬を濡らした。
「だっ、大丈夫だよ。もう、こんだけ濡れたら、ちょっと拭いても同じだしさ」
僕は、差し出されたハンカチを返した。
「でも…青野くん……その………涙が……」
小松さんが言い淀んでいるのを見て、僕は、
「ち、違うよ。ほら、雨がさ、目に入っちゃって、それが……そんなふうに見えたのかな?」
僕はそれに、ははっ、と照れ笑いを足して言った。
「そっ、そう? じゃあ……」
小松さんはハンカチをしまった。
その時――――――
「「あっ」」
僕らは同時に空を見上げた。
雨が止み、雲間から陽の光が差し込んでいた。
「止んだね、雨」
「うん、そう……みたいだね」
短い会話の後、二人の間に流れた静寂は、いったいどれくらいだったのだろう。たぶん、数秒程度だっただろう。
小松さんは、傘を閉じた。
「なんか、青野くんて……みんなと関わろうとしてないのかと思ってた」
「えっ!? そんなことは……」
「無いんだよね。今、なんとなくわかった」
「……うん」
「だったら、もっとみんなの輪の中に入っていけばいいのに」
「うん……、でも、そういうの苦手なんだ」
小松さんは、傘に付いていた水滴を掃いながら、少し難しい顔をした。
「そっか……でも、大丈夫だよ。みんなわかってると思うから」
「わかってる…?」
「そう、青野くんて、けっこうみんなに気遣って、他人がやりたがらなかったり、面倒臭がったりすること、何も言わないで先にやっててくれてる」
急にそんなことを言われたものだから、僕は顔が火照るのを感じた。
「そんなこと……ないと思うんだけどな」
「ううん、だから青野君って、意外と人気者なんだよ」
「そう……なんだ」
小松さんはまた、ふふっ、と笑った。
「そうなんだ、って他人事みたいだね。でも、そうなんだよ。ただ……ちょっと近寄り難い雰囲気が――」
小松さんは慌てて、ごめんね、と言ったので、僕は、気にしないで、と自然な笑顔で……言えたと思う。
「でも、今、こうやって話して……わかった気がする」
「えっ……? な、何が」
小松さんは雲間から光が差し込む空を見上げた。
「嫌なんじゃなくて、苦手なだけなんだよね。人と……話すのが」
小松さんにそう言われて、僕は考えてみた。
僕は、人と話す以前から、勝手に悪いイメージを持っているだけなのかもしれない。
もしくは――――最初から既に考えてしまっているのかもしれない。別れのことを。
「そうかもしれない。そういうことに関しては、ネガティブなイメージが先行しちゃうっていうか……」
僕がその後の句が思いつかずに悩んでいると、小松さんが、
「大丈夫だよ」
と僕の後ろ向きに進み始めていた考えを止めた。
「大丈夫、きっとみんな気付いてくれると思うよ。人って、そんなに他人の嫌なところばっかり見てるわけじゃないと思うの。だって、そうじゃないと、仲良くなんてなれっこない。だから、青野くんの良いところ、みんな気付いてくれると思うんだ。少なくとも……」
小松さんは、少し照れたように笑い、こう続けた。
「少なくとも、私は気付いたから」
その時、僕は世界が広がったように感じた。
僕は、自分で勝手に作った殻に閉じこもって、自分で視界を狭めていただけだったんだ。母が僕にとって全てだったとも言えるくらい大きな存在だったから、その母がいない世界を好きになることも、できなくなっていた。
でも、それは違うんだ世界は――広いんだ。僕が考えているよりもずっと、ずっと雄大で、深くて―――だから、僕はこの世界で、母がいないこの世界でも、笑って生きていくんだ。
僕は、顔を上げて小松さんの方にしっかりと向きなおした。
「ありがとう」
それしか言えなかったけど、僕はその言葉に、僕の考え方を大きく変えてくれた小松さんへの感謝と、これから先の人生への希望をありったけ込めた。
それが、伝わったのかどうかは分からないけど、小松さんも笑顔で、うん、と小さく頷いてくれた。
「あっ! 私そろそろ帰らないと……、じゃあね」
小松さんは学校の時計を見上げて慌ててそう言った。
「じゃあ……明日」
「うん、じゃあね」
短い言葉を交わすと、小松さんは急いで帰って行った。
僕も、その背中を見送った後で、自分の家の方へと歩を進めた。
僕は、雨の日が嫌いだ。何だか憂鬱になるから。
でも、またこんな雨降りの日があって、その時、僕みたいに傘を忘れて困ってる人がいたら、僕は傘を差して、大丈夫? って優しく言うんだ。
だから――――――
雨の日、僕は傘を差す。
この作品は、確か私が最初に書きあげた短編作品だったと思います。(本人なのに曖昧ですみません)
今回も、イラストはたつよ氏に提供していただきました!