第六十八話 その人の名前
三日後。
学院の時計塔が見えた。
「帰ってきた。」
トーマが大きく息を吐く。
「今度こそ、荷物の紐は切れなかった。」
「そこが一番の成果ですか?」
セレスが尋ねる。
「大事だろ。」
レインは二人のやり取りを聞きながら。
胸元の帳面へ触れた。
四人分の記録。
百年前と現在をつなぐ証拠。
これから伝える言葉の方が。
北方へ向かう時の荷物より重く感じた。
◇
学院長室には。
学院長と司書が待っていた。
机の上へ、帳面を順番に並べる。
「全員、無事で何よりです。」
学院長が最初に言った。
「報告は、休んでからでも構いません。」
「今、伝えたいです。」
レインが答える。
ガレスも止めなかった。
「では。」
「見つけた順に話してください。」
◇
黒衣の負傷者が通った古い道。
北から南へ逃げる魔物。
救護所に残った音声。
『もう、その名では戻れない。』
最初に魔王と呼ばれた窪地。
同じ出来事を、別の意味で残した二つの記録。
そして。
レインは、完全記録を書き写した頁を開いた。
【変更前属性:勇者】
【変更後属性:魔王】
学院長は、長い間その二行を見つめていた。
司書も言葉を発さない。
「同一の対象者です。」
レインは説明を続ける。
「百年前に役割を変えた対象者と。」
「現在も続く維持処理の起点が一致しました。」
「現在属性も、魔王と表示されています。」
「つまり。」
学院長がゆっくり顔を上げる。
「百年前の勇者が魔王となり。」
「その人物が、現在まで何かを維持している。」
「記録上は、その可能性が極めて高いです。」
ガレスが答えた。
◇
「維持しているものは。」
司書が尋ねる。
「欠損しています。」
「世界そのものかは分かりません。」
「ですが。」
レインは白い線の記録を示す。
「北方で色が抜ける異常が起きました。」
「維持処理が届くと、元へ戻りました。」
「その処理が止まった場合、異常が広がる可能性は高いと出ています。」
学院長室が静かになる。
「魔王を倒せば。」
トーマが言う。
「それも止まるかもしれません。」
「だから。」
セレスが続けた。
「今は討伐対象だと決めるべきではないと思います。」
学院長は、すぐには答えなかった。
窓の外で。
時計塔の鐘が鳴る。
「討伐を命じる権限は、学院にはありません。」
「ですが。」
「この記録を無視した調査や討伐に、協力することもできません。」
学院長は二つの属性が書かれた頁を閉じた。
「まず、事実を確かめます。」
「あなたたちと同じように。」
学院長は四冊の帳面を並べ直した。
「同じ表示を、全員が見たわけではありませんね。」
「クロニクルの文字は、主にレインが見ています。」
ガレスが答える。
「ですが、石板、地面の変化、魔物の移動は全員が確認しました。」
「音声も聞きました。」
セレスが自分の帳面を開く。
同じ言葉が、少しずつ違う筆跡で残っている。
「表示だけに頼った結論ではないのですね。」
「はい。」
「四冊を複写してください。」
学院長は司書へ告げる。
「原本は本人たちへ返します。」
「それまでは、この内容を不用意に広めないように。」
「魔王が元勇者だったという結論だけが先に伝われば、新しい混乱を生みます。」
百年前と同じだった。
残った呼び名だけが、出来事の意味を決めてしまう。
「順番ごと伝える準備をします。」
レインは答えた。
◇
最後に。
レインは白い終焉の記憶を話した。
雪原で、黒衣の男を倒したこと。
直後に世界が白く消えたこと。
二つの月。
『遅かったな』という言葉。
「記憶か、夢かは分かりません。」
「完全記録の白い像と同じ現象かも、まだ。」
「分けて報告できています。」
司書が静かに言った。
「それで十分です。」
「分からないものを、分かったことにしない。」
「そのために記録があります。」
レインは頷いた。
◇
「次に、何を調べたいですか?」
学院長の問いに。
レインは、すぐ答えられた。
「名前です。」
「百年前の勇者でも。」
「現在の魔王でもない。」
「その人自身の名前を探したいです。」
「名前を知れば、すべて解決すると?」
「思いません。」
名前を呼ぶだけで。
白い崩壊が止まるわけではない。
百年間の維持が、別の仕組みへ変わるわけでもない。
「でも。」
「役割だけを見ていたら。」
「その人が何をしてきたのかも。」
「何を望んでいるのかも、聞けないから。」
学院長は頷いた。
「では、次の調査目的とします。」
「失われた名前を探すこと。」
司書が、空白の紙を一枚置いた。
上には。
『百年前の勇者』
下には。
『現在の魔王』
二つの役割が書かれている。
その中央だけが。
空いていた。
勇者は、魔王になった。
けれど。
勇者も。
魔王も。
その人の名前ではなかった。




