第五十八話 傷の記録
石の向こうで。
何かが、もう一度動いた。
低い息遣い。
草を引きずる音。
「出てくるぞ。」
ガレスが剣を抜く。
レインたちは、その後ろで構えた。
崩れた石の隙間から。
黒い頭が、ゆっくり現れる。
背に短い角を持つ魔物。
昨日、四人を避けて逃げたものと同じ種類だった。
魔物はレインたちを見る。
唸り声を上げた。
けれど。
立ち上がろうとはしない。
「怪我してる。」
レインは気付いた。
後ろ脚の毛が、赤く濡れている。
「近づくな。」
ガレスが言う。
「動けなくても、牙はある。」
魔物は剣を見て。
身体をさらに石の陰へ縮めた。
襲おうとしているようには見えない。
逃げる場所を探している。
「どうしますか?」
セレスが尋ねる。
「追い立てれば、傷を悪化させる。」
「ここに置けば、調査中に背後を取られる。」
ガレスは周囲を見る。
「出口を一つ空ける。」
「三人は距離を取れ。」
◇
トーマが弱い風を起こした。
魔物のいる場所とは反対側から。
草だけを揺らす。
セレスは地面へ細く水を流した。
森の奥ではなく。
古い道へ向かうように。
「誘導するの?」
「動けるなら。」
レインは剣を鞘へ戻した。
魔物の目が、その動きを追う。
ガレスも剣先を下げた。
風が背を押す。
水が進む方向を作る。
しばらくして。
魔物は前脚だけで身体を起こした。
後ろ脚を引きずりながら、石の陰を出る。
レインたちから離れ。
古い道の南側へ。
一度だけ振り返る。
そして。
木々の中へ消えていった。
「助けた、でいいのか?」
トーマが剣から手を離す。
「逃げる道を空けただけです。」
セレスが答えた。
「同じじゃない?」
「近づいて治療したわけではありません。」
「襲われなかったのも、結果だ。」
ガレスが剣を収める。
「次も同じとは思うな。」
「はい。」
倒さないための剣。
訓練場で学んだことを。
今度は、魔物へ使った。
◇
四人は救護所跡へ近づいた。
残っているのは、建物の基礎だけだった。
壁も。
屋根もない。
草の間に、割れた器の欠片が落ちている。
錆びた金具。
炭になった木片。
ガレスが土へ触れる。
「焼けた跡がある。」
「いつのものですか?」
「分からん。」
百年前か。
もっと後か。
建物がなくなった理由も、まだ決められない。
セレスは柱の印を写す。
トーマは基礎の大きさを測った。
レインは、石の間を見て回る。
紙は残っていない。
本も。
人の名前も。
けれど。
ここが救護所なら。
百年前の黒衣の人が、傷を見せた場所かもしれない。
「何も出ないな。」
トーマが言う。
「さっきは経路を示したのに。」
「待機中だから?」
レインが折れた柱へ近づく。
刻まれた印へ、手を伸ばした。
「触る前に言え。」
ガレスの声で、指を止める。
「すみません。」
「周囲を確認してからだ。」
四人でもう一度、石の陰を見る。
動くものはない。
魔力の異常も。
罠らしいものも見つからない。
「触れていい。」
レインは頷き。
指先を、柱の印へ重ねた。
◇
――コン。
【記録地点への接続を確認】
【地点種別:救護記録】
【複数の履歴を検出】
【時系列を照合します】
青い文字の下へ。
細い線が、何本も現れた。
今の線。
昨日の魔物が通った線。
さらに古い線。
重なったままでは、どれが百年前のものか分からない。
「絞れないのか?」
トーマが尋ねる。
「やってみる。」
レインは王都で書き取った記録を開いた。
黒衣。
白銀の剣。
左脇腹の傷。
「この三つで照合。」
【条件を受理】
【該当履歴:一件】
一番古い線だけが残る。
森の南側から救護所へ入り。
短い時間、ここに留まり。
北へ出ていく線。
「同じだ。」
セレスが息を呑む。
「王都の記録にあった人です。」
「まだ断定するな。」
ガレスは表示を見られない。
それでも。
レインが読んだ条件と結果から、すぐに止めた。
「条件に合う履歴が一つあっただけだ。」
「はい。」
同じ人かもしれない。
けれど。
名前はない。
姿も見えない。
残っているのは、通った跡だけだった。
【関連する音声断片を検出】
【破損率:高】
【再生しますか?】
「音声があります。」
レインが読み上げる。
「誰の声かは?」
「表示されてません。」
ガレスは少し考えた。
「記録の準備をしろ。」
三人が帳面を開く。
聞こえたままを書く。
聞こえない部分を、想像で埋めない。
「再生します。」
レインが表示へ触れた。
雑音が響く。
風。
何かを置く音。
その奥から。
知らない人の声が聞こえた。
『傷が深い。せめて、塞がるまで――』
音が途切れる。
次に聞こえたのは。
低い男の声だった。
『時間がない。』
レインの背中が強張る。
禁書庫で聞いた。
百年前の勇者の声。
雪原の黒衣の男に似た声。
今の声も。
よく似ていた。
『名を、記録に……』
最初の声。
その問いへ。
男は、短く答えた。
『もう、その名では戻れない。』
雑音が大きくなる。
『北へ行く。あれを――』
そこで。
音声は切れた。
【再生終了】
誰も、すぐには話さなかった。
レインは聞こえた言葉を、そのまま帳面へ書く。
名前を失った、とは言っていない。
名乗る名がない、とも。
ただ。
『その名では戻れない。』
戻れない場所が、どこなのか。
なぜ北へ向かったのか。
続きは失われている。
「声は。」
ガレスが尋ねた。
「禁書庫の音声と似ています。」
レインは答える。
「同じ人物だとは、まだ言えません。」
「それでいい。」
セレスは、北へ伸びる履歴を見るように。
何もない森の奥へ顔を向けた。
「この人は。」
「何かを止めに行ったのでしょうか。」
「『あれ』が何か分からん。」
ガレスが言う。
「止めるとも、倒すとも聞こえていない。」
「今あるのは、北へ行ったという記録だけだ。」
レインは青い線を見る。
救護所から北へ。
百年前の足取りは。
今度こそ、一本につながっていた。
【次の記録地点を検出】
【距離:算出不能】
【経路情報を更新します】
青い線の先が。
さらに深い森へ向かって伸びた。




