第二十五話 口伝
「名前を書いてはならない……?」
レインは聞き返した。
司書は静かに頷く。
「それが、禁書庫を管理する者へ伝えられてきた言葉です。」
「なぜですか?」
「分かりません。」
迷いのない答えだった。
「私も意味を教えられてはいません。」
「では、誰から?」
「先代の司書です。」
「その人は、誰から聞いたんですか?」
「さらに前の管理者から。」
「いつから伝わっているんです?」
「それも分かりません。」
レインは言葉を失った。
何も分からない。
ただ一つの言葉だけが、
理由もなく受け継がれてきた。
「記録はないのですか?」
学院長が尋ねる。
「ありません。」
「一度も?」
「私が調べた限りでは。」
司書は杖を握り直す。
「むしろ。」
「この言葉を記録へ残すこと自体が、禁じられていました。」
「それも口伝か。」
ガレスの問いに、
司書は頷いた。
「はい。」
図書館の奥へ沈黙が落ちる。
記録してはいけない言葉。
名前を書いてはいけない本。
そして、
禁書庫の中にあった。
名前を忘れるなという記録。
「反対に見えます。」
レインは言った。
「名前を忘れるな。」
「でも、名前を書くな。」
「どちらを信じればいいんですか?」
誰も答えなかった。
答えられる者は、
この場にはいない。
その時。
――ゴゴゴゴゴ……。
地下から重い音が響いた。
「何だ!」
ガレスが剣の柄へ手を掛ける。
レインは階段を見る。
青白い結界の向こう。
暗闇の奥で、
何かが動いている。
【第二区画への経路を閉鎖します】
クロニクルの表示。
「通路が閉じます。」
「見えるのか?」
「文字が出ています。」
「他には?」
表示を待つ。
【未確認の記録を保存しました】
【閲覧履歴を更新】
【第二区画】
【一部閲覧】
「記録を保存したって。」
「何の記録だ?」
「たぶん、さっき読んだ本です。」
「その文字は、今も見えているのですか?」
学院長が尋ねる。
「はい。」
「内容は?」
「第二区画を一部閲覧した、と。」
学院長は考え込む。
「一部。」
「まだ先があるということでしょうか。」
「分かりません。」
けれど。
レインには、そう思えた。
あの小さな部屋で終わりではない。
黒い本にも。
名のない記録にも。
まだ続きがある。
◇
しばらくして、
禁書庫の扉は閉じられた。
正確には、
閉じたのは扉自身だった。
レインたちが離れると、
魔法陣の光が消え。
巨大な石の扉が、ゆっくりと元の位置へ戻った。
司書は最後まで、その扉を見つめていた。
「司書さん。」
レインが声を掛ける。
「はい。」
「あの言葉を聞いたのは、いつですか?」
「私が、この図書館の管理を任された日です。」
「先代の司書は、他に何か言ってませんでした?」
司書は目を閉じる。
古い記憶を探すように、
「一つだけ。」
「何ですか?」
「もし禁書庫が自ら扉を開く日が来たら。」
一度。
言葉を止める。
「その言葉を、扉に選ばれた者へ伝えなさいと。」
レインは息を呑んだ。
「俺に?」
「あなたであるとは言われていません。」
「ですが。」
司書はレインを真っ直ぐ見る。
「百年以上開かなかった扉を、あなたは開いた。」
「ならば。」
「伝える相手は、あなたなのでしょう。」
選ばれた者。
以前なら、
その言葉に胸が高鳴ったかもしれない。
特別な力。
特別な役割。
けれど今は、
黒い本の言葉が浮かぶ。
『書かれた役割だけを、信じるな。』
「選ばれたって。」
レインは小さく呟く。
「何に選ばれたんだろう。」
司書は答えなかった。
学院長も。
ガレスも。
ただ。
閉ざされた扉だけが、
何も語らず、そこにあった。
◇
図書館を出ると、
外はすっかり夕暮れになっていた。
空が赤い。
時計塔の影が長く伸びている。
「今日は寮へ戻れ。」
ガレスが言う。
「でも、トーマたちが訓練場で。」
「戻れ。」
「少しくらいなら。」
「戻れ。」
「……はい。」
これ以上言っても無駄だ。
レインは諦めて歩き出す。
その背中へ、
「レイン。」
ガレスの声。
振り返る。
「今日は、よく話した。」
「え?」
「見たものを隠さなかった。」
「約束したので。」
「そうか。」
ガレスはそれだけ言うと、
学院長たちの方へ戻っていった。
褒められたのか。
レインには分からない。
けれど。
少しだけ胸が軽くなった。
◇
「レイン!」
訓練場の近くを通りかかった時。
聞き慣れた声が飛んできた。
トーマだった。
木剣を肩へ担いで走ってくる。
その後ろにはセレスもいた。
「遅い!」
「ごめん。」
「もう自主練、終わったぞ。」
「先生に寮へ戻れって言われた。」
「また何かあったのか?」
トーマが顔を覗き込む。
「怪我は?」
「ないよ。」
「倒れてない?」
「倒れてない。」
「変なもの触ってない?」
「なんでガレス先生と同じこと聞くんだよ。」
思わず笑ってしまう。
トーマも安心したように笑った。
けれど。
セレスは何も言わない。
静かに、
レインを見つめている。
約束。
話せるようになったら、話す。
図書館へ入る前。
今度は、ちゃんと話すと言った。
「セレス。」
「はい。」
「少しだけ、話してもいい?」
彼女は驚いたように目を見開く。
そして、
「もちろんです。」
柔らかく微笑んだ。
◇
三人は中庭のベンチへ座った。
周囲には、もうほとんど生徒はいない。
訓練場から聞こえていた木剣の音も止んでいた。
「全部は話せない。」
レインは最初にそう言った。
学院長から口止めされている。
禁書庫のことも。
日本語のことも。
今はまだ話せない。
「先生たちとの約束があるから。」
「分かりました。」
セレスは静かに頷く。
トーマも口を挟まず待っていた。
「でも。」
レインは続ける。
「最近、俺にだけ見える文字がある。」
二人の表情が変わった。
「文字?」
トーマが聞き返す。
「うん。」
「どこに?」
「目の前に。」
「今も?」
「今は出てない。」
「それ、大丈夫なのか?」
「分からない。」
正直に答える。
「分からないことばかりなんだ。」
「何が見えてるのか。」
「どうして俺だけなのか。」
「それが危険なのかも。」
「まだ分からない。」
トーマは難しい顔をしている。
当然だ。
急にこんなことを言われても、
信じられないかもしれない。
「ごめん。」
レインは俯く。
「これ以上は、まだ。」
「レインさん。」
セレスの声。
顔を上げる。
「話してくれて、ありがとうございます。」
「……信じるの?」
「はい。」
迷いのない答えだった。
「どうして?」
セレスは少し考える。
「私にも。」
言いかけて、
止まった。
「セレス?」
「いえ。」
彼女は小さく首を横へ振る。
「今は、うまく言えません。」
その言葉に、
レインは何も聞けなくなった。
自分と同じだった。
分からないものを、
無理に説明することはできない。
「話せるようになったら。」
レインは言う。
「教えて。」
セレスは少し驚いたあと、
ゆっくり頷いた。
「約束します。」
その瞬間。
胸の奥で、
小さく何かが揺れた。
また。
同じ約束。
けれど今度は、
以前とは少し違う。
片方だけが待つのではない。
二人とも。
話せる時を待つ約束だった。
「それで。」
トーマが腕を組む。
「俺にも何か約束させるのか?」
「え?」
「二人だけずるいだろ。」
真剣な顔で言うから、
レインとセレスは顔を見合わせた。
そして、
同時に笑った。
「じゃあ。」
レインは言う。
「何かあったら助けて。」
「任せろ。」
トーマは胸を張る。
「絶対に助ける。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
――ゴォォォォォン。
頭の奥で鐘が鳴る。
景色が揺れた。
雪。
崩れた大地。
血に濡れた剣。
そして、
トーマの声。
『絶対に助けろ!』
「っ……!」
レインは額を押さえた。
「レイン?」
目の前には、
心配そうな二人の顔。
「大丈夫。」
ゆっくり息を吐く。
「少し、思い出しただけ。」
「何を?」
「分からない。」
また。
分からない。
でも。
今度は一人ではなかった。
「帰ろう。」
レインは立ち上がる。
「今日は、もう休む。」
「最初からそうしろ。」
トーマが呆れたように笑う。
三人は並んで歩き出した。
夕暮れの中。
時計塔の鐘が鳴る。
今度は、
誰にでも聞こえる、本物の鐘だった。
◇
その夜。
レインは机へ向かっていた。
目の前には白い紙。
羽ペン。
けれど。
何も書いていない。
「名前を書くな……か。」
禁書庫の口伝。
書かれた役割だけを信じるな。
黒い本の記録。
どちらも。
名前と記録に関係している。
「クロニクル。」
『はい。』
「検索。」
【検索対象を指定してください】
レインは少し迷ってから、
言葉を選んだ。
「名前を書いてはならない。」
【検索中……】
長い沈黙。
【完全一致する記録はありません】
「……ない?」
口伝だから、
記録には残っていない。
司書の言葉と同じだった。
だが、
表示は続く。
【関連する欠損を検出】
「欠損?」
【記録媒体:書籍】
【現在位置:学院長室】
レインは目を見開いた。
学院長室。
そこにある。
一枚だけ頁が切り取られた。
学院創設時の記録。
「あの本……。」
青い文字が切り替わる。
【欠損記録を照合しますか?】
レインは、
しばらく、その言葉を見つめていた。




