第二十話 記録
ゴゴゴゴゴ……。
最後の重い音が止まった。
禁書庫の扉は、完全に開いていた。
冷たい空気が、地下からゆっくりと流れ出してくる。
レインは暗闇の奥を見つめた。
石造りの階段。
その先は見えない。
ただ。
胸の奥では、クロニクルが静かに反応していた。
『接続を確認しました。』
『アクセス可能領域を検出。』
レインにしか聞こえない声。
「……本当に、この中にあるんだ」
「何がだ?」
ガレスの声に、レインははっとする。
「いえ……」
思わず口に出していたらしい。
ガレスは訝しげにレインを見たが、それ以上は聞かなかった。
「私が先に行く」
剣の柄に手を添え、階段へ足を踏み出そうとする。
その瞬間だった。
――バチッ!
「っ!」
青白い光が弾けた。
ガレスの身体が後ろへ押し戻される。
「ガレス!」
学院長が駆け寄った。
「大丈夫です」
ガレスはすぐに体勢を立て直す。
怪我はない。
だが、
階段の入口には、薄い青色の膜のようなものが浮かんでいた。
「結界……?」
司書が呟く。
ガレスがもう一度手を伸ばす。
バチッ。
やはり弾かれる。
「扉は開いたのに……」
レインは青い膜を見つめた。
その時。
視界へ文字が浮かぶ。
【ACCESS RESTRICTED】
【AUTHORIZED USER ONLY】
「……許可された人だけ」
「何?」
学院長がレインを見る。
「あ……」
また口に出してしまった。
「レイン君」
学院長の目が細くなる。
「何か分かるのですか?」
「……分かるというか」
レインは迷った。
クロニクルのことを話すべきなのか。
桐谷玲の記憶。
この世界には存在しない文字。
自分にしか見えない画面。
どう説明しても信じてもらえるとは思えない。
「この光……」
レインは結界を指差した。
「俺なら通れるような気がします」
「なぜだ?」
ガレスがすぐに聞き返す。
「分かりません」
それだけは本当だった。
「でも」
扉を見つめる。
「たぶん、俺を待ってる」
沈黙が落ちた。
「駄目です」
ガレスが即答する。
「中に何があるか分からない」
「ですが」
「駄目だ」
いつも以上に強い口調だった。
「教師として、生徒一人を未知の場所へ行かせることはできない」
当然だった。
レインも反論できない。
その時。
「では、確認してみましょう」
学院長だった。
「学院長?」
「レイン君」
「はい」
「結界へ触れるだけです」
「中には入りません」
「……分かりました」
レインは階段へ近付く。
一歩。
二歩。
青い膜が目の前に迫る。
手を伸ばす。
「待て」
ガレスが低い声で言った。
「異変を感じたら、すぐに手を離せ」
「はい」
指先が触れた。
――コン。
光が広がる。
しかし。
ガレスの時とは違った。
弾かれない。
青い光がレインの指先から腕へ流れていく。
「……!」
司書が息を呑む。
やがて、
結界の中央へ、小さな穴が開いた。
人一人が通れるほどの大きさ。
『認証完了。』
『入室を許可します。』
レインは言葉を失った。
本当に、
自分だけを通そうとしている。
「……やはり」
学院長が小さく呟いた。
「この場所は、君を認識している」
「俺を……?」
学院長は答えなかった。
◇
結局。
レインが中へ入ることになった。
もちろん、すぐに決まったわけではない。
ガレスは最後まで反対した。
司書も危険だと言った。
だが、
結界はレイン以外を通さない。
そして、
百年以上開かなかった禁書庫が、レインを前に開いた。
学院長が条件を出した。
「階段を下りた先までです」
「危険を感じたら、すぐに戻ること」
「はい」
「そして」
学院長はレインを真っ直ぐ見つめる。
「何を見ても、触らないこと」
「……分かりました」
「本当に分かっているな?」
ガレスが念を押す。
「はい」
レインは苦笑した。
「絶対に触りません」
そう答え。
結界をくぐった。
何も起こらない。
「……入れた」
振り返る。
すぐそこに三人がいる。
それなのに、
青い膜一枚を隔てただけで、ひどく遠く感じた。
「行ってきます」
「ああ」
ガレスは険しい表情のまま頷いた。
「無茶はするな」
「はい」
レインは階段を下り始めた。
◇
一段。
二段。
三段。
足音だけが響く。
壁には古い魔石が埋め込まれている。
レインが近付くたび。
ふわっ。
一つずつ光が灯った。
「……自動照明みたいだ」
桐谷玲の記憶がなければ、そんな言葉は出てこなかっただろう。
階段は思ったより深い。
十段。
二十段。
三十段。
やがて、
広い空間へ出た。
「……ここが」
レインは息を呑んだ。
想像していた禁書庫とは違った。
本棚はある。
だが、
それ以上に目を引いたのは、
壁だった。
巨大な円形の部屋。
その壁一面へ、
無数の文字が刻まれている。
アルディア語。
古代文字。
見たことのない記号。
そして、
「……え?」
レインの足が止まった。
一番奥の壁。
そこだけ。
明らかに違う文字が刻まれていた。
この世界では、
誰にも読めないはずの文字。
けれど。
レインには読める。
「日本語……」
声が震えた。
ゆっくり近付く。
そこには、
一行だけ刻まれていた。
『これを読める者へ』
「……」
心臓が大きく脈打つ。
日本語。
間違いない。
桐谷玲がいた世界の文字。
「なんで……」
この世界に、
日本語がある?
誰が書いた?
いつ?
レインは無意識に手を伸ばしかける。
「……!」
学院長との約束を思い出し、止めた。
「触らない」
自分へ言い聞かせる。
その瞬間。
――コン。
クロニクルが起動した。
【記録媒体を検出】
「記録……?」
視界の文字が切り替わる。
【解析中……】
【言語:日本語】
【作成時期:不明】
【関連記録を検索】
レインは息を殺して待つ。
【該当記録:1件】
「……開ける?」
『閲覧可能です。』
初めてだった。
これまで、
何度検索しても、
重要そうな情報には必ず表示されていた。
【閲覧権限不足】
その文字が、
今回はない。
「表示して」
青白い光が広がる。
そして、
短い文章が浮かび上がった。
【記録番号:0001】
【認証者へ】
【この記録を読めるということは】
【また、百年が過ぎたということだろう】
「……また?」
レインの表情が変わる。
文章は続く。
【ならば】
【時間は、もう残されていない】
そこで、
記録は途切れた。
「え?」
次を表示しようとする。
【続きの記録が破損しています】
「そんな……」
レインは壁を見る。
百年。
また百年が過ぎた。
その言葉の意味。
考えようとした、その時だった。
部屋の奥で、
――カタン。
「!」
レインが振り返る。
誰もいない。
だが、
奥にある本棚から、
一冊の本が床へ落ちていた。
「……」
近付かない。
触るなと言われている。
それでも。
表紙だけは見えた。
古びた黒い本。
何も書かれていない。
なのに、
レインは知っている気がした。
クロニクルの中で見た本と、
よく似ている。
――コン。
【関連記録を検出】
「……また?」
【百年前/禁書庫/認証者】
レインの目が見開かれる。
十九話で検索したもの。
閲覧権限がなかった記録。
【閲覧条件を満たしました】
「……!」
心臓が跳ねる。
「表示して」
数秒の沈黙。
そして、
文字が現れた。
【前回認証日】
【世界暦〇〇年】
【認証者】
レインは息を止める。
名前が表示される。
しかし。
その部分だけ。
文字が崩れていた。
「読めない……」
【データ破損】
「またかよ……」
思わず呟く。
だが、
その下。
もう一行だけ残っていた。
【認証者属性】
【勇者】
「……勇者?」
その瞬間。
頭の奥で、
鐘が鳴った。
――ゴォォォォォン。
「っ!」
視界が揺れる。
雪原。
黒い外套。
剣。
二つの月。
そして、
誰かの声。
『名前を――』
「……!」
レインは頭を押さえる。
まただ。
名前。
千年前の勇者。
百年前の認証者。
そして、
自分。
「まさか……」
すべてが、
同じ何かへ繋がっている?
その時。
「レイン!」
遠くからガレスの声が聞こえた。
「聞こえるか!」
レインは我に返る。
「はい!」
「戻ってこい!」
「分かりました!」
もう一度だけ。
壁を見る。
『これを読める者へ』
誰が残したのか。
なぜ日本語なのか。
そして、
百年前。
ここへ入った勇者とは誰なのか。
答えはまだ分からない。
けれど。
一つだけ確かなことがあった。
この禁書庫は、
ただ古い本を閉じ込めるための場所ではない。
ここには、
世界そのものが忘れている何かが眠っている。
◇
レインが階段を上り始める。
その背後。
誰もいなくなった円形の部屋で、
床へ落ちていた黒い本が、
ひとりでに開いた。
――パラッ。
古びた頁。
その最初の一枚に、
日本語で、
一つだけ。
名前が書かれていた。
しかし。
それを読む者は、
まだ、誰もいなかった。




