第十二話 時計塔
春の陽射しが学院を優しく包んでいた。
朝の鐘が鳴ると、生徒たちは教室を飛び出し、それぞれの授業へ向かっていく。
レインも教室を出ようとした、その時だった。
「レイン。」
ガレスに呼び止められる。
「はい。」
「今日の午後、剣術の実技は中止だ。」
教室がざわつく。
「えっ?」
「なんで?」
ガレスは窓の外を見た。
「時計塔の修復が今日で終わる。」
「安全確認のため、訓練場の一部が使用できない。」
生徒たちは納得したように頷く。
「代わりに歴史資料館を見学する。」
「午後には学院長から話がある。」
学院長。
その名前を聞き、生徒たちは少し緊張した。
◇
昼食を終えた三人は、資料館へ向かうため中庭を歩いていた。
校庭では職人たちが時計塔の足場を外している。
「もう終わるんだな。」
トーマが見上げる。
「早かったな。」
レインも立ち止まり、時計塔を見つめた。
事故が起きた日から、まだ十日も経っていない。
あの日。
自分はどうして石造りの翼が落ちることを知っていたのか。
答えはまだ見つからない。
「レインさん。」
セレスが静かに声を掛ける。
「近くまで行ってみませんか。」
「え?」
「工事が終わる前に。」
レインは少し驚いた。
時計塔を避けると思っていたセレスから、その提案が出るとは思わなかった。
「行ってみる?」
「うん。」
三人は工事区域の手前まで歩いていく。
◇
修復された石造りの翼は、以前と変わらない姿へ戻っていた。
職人たちは最後の点検を行っている。
「これが落ちてきたんだよな……。」
トーマが小さく呟く。
見上げると、とても落下したとは思えないほど頑丈に見える。
「信じられない。」
「そうだね。」
レインも同じことを思っていた。
その時だった。
胸の奥がざわつく。
景色が一瞬だけ揺れた。
時計塔。
雪。
鐘。
崩れる石。
白い世界。
ほんの一瞬だけ、すべてが重なる。
「っ……!」
レインは思わず塔の壁へ手をついた。
「レイン!」
セレスが慌てて支える。
「またですか?」
「……平気。」
呼吸を整える。
今までとは違った。
景色ではなく、
音が聞こえた。
鐘。
誰かの叫び。
そして、
『まだ間に合う』
その一言だけが、はっきり聞こえた。
「どうした?」
トーマも心配そうに覗き込む。
「また夢みたいなの?」
レインは頷こうとして、止まる。
夢ではない。
今のは、
確かにここで聞こえた。
そう言いかけた時だった。
「君たち。」
穏やかな声が後ろから聞こえた。
三人が振り返る。
そこには、白髪交じりの初老の男性が立っていた。
落ち着いた紺色のローブ。
胸には学院の紋章。
優しい目をしている。
「工事が気になるかい?」
ガレスがすぐに一礼する。
「学院長。」
生徒たちも慌てて頭を下げた。
学院長は微笑みながら時計塔を見上げる。
「この塔は、学院よりも古い。」
「何百年もの間、この街を見守り続けてきた。」
ゆっくりと振り返る。
「だから皆にも、大切にしてほしい。」
その言葉は穏やかだった。
けれど。
レインには、その視線がほんの一瞬だけ自分へ向けられたように感じた。
まるで、
何かを確かめるように、
学院長は時計塔を見上げたまま、穏やかに微笑んだ。
「この塔は、不思議な建物でね。」
三人は静かに耳を傾ける。
「何度壊れても、そのたびに修復されてきた。」
「戦争でも。」
「地震でも。」
「嵐でも。」
学院長は塔の石壁へ優しく触れた。
「だから今も、ここに立っている。」
レインは修復された石の翼を見上げる。
あの日、自分がセレスを助けた場所。
今では傷一つ残っていない。
「人も同じなんだ。」
学院長はゆっくり振り返った。
「傷付いても。」
「失敗しても。」
「立ち上がれば、それは終わりではない。」
その言葉が、なぜか胸へ深く残る。
理由は分からない。
けれど。
昔、誰かにも同じことを言われた気がした。
「レイン?」
トーマの声で我に返る。
「ぼーっとしてるぞ。」
「ああ、ごめん。」
学院長は小さく笑う。
「時計塔を見ると、昔を思い出す者も多い。」
「思い出ですか?」
レインが尋ねる。
「そう。」
「入学式。」
「卒業式。」
「大切な約束。」
「別れ。」
学院長は少しだけ空を見上げた。
「人生には、忘れた方がいい思い出もある。」
「けれど。」
「忘れてはいけない思い出もある。」
その言葉を聞いた瞬間。
レインの胸が強く痛んだ。
思い出せない。
何を忘れているのか。
誰を忘れているのか。
それなのに、
絶対に忘れてはいけない何かがあることだけは分かった。
◇
「学院長。」
ガレスが近付いてくる。
「そろそろ資料館の準備が整いました。」
「ああ。」
学院長は頷く。
「では皆さん。」
「今日は学院の歴史を少しだけ知ってもらいましょう。」
三人は他の生徒たちと一緒に資料館へ向かう。
時計塔を離れる直前。
レインはもう一度だけ振り返った。
修復された石の翼。
高くそびえる時計塔。
その頂上。
ほんの一瞬だけ。
誰かが立っているように見えた。
黒い外套。
風に揺れる長い裾。
「……!」
瞬きをする。
もう誰もいない。
「どうした?」
トーマが振り返る。
「いや……。」
今度こそ見間違いだ。
そう思うことにした。
しかし胸の奥では、小さな鐘の音が鳴り続けていた。
◇
資料館の入口には、大きな石碑が建っていた。
学院創立から数百年。
歴代の学院長の名が刻まれている。
「すごいな。」
トーマが感心したように見上げる。
「こんなに昔からあるのか。」
レインも石碑へ近付く。
一人ずつ名前を眺めていく。
その時だった。
石碑の一番下。
風化して読めなくなった文字へ目が止まる。
他の生徒にはただの傷にしか見えない。
しかしレインだけは、一瞬だけそこに文字が浮かんだ気がした。
読めない。
あと少しで読めそうなのに、
次の瞬間には、ただのひび割れへ戻っていた。
「……今の。」
レインは石碑へ手を伸ばしかける。
「レインさん。」
セレスの声だった。
「行きましょう。」
その声で我に返る。
「ああ。」
手を引っ込める。
胸の違和感だけが、また一つ増えていた。
資料館の中は、ひんやりとした空気に包まれていた。
外の春の暖かさとはまるで違う。
高い天井。
古い石造りの壁。
学院の歴史を記した絵画や鎧、古い地図が静かに並んでいる。
「自由に見学して構わない。」
学院長が穏やかに言った。
「ただし、展示品には触れないように。」
生徒たちは思い思いに展示を見始める。
◇
「おぉ!」
トーマは古い甲冑の前で立ち止まった。
「これ、本当に使われてたのか?」
「実物らしいですよ。」
セレスが説明板を読む。
「二百年以上前の騎士団の鎧みたいです。」
「重そうだなぁ。」
トーマは腕を組みながら感心している。
レインは少し離れた場所で、一枚の大きな壁画へ目を向けた。
そこには、学院が建てられた当時の街が描かれている。
まだ時計塔も新しく、人々が笑顔で行き交っていた。
「綺麗だな……。」
思わず見入る。
その時だった。
壁画の時計塔だけが、一瞬白く霞んだ。
「……?」
目を擦る。
もう普通の壁画へ戻っていた。
気のせいだろうか。
◇
さらに奥へ進む。
古びた木製の展示ケース。
中には、何冊もの分厚い本が並んでいた。
説明板にはこう書かれている。
『学院創設期の記録(複製)』
レインは何気なくケースを覗き込む。
そこに開かれていた一冊。
文字は読めない。
古いアルディア語だ。
だが、そのページの端だけ。
ほんの一瞬だけ別の文字が浮かんだ気がした。
見たことがある。
なのに思い出せない。
「レイン?」
セレスが隣へ来る。
「何かありましたか?」
「いや……。」
レインは首を振る。
「今、文字が違って見えた気がして。」
「違う文字?」
「うん。」
もう一度見る。
やはり普通の古代文字しか書かれていない。
セレスも展示ケースを覗き込む。
「私には普通に見えます。」
「そうだよな。」
レインは苦笑するしかなかった。
◇
その頃。
少し離れた場所で、
学院長とガレスが小さな声で話していた。
「彼ですか。」
学院長が静かに尋ねる。
「ええ。」
ガレスは頷く。
「剣も魔法も、飲み込みが早すぎます。」
「ですが、それ以上に。」
一呼吸置く。
「何かを思い出しかけているように見えるのです。」
学院長はレインの背中を見つめる。
しばらく黙ったあと、小さく笑った。
「若者には、誰にでも悩みがあります。」
「焦る必要はありません。」
その返事は、どこまでも穏やかだった。
ガレスもそれ以上は何も言わない。
しかし胸の奥の違和感だけは消えなかった。
◇
見学を終えた生徒たちは、資料館を後にする。
外へ出ると、夕陽が時計塔を赤く照らしていた。
修復はすべて終わっている。
まるで、事故など最初からなかったかのようだった。
レインは最後にもう一度だけ時計塔を見上げる。
春風が吹き抜ける。
その風に混じって、
誰かの声が聞こえた気がした。
『……思い出せ。』
ほんの一瞬。
それだけだった。
「レイン!」
トーマに呼ばれ、我に返る。
「帰るぞ!」
「ああ!」
レインは時計塔から視線を外し、二人の後を追った。
その背中を、夕日に染まった時計塔は静かに見守っていた。




