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大正二十年、秋。
帝都の喧騒が嘘のような奥多摩の深い山中。
満月が煌々と照っている、しかし深い木々の葉と雲に遮られ、ここにはほとんど光を落とさない。
獣道を示す提灯の円い光だけが頼りなく揺れている。
空気は湿って重く、と獣の匂いが混じり合い鼻をついた。
その闇はまるで生きているかのように二人を包み込み前後左右から無数の冷たい視線が突き刺さるような錯覚を覚える。
風はないはずなのに木々の葉がざわざわと不気味に囁き合っていた。
空気が異常に重い。
いつもなら聞こえるはずの虫の声も獣の気配も今夜は全くしない。
まるで森全体が息を潜め何かの存在に怯えているかのようだった。
「ちくしょう、隣村での署名集めが長引いちまった」
健一が悪態をつく。
「もっと早く帰るつもりだったのに。だから言ったんだこの山道は夜に通るもんじゃねえって」
「うるせえな」
先を歩く正平が後ろを振り返らずに答える。
「こっちが一番の近道だろうが。それにあの人も言ってたじゃねえか『最近は山犬様もおとなしいから大丈夫だ』って」
「あの人の言うことなんざ、信用できるかよ」
健一が吐き捨てるように言った。
「こんな夜更けに山に入るなんて、村の禁忌破りだ。正気じゃねえ」
健一は言いながら無意識に首筋をさすった。
理由は分からないがさっきから悪寒が止まらない。
気のせいか腐ったような甘ったるいような奇妙な匂いが風に乗って漂ってくる。
そして、何よりも見られている。
闇の奥から無数の冷たい視線が突き刺さるような感覚が背中から離れない。
「待て、健一」
正平が、不意に立ち止まる。
「どうした!」
「今のハナの声じゃなかったか?」
正平の顔から血の気が引くのが揺れる提灯の灯りの中でも分かった。
まさかそんなはずはない。
ハナは村にいる。
なのに今聞こえた声は?
「馬鹿言えハナは村にいる!」
健一の脳裏に恋人であるハナの優しい笑顔が浮かぶ。
「いや確かに聞こえたんだ!」
正平は提灯の光が届かない、吸い込まれそうな闇の奥を狂気じみた目で見開いて睨みつける。
「『助けて、足が』って!」
「罠だ! 山犬様の仕業だ! 戻るぞ!」
健一が正平の腕を掴もうとする。
だが正平はそれを振り払い、闇に向かって駆けだしていた。
まるで何かに憑かれたように。
「ハナ! 無事か! 今行くぞ!」
「待て! 戻れ正平ッ!」
健一の叫びは木々に吸い込まれて消えた。
数秒の静寂。
まるで世界に一人だけ取り残されたような絶対的な孤独感。
「ギィィッアア―――!!」
それは人間の喉が引き裂かれる音だった。
獣の咆哮よりも高く、鋭く、耳の奥で反響する。
正平の声だ。
健一の全身の毛が逆立った。
「しょう、へい?」
答えはない。
ただ提灯の光が届かない森の奥で何かが生々しい咀嚼音を立てているような気がした。
理性が焼き切れる。
恐怖が全身を支配した。
健一は踵を返し来た道を夢中で逃げ出した。
心臓が喉から飛び出しそうだ。
ザザッ、ザザザッ!
音がする、真横だ。
健一が提灯を向けるが誰もいない。
提灯を持つ手が震え光が狂ったように踊る。
ザザザッ!
まただ、もっと近い。
地上からではない。
木々の上だ。
獣のものではない、もっと軽く、もっと速い音。
それが枝から枝へ飛び移り健一の逃げる速度と寸分違わず併走してくる。
遊んでいるのか? 弄んでいるのか?
恐怖に足がもつれ健一は木の根に足を取られて派手に転倒した。
提灯が手から滑り落ち数メートル先で止まる。
地面に叩きつけられた頬に湿った土と腐葉土の匂い。
口の中に泥が入る。
息が詰まる。
怪物が来る。
目の前の提灯の消えかけた炎の揺らめきだけがやけに鮮明に見えた。
その時声がした。
「健一! こっちだ! 早く!」
健一は顔を上げた。
「正平?」
声は真上からした。
ありえない。
人が登れるような高さではない。
健一が見上げる。
暗闇の中、高い木の枝と一体化した何かが逆さまにぶら下がりこちらを見ていた。
人の形をしているようで異様に手足が長い。
闇に目が慣れ、それが正平の声で笑っているのが分かった。
口が耳まで裂けている。
「あ……」
悲鳴を上げる間もなかった。
視界の端で何かが閃いたと思った瞬間凄まじい衝撃と共に体が宙に浮いた。
首の骨が嫌な音を立てる。
最後に見たのは逆さまの闇の中で爛々と光る飢えた獣の双眸だった。
ブツリと何かが千切れる音がして健一の意識は闇に落ちた。
ゴトリと。
持ち主を失った提灯だけが獣道に転がり、生温かい血だまりの中で消えかけた炎が虚しく揺れていた。
旧華族、佐伯家の事件から数日が過ぎた。 霧祓探偵事務所には秋の穏やかな昼下がりの陽光が差し込んでいる。
重厚な革張りのソファには祐市が腰を下ろし先の事件に関する警察への報告書に目を通していた。
その隣では蓮月が彼のために丁寧な手つきで紅茶を淹れている。
カップから立ち上るダージリンの香りが部屋に満ちていた。
蓮月はそっと紅茶のカップを祐市の前に置く。そして報告書を読む彼の真剣な横顔を深い信頼を込めた瞳で見つめた。
その時、玄関のベルが鳴り間もなくして使用人が千葉刑事を応接室へと案内してきた。
千葉はいつものように恐縮した様子で一礼するがその表情は硬く疲労の色が濃い。
「怪異、ですか?」
祐市が報告書から顔を上げ促す。
「その可能性があります。実は奥多摩の山村で」
千葉は持参した地図と数枚の陰鬱な風景写真をテーブルに広げた。
「通称山犬村と呼ばれる集落なのですがこの5ヶ月に5人の村人が行方不明になっているのです。1ヶ月に1人のペースで。」
「ただの家出や事故ではなさそうですね」
「ええ」
千葉は頷く。
「地元では山犬様の贄にされた。神隠しだと大騒ぎになっていまして。1人目は8月4日、9月2日に二人目、10月2日で三人、10月29日に二人行方不明で五人目」
蓮月が写真の一枚を指差す。
「失踪現場はすべて山の中ですね」
「はい。通常の捜査では手詰まりで、そうではないと信じたいですが人知を超えた何かが関わっている可能性も否定できません。霧祓様ののお知恵を拝借できないかと…」
千葉は深々と頭を下げた。
祐市は隣の蓮月と視線を交わす。
彼女は事件の深刻さを理解しつつ、兄と共に赴くことに異論はない、というように静かに頷いた。
「分かりました」
祐市は千葉に向き直る。
「その依頼、お受けします」
「ありがとうございます!」
千葉 の顔がぱっと明るくなる。
千葉 が安堵と若干の不安を残して帰っていくと応接室には再び二人きりの静けさが戻った。
「蓮月、準備をしようか」
「はい、兄さん」
二人は奥多摩への出張捜査の準備を始める。 祐市は執務室に置かれている桐の箱に納められた刀を確かめる。
蓮月は自室に戻り、調査に必要な道具一式と、数日分の着替えを手早く旅行鞄に詰めていく。 窓の外では、秋の陽が静かに傾き始めていた。




