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霧祓探偵事務所の怪異録  作者: aik
霧晴れて、春を歩く

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38/40

7-4

 落下。

 重力が消え感覚が狂う。

 祐市の体は底なしの闇の中を永遠とも思える時間落ち続けた。

 やがてドサリと鈍い音を立てて着地した。

 硬い地面ではない。

 ぬちゃりと足が沈む感触。

 鼻を突くのは、強烈な腐臭と、鉄錆のような血の匂い。

 祐市は咳き込みながらのろりと身を起こした。

 そこは光の一切ない漆黒の世界だった。

 だが目が慣れるにつれ異様な光景が浮かび上がってくる。

 足元に広がっているのはどこまでも続く黒い泥の海。

 ねっとりと絡みつくその泥はまるで意思を持った悪意のように祐市の足首を掴み引きずり込もうとしてくる。


「ここは」


 祐市が一歩踏み出すたび泥の中からグチュグチュと湿った音がする。

 その泥の海の上に毒々しいほど鮮やかな彼岸花が咲き乱れていた。

 暗闇の中でそれだけが血を吸ったように妖しく発光している。

 そしてもっとおぞましいものがあった。

 泥の表面や彼岸花の茎を這い回る無数の白い蠢き。

 蛆だ。

 それがこの世界を埋め尽くしている。

 祐市は吐き気を堪え泥の海を進んだ。

 (寒い)

 骨の髄まで凍りつくような死の冷気。

 だが足元の泥は生暖かくそれが余計に生理的な嫌悪感を煽る。

 (これが黄泉の世界)

 彼女は今たった一人でこの腐敗と暗闇の中にいるというのか。

 恐怖などない。

 あるのは彼女をこんな場所に置き去りにしようとした運命への怒りだけだ。

 祐市は泥を蹴り蛆を踏み潰して進む。

 やがて彼岸花の群生地の奥にひと際濃い闇が渦巻く場所が見えた。

 泥が盛り上がり玉座のような形を成している。

 そこに彼女はいた。

 祐市は息を呑んだ。

 そこに座っていたのはかつての可憐な少女ではなかった。

 半身が黒い泥に埋まり美しい着物はボロボロに朽ち果てている。

 白い肌には血管のように黒い紋様が走りその上を白い蛆が這っている。

 穢れ、腐敗、死。

 彼女はこの世の全ての汚れを引き受けたイザナミそのものに成り果てていた。

 彼女がゆっくりと顔を上げた。

 瞳から光が消え底なしの虚無がこちらを見ている。


「なぜ、来たのですか……」

「お願い、帰って」

「蓮月、迎えに来た。一緒に帰ろう」

「見えないんですか。この姿が。私はもう、貴方の知っている人間じゃない。災厄を呼ぶ化け物……」


 彼女は自らの体、泥に汚れ虫が這う己の姿を見せつけるように腕を広げた。


「神話の通り。イザナギは腐り果てた妻を見て逃げ出した。兄さんもそうして。お願いだからこれ以上見ないで……」


 それは拒絶であり同時に悲痛な懇願だった。

 彼女は祐市を傷つけたくない。

 幻滅されたくない。

 だから化け物のふりをして遠ざけようとしている。

 黒い泥が集まり巨大な槍となって祐市を狙う。

 殺気を含んだ攻撃。

 当たればただでは済まない。

 だが祐市は動かなかった。

 刀に手をかけることさえしなかった。

 泥の槍が祐市の頬をかすめ背後の闇を切り裂く。

 頬から一筋の血が流れ黒い泥の中に落ちる。


「なぜ避けないんですか! 死にたいの!?」

「死にたくはないさ」


 祐市は泥に足を取られながらも一歩ずつ玉座へと近づいていく。

 その目には憐憫も嫌悪も恐怖もなかった。


「帰って」

「蓮月、迎えに来た。一緒に帰ろう」

「帰る場所なんてない!」


 彼女が叫ぶと周囲の泥が波打ち、彼岸花がざわめいた。


「分からないんですか! 私がいる限り災いは終わらない! 私が生きているだけで黄泉の扉は開き続けて怪異が溢れ出すのよ! そしてその怪異を、兄さん達の元に引き寄せるのは、私……!」


 彼女は自らの胸を掻きむしるように叫んだ。


「兄さんも見たでしょう。父様たちが傷つくのを、私がいるせいでみんなが血を流すのを。私の存在がみんなを不幸にする呪いなのよ」


 彼女は祐市を拒絶している。

 愛しているからこそ近づけたくないのだ。


「お願いだから消えて。私のせいで誰かが傷つくのはいや。私がここで消えれば、全て丸く収まるの」


 それでも祐市は止まらなかった。  

 泥に足を取られながらも玉座へと近づいていく。


「それがどうした」


 祐市の声は静かだった。

 だがそこには揺るぎない熱が宿っていた。


「お前が怪異を呼ぶなら、呼べばいい」

  「なっ……」

「門が開くなら、開けばいい。そんなことのためにお前が消える必要なんてない」


 祐市は泥の海を踏みしめた。

 その一歩一歩に魂の底からの叫びを込める。


「いくら怪異が現れようと、俺が全て祓う!」


 空間が震えた。  


「何十年でも、お前の隣でずっと俺が戦い続ける」

「無理よ! そんなことできるわけない! いつか限界が来て、誰かが死んでしまうわ!」

  「ああ、そうかもしれない」


 祐市は否定しなかった。

 綺麗事では済まない。

 戦い続ければいつか取りこぼす命があるかもしれない。  

 それでも。


「たとえ失ってしまったとしても、それ以上の命を救い続ける!」


 祐市は叫んだ。  

 安全な世界で一人泣く彼女を見捨てるくらいなら修羅の道を行く。  

 泥にまみれ、血を流し、それでも二人で生きていく。


「俺たちが生きることで救える命がある! 俺と蓮月だから守れる未来がある!」

「兄、さん……」

「だから! お前の居場所は黄泉じゃない! 俺の隣だ!」


 ドクンッ、祐市の心臓が脈打つと同時に周囲の闇が弾け飛んだ。  

 イザナギの器としての覚醒。  

 それは妻を殺すための力ではない。  

 妻が背負った呪いも、業も、泥も、その全てを受け止めるための包容の力。

 蓮月を縛り付けていた黒い泥が、祐市の光を浴びて蒸発していく。

 祐市は呆然とする蓮月の目の前までたどり着いた。  

 そして泥だらけの手を彼女へと差し伸べた。


「帰ろう、蓮月。俺たちの家に」


 それは神話のイザナギが成し得なかった選択。  逃げるのでもなく倒すのでもなく。  

 ただあるがままの彼女を愛し抜くという最強の誓いだった。

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