7-3
「蓮月っ!」
祐市の絶叫が無人の祭壇に虚しく響き渡った。
遅かった。
伸ばした指先は空を切り彼女の姿は深い闇の底へと消えてしまった。
祭壇の中央にぽっかりと開いた大穴。
そこから吹き上げてくるのは肌を刺すような冷気と死の匂いを含んだ瘴気だけ。
「くそっ! くそぉぉぉッ!」
祐市は祭壇の縁に拳を叩きつけた。
守ると誓ったのに。
必ず連れて帰ると父や祖父に約束したのに。
また失ったのか。
自分の無力さが五臓六腑を食い破るように暴れ回る。
その時だった。
鉛色の空が割れ一条の光が祭壇へと降り注いだ。
吹雪が一瞬で止む。
黄泉の瘴気すらも払う圧倒的で神々しい威圧感。
光の中から白装束を纏った人影、いや人の形をした何かが音もなく舞い降りた。
それは無機質な仮面をつけ背には陽炎のような光の翼を背負っていた。
人間ではない。
怪異でもない。
この国の理を管理する者。
「嘆くことはない人の子よ」
その声には感情の色が一切なかった。
慈悲深く聞こえるがその実蟻の死を眺めるような冷徹さが潜んでいる。
「これは定められた神話だ。歯車は正しく回ったのだから」
「どういうことだ?」
祐市はふらりと立ち上がり光の使者を睨みつけた。
「お前たちは何だ。蓮月をあいつをどうするつもりだ」
「私は天津神の使い。彼女は本来あるべき場所へ還っただけだ。黄泉の封印は今、解けかかっている。彼女こそがその門を開く最後の鍵だったのだ」
使者は淡々と残酷な真実を告げた。
「あの娘はイザナミの器として覚醒しつつある。黄泉の穢れを受け入れ死を統べる女神となる定めの器」
「イザナミの、器?」
「そうだ。そしてお前は」
使者が祐市を指差す。
「イザナギの器だ」
祐市の思考が凍りついた。
イザナギとイザナミ。
日本神話における国産みの夫婦神。
そして死に別れ黄泉の国で永遠に決別した悲劇の二人。
「我々の目的は神話の再演による世界の修正だ。黄泉の門を閉じるには古き盟約を更新せねばならん」
使者は虚空から眩い光を放つ一振りの神剣を取り出し祐市の足元へ放り投げた。
カランと乾いた音が響く。
「行け、イザナギよ。黄泉へ降り穢れたイザナミを討て。彼女を殺しその魂を黄泉に封印することで門は永遠に閉ざされる。それがお前に課せられた崇高な使命だ」
祐市は足元の神剣を見下ろした。
その剣は恐ろしいほど美しく冷たい輝きを放っていた。
震える手で柄を握る。
掌に吸い付くような感触。
祓魔師としての本能が告げている。
この剣を使えばどんな怪異も一撃で葬れると。
これを振るえば終わる。
黄泉の門は閉じ怪異は消える。
母さんのような犠牲者は二度と出ない。
父も祖父ももう血を流さなくて済む。
理屈ではこの剣を取らない理由などない。
ただ蓮月一人を犠牲にするだけで。
それはあまりにも合理的で正しい選択に見えた。
祐市の中で何かが弾ける音がした。
彼は神剣を拾い上げた。
「なるほど。これを使い蓮月を殺せば黄泉の門は閉まり、怪異も現れなくなる」
「そうだ。私情を捨てよ。世界のための犠牲だ」
(一人を殺して、世界を救う)
祓魔師としてそれは正しい。
(俺の役目は怪異を祓うことだ)
霧祓家の次期当主としてそれは正しい。
(蓮月はイザナミの器として覚醒しつつある、つまり怪異として覚醒する可能性が高い)
なら。
(殺すべきだ)
(蓮月ひとり、犠牲にするだけで)
天津神の言葉が喉でひっかかる。
犠牲、たった三文字。
けれどその重さが祐市の心臓を締め上げる。
剣を握る手がずるりと汗ばむ。
祐市は目を閉じた。
(蓮月は俺が守ると誓った)
あの日、震えていた少女の手を取った。
そして生涯の伴侶として共に生きることを決めた。
何よりも大切な人を自分で斬れというのか。
(俺は蓮月を殺せるのか?)
問いかけた瞬間、胸の奥がビキと音を立てて割れた。
吐き気のような恐怖が込み上げる。
理性が言う。
(たったひとりを殺せばすべてが丸く収まる)
祐市は考えてしまう。
(もし母が生きていたら)
(もし黄泉の門が閉じていれば、母は死ななかった)
次々と記憶が蘇る。
今まで自分が見てきた無数の犠牲者たち。
すべて怪異のせいだ。
(これを終わらせられるなら……)
しかし感情が叫ぶ。
(……できるわけが、ない)
脳と心が互いに反発し火花を散らす。
祐市は頭を押さえた。
視界が揺れる。
自分の呼吸が荒く乱れる。
天津神の使者は淡々と言う。
「迷うな人の子よ。お前の役目は世界を救うことだ。一人の命と世界の命。天秤にかけるまでもない。私情を捨てよ。世界のための正しい選択だ」
(正しい?)
胸の底で何かが黒く燃え上がる。
祐市は歯を噛み締めた。
冷たい風が頬を刺す。
しかし胸の中は灼けるように熱かった。
祐市は神剣を持ち上げた。
その刃が光を反射する。
美しい。
恐ろしいほどに美しい。
(これを使えば……)
祐市の思考が最終局面に達する。
(蓮月を、殺せば……)
そしてふらつく視界の中に蓮月の笑う顔がよぎる。
祐市の脳裏に別の記憶が押し寄せた。
12年前、蔵から蓮月を連れ出した日。
家族になった日。
7年前、魂同調で蓮月が自分を救った日。
2年前、初めて喧嘩という喧嘩をした、そして対等な相棒として共闘した日。
そして許嫁の誓いを立てた日。
祐市の中で何かが弾ける音がした。
それは理性の糸が切れる音ではない。
それは迷いが吹き飛ぶ音だった。
祐市は気づいた。
『兄さん』
「分かった」
使者が満足げに頷いたその瞬間。
祐市は神剣を力任せに谷底へと放り投げた。
剣が回転しながら落下する。
光が尾を引く。
そして雪の中に消えた。
「なっ! 貴様正気か!?」
使者の声に初めて動揺が混じる。
「ふざけるな」
低い地を這うような声。
祐市は黄泉の穴の縁に立った。
その瞳には神をも恐れぬ狂気にも似た強烈な意志の炎が燃えていた。
「俺の役目は神殺しじゃない。家族を迎えにいくことだ」
神話ではイザナギは黄泉のイザナミを見て恐れおののき逃げ出した。
そして大岩で出口を塞ぎ妻を拒絶した。
だがそれが神の定めた正しい結末ならば。
「俺は逃げない。そして拒絶もしない」
その声は確信に満ちていた。
「確かに蓮月を殺せば世界は救われるのかもしれない」
祐市は認めた。
その声は冷静だった。
「怪異は消え、犠牲者も出ない。それは、正しい選択なのかもしれない。でも、俺は」
祐市の声が変わった。
「そんな世界で生きていけない。蓮月のいない世界なんて認めない」
祐市は躊躇なく闇の中へと身を躍らせた。
「待て!」
使者の制止も吹き荒れる吹雪も彼を止めることはできなかった。
祐市の体は重力に従い蓮月が消えたのと同じ闇へと吸い込まれていく。
世界か彼女か。
そんな天秤は最初から壊れている。
たとえ世界中を敵に回しても祐市は蓮月の味方だ。
(神が決めた運命など知ったことか。俺が選ぶ結末は一つだけだ。待ってろ、蓮月。必ず連れて帰る)
二人の魂が黄泉の世界で巡り合いを果たそうとしていた。
神話の結末を拒絶するために。




