7‐2
山頂付近。
視界が開けたその場所には禍々しい結界に覆われた巨大な祭壇が鎮座していた。
その祭壇へと続く一本道にあの仮面の男、黒い装束の怪異がたった一人で待ち構えていた。
雪山を吹き抜ける暴風の中男は微動だにせず三人の到着を見下ろしている。
宗顕が足を止めギリリと奥歯を噛み締めた。
十九年前、愛する妻が殺されたあの日、現場に残っていた穢れた気配。
それが今、目の前の男から濃厚に漂っている。
「貴様、何者だ。何が目的だ」
宗顕が腹の底から絞り出すような声で問うた。
「答えろ」
「名は黒雷。我らの悲願はただ一つ。あの女を鍵として黄泉の門を再び開くことにある」
「門だと?」
「世界をあるべき姿に戻すのだ。生と死の境界なき混沌たる神代の闇へとな」
男が両手を掲げると地鳴りが響いた。
雪原の雪が隆起しそこから無数の異形たちが這い出してくる。
その数、数百。
黄泉の瘴気によって泥人形のように形成された死者の軍勢。
それらが雪原を黒く埋め尽くし三人の前へ壁となって立ちはだかった。
圧倒的な絶望。
真正面からぶつかればいくら宗顕たちでも時間がかかり数で押しつぶされる。
そして祐市は感じていた。
祭壇の奥から伝わってくる蓮月の気配が急速に薄れ始めている。
彼女が彼女でなくなってしまう。
(時間がない)
宗顕が不意に刀を構え直した。
「先代」
「ああ、分かっておる」
二人は視線を交わし短く頷き合った。
「行け、祐市。ここは私と祖父が引き受ける。お前は先に行け」
「なっ、無茶です! こんな数、二人だけじゃ!」
「数など関係ない」
「私たちがここで奴らを食い止める間に、お前が連れて帰るんだ!」
「ですが!」
「迷うな!」
宗顕が振り返り、笑った。
それは妻の仇を前にした修羅の顔ではなく息子を案じる父親の優しく力強い笑顔だった。
「必ず、戻ります!」
祐市は駆けた。
宗顕と源蔵が左右に展開し放った最大級の衝撃波が怪異の群れに一本の道を作った。
祐市はその道をただ前だけを見て疾走する。
仮面の男が面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「追え」
怪異たちが祐市に殺到しようとする。
だがその前に二人の鬼神が立ちはだかった。
「十九年分の借りを返してやる」
背後で凄まじい爆音と閃光が弾けるのを肌で感じながら祐市は単身山頂の結界の中へと飛び込んだ。
一方山頂の祭壇。
結界の内部に囚われた蓮月は薄れゆく意識の中でその激闘の音を聞いていた。
見えなくても分かる。
父様の霊圧がお祖父様の霊圧が命を燃やして戦っているのが分かる。
そしてそれが徐々に、確実に削られていくのも。
衝撃が地面を伝うたび蓮月の胸が張り裂けそうになる。
(二人が傷ついている。血を流している。私のせいだ)
自分のせいで愛する家族が傷いていく。
(敵の目的は私、私がいる限りみんなが不幸になる)
(でも私は何もできない)
その言葉が心を蝕む。
(ただ待つことしかできない)
無力感が全身を支配する。
(私は、弱い)
記憶がフラッシュバックする。
十二年前、あの村で兄さんを危険に巻き込んだあの日。
二年前、鏡の怪異が屋敷を襲った夜。
そして今日。
いつも災いは私を中心に起こる。
私が怪異を引き寄せ、私がみんなを傷つける。
(もし、今日助かったとしても)
冷たい絶望が蓮月の心臓を鷲掴みにした。
(明日また別の敵が来るかもしれない。来年も再来年も。私が怪異を引き寄せる体質である限り戦いは永遠に終わらない)
想像してしまった。
今は無敵に見える父様達たちがいつか倒れる姿を。
そして誰より大切な兄さんが私を庇って冷たい骸になる未来を。
(そんなの、耐えられない……)
私の存在そのものが愛する人たちにとっての呪いなのだ。
未来がまるで見えてしまったかのように感じた。
恐怖ではなく確信だった。
仮面の男の言葉が蘇る。
『あの女を鍵として黄泉の門を再び開くことにある。世界をあるべき姿に戻す』
(もし門が開いたら黄泉の怪異たちが溢れ出てくるかもしれない。私が鍵……?私が消えれば、みんな助かるの? なら鍵なんてなくなれば……)
この身が黄泉の門を開くためのものなら自身が黄泉へ消えてしまえばもう誰も扉を開けられない蓮月はそう考えた。
(兄さんが傷つくこともない。父様たちが血を流すこともない。それが私にできる唯一の大切な人を守る方法)
その時黄泉の穴が囁いた。
胸の奥を撫でるような優しい声。
『おいで』
『ここがお前の居場所だ』
『ここなら、誰も傷つけない』
『お前がいる限り、争いは続く』
『だが、ここに来ればすべて終わる』
蓮月はその囁きに抗えなかった。
(そうだ、そこに行けば……)
論理ではない。
絶望が彼女を支配した。
正常な判断力が失われていく。
「私の居場所はここ、常世じゃない」
彼女の魂の器が反転し底なしの闇を受け入れた。
祭壇の床が割れどす黒い黄泉の穴が口を開ける。
蓮月の体は重力を失い自らその闇の中へと沈んでいった。
(さようなら、兄さん。叶うのなら平和な世界で貴方とずっと……)
涙を一筋だけ落とし蓮月は闇へと身を委ねた。
祐市が祭壇にたどり着いたのは彼女の白い指先が完全に闇に飲み込まれたその直後だった。




