7‐1
大正二十年、冬。
帝都の空は朝から重苦しい鉛色に閉ざされていた。
牡丹雪が音もなく舞い落ち煉瓦造りの街並みを薄化粧していく。
吐く息も凍るような寒さの中霧祓祐市と蓮月は二人並んで銀座の石畳を歩いていた。
数日前郊外の雑木林で母の仇の痕跡を発見してからというもの霧祓邸には張り詰めた空気が漂っていた。
十九年の時を経て敵が動き出したことは間違いない。
だが肝心の居場所が掴めない。
宗顕と源蔵は書斎に篭りきりで古文書や霊脈図と睨めっこを続けている。
滞った空気を変えるためそして消耗品の買い出しも兼ねて二人は久しぶりに街へと出てきたのだった。
「寒くないか?」
祐市が隣を歩く蓮月を気遣って声をかける。
蓮月は祐市から貰った厚手の外套に顔を埋めながらふわりと微笑んだ。
「いいえ。兄さんと一緒なら寒くないです」
そのあどけない笑顔に愛おしさを覚える。
十二年前あの蔵から連れ出した少女はこんなにも愛らしくそして芯の強い女性になった。
「あら?」
ふと蓮月が足を止めた。
彼女は自分の左手の薬指を右手でそっと包み込んでいた。
手袋の下には目を凝らさなければ分からないほど薄い一本の白い線が残っている。
かつて死にかけた祐市を救うために蓮月が行った禁術魂同調の痕だ。
肉体的な傷はとうに癒えている。
だが魂を混ぜ合わせたあの日以来二人の間には目に見えない繋がりができていた。
「どうした?」
「いえ」
蓮月は不思議そうに小首を傾げ胸元を押さえた。
「なんだかざわざわするんです」
「蓮月」
祐市は反射的に蓮月の肩を引き寄せ周囲を油断なく見回した。
雪は静かに降り続いている。
行き交う人々は寒そうに背を丸めて歩いているだけだ。
何も変わらない冬の日常。
だが次の瞬間。
世界から音が消えた。
風の音も人々の話し声も雪が落ちる音さえも。
すべてが唐突に遮断された。
完全な静寂。
帝都の華やかな街並みが色褪せたセピア色の風景へと切り替わる。
「下がれ、蓮月!」
祐市が蓮月を背にかばい鯉口を切るのと同時だった。
二人の目の前で空間がガラスのようにひび割れどす黒い裂け目が口を開けた。
そこからぬらりと姿を現したのは黒い装束に身を包み能面のような白い仮面をつけた男。
その背後から底知れぬ瘴気と腐臭が溢れ出している。
十九年前、母を殺した黒い雷。
「見つけたぞ」
男の仮面の奥から耳ではなく脳に直接響くような重低音が響く。
その視線は祐市を一瞥すらせず蓮月の方を向いていた。
「させるかっ」
祐市が動いた。
迷いはない。
踏み込みと同時に抜刀。
居合いが男の首を薙ぐ。
硬質な音が響いた。
男は避けることすらせず手甲を纏った指先だけで祐市の刃を受け止めていた。
「何っ!?」
「遅い」
男が腕を振るう。
ただそれだけの動作が暴風となって祐市を襲う。
だが今の祐市は無力な子供ではない。
空中で体勢を立て直し懐から呪符を三枚扇状に投擲した。
呪符が光の鎖となり男の四肢を拘束する。
その一瞬の隙に祐市は着地し蓮月を抱えて退避しようとした。
しかし男は煩わしそうに身じろぎしただけで光の鎖を腐った紐のように引きちぎった。
「小細工を」
男の姿がかき消える。
次の瞬間、男は祐市の目の前にいた。
鳩尾に衝撃。
反応すらできなかった。
強烈な蹴りを受け祐市の体が吹き飛び石塀を粉砕して雪の中に埋もれる。
「が……はっ」
肺の空気が強制的に吐き出され視界が明滅する。
起き上がろうとする祐市の目に映ったのは男の黒い手が蓮月の細腕を掴む光景だった。
「来い」
「いやっ兄さん!」
蓮月が抵抗し呪符を取り出そうとするが男の手から放たれた瘴気が彼女の体を麻痺させる。
男の背後に再び空間の裂け目が広がる。
その奥は底なしの闇。
「待て!」
祐市は血を吐きながら震える手で刀の柄を杖にして立ち上がろうとする。
足が動かないなら這ってでも。
必死に手を伸ばす。
男は仮面の奥で冷ややかに祐市を見下ろした。
彼は蓮月を抱えたまま闇の裂け目の中へと足を踏み入れる。
蓮月の涙に濡れた顔が闇に飲み込まれていく。
裂け目が閉じ二人の姿は掻き消えた。
静寂だけが残った。
結界が解け街の喧騒が一気に戻ってくる。
だが祐市の隣にはもう誰もいなかった。
残されたのは降りしきる雪と雪に滲む自分の血。
そして胸の奥を引き裂かれるような魂の喪失感だけだった。
祐市の慟哭が冬の空に虚しく吸い込まれていった。
数十分後、霧祓邸。
玄関の戸が荒々しく開かれ雪まみれの祐市が転がり込んできた。
その瞳には鬼気迫る色が宿っていた。
「父上! お祖父様!」
祐市の絶叫に近い報告を聞き書斎から飛び出してきた宗顕と源蔵は息子の惨状とそこに蓮月の姿がないことを見て全てを悟った。
「奴め! またしても私の大事なものを奪うか!」
十九年前、妻を奪われた絶望。
それが今、娘同然に育ててきた蓮月への理不尽な略奪によってどす黒い殺意へと変貌していた。
源蔵もまた静かに目を閉じそしてカッと見開いた。
その双眸には老いを感じさせない若獅子のような闘志が燃え盛っていた。
「宗顕、支度をせよ。蓮月を取り戻す」
「分かっております」
二人は即座に動き出した。
迷いはない。
だが致命的な問題があった。
場所だ。
敵は空間を渡り姿を消した。
広大な帝都、あるいは日本のどこかにある本拠地をどうやって探すのか。
刀を手に取った宗顕が焦燥を滲ませて振り返る。
「祐市。奴の去り際に何か手がかりはなかったか?」
「感じます」
祐市が父の言葉を遮るように言った。
彼は自身の左手を胸の前で強く握りしめていた。
薬指に残る薄く白い古傷。
肉体の痛みはとうにない。
だが今、魂の奥底が見えない鉤爪で引っ掻かれるような感覚を訴えていた。
「北です。遠い、雪深い山の奥」
祐市は確信を持って告げた。
「おそらく魂同調の後遺症です。俺と蓮月の魂はあの術以来、見えないもので繋がっている。今、あいつがどこにいるか伝わってくるんです」
源蔵が目を見張る。
「なるほど。あの時の術が今になって魂の緒として機能するとはな」
「でかした、祐市」
宗顕が祐市の肩に手を置いた。
「案内しろ。お前の感覚が我々の道標だ」
「はい」
祐市は顔を上げた。
迷いも、痛みも、恐怖もない。
ただ蓮月を救う。
その一点のみに魂を焦がし三人の男たちは雪山へと出撃した。
北の果て黒神山。
そこは古来より生者の立ち入れぬ領域と恐れられる禁足地だった。
猛吹雪が視界を奪い気温は氷点下を遥かに下回る。
だが三人の歩みは止まらない。
先頭を行く祐市は傷だらけの体を引きずりながらも最も速く雪の中を進んでいた。
(待ってろ、蓮月。今行く)
道中、雪の中から異形の怪異たちが湧き出した。
通常の祓魔師なら即死するレベルの群れだ。
だが、今の霧祓家にとってそれらは障害ですらなかった。
「祐市、振り向くな。雑魚はわしらが引き受ける。お前は前だけを見ろ」
「はいっ」
父と祖父が切り開いた道を祐市が駆ける。
やがて三人は山頂付近の開けた場所にたどり着いた。
その先には禍々しい結界に覆われた祭壇が見える。
だがそこへ続く一本道には無数の怪異の大軍勢とあの仮面の男が待ち構えていた。




