6‐4
嵐は去った。
あれほど狂ったように吹き荒れていた雷鳴も轟音も嘘のように消え失せていた。
破壊された寝室には夜明け前の冷たく重い静寂だけが満ちている。
天井に空いた大穴から白い雪が舞い込み床に広がった赤い血溜まりの上に音もなく降り積もっていく。
部屋の中央で宗顕は膝をつき動かずにいた。
その腕の中には事切れた翠が抱かれている。
彼女の体はまだ微かに温かい。
だが魂だけがどこか遠くへ行ってしまったような決定的な喪失感が宗顕の心を氷点下へと叩き落としていた。
死の静寂を切り裂くのは、揺りかごの中で泣き叫ぶ祐市の声だけだった。
恐怖か寒さかあるいは母の不在を本能で悟ったのか。
その声は枯れるほどにか細くしかし必死に生を主張していた。
ザリと瓦礫を踏む音がした。
庭先での激戦を終えた源蔵が寝室へと入ってくる。
先代もこの惨状を前にしてはただの老いた父親の顔になり言葉を失った。
「宗顕」
源蔵が息子の震える背中にそっと手を置く。
宗顕は答えない。
彼は翠の亡骸を壊れ物を扱うようにそっと床に横たえた。
そして泣き続ける祐市を抱き上げる。
ずしりとした重み。
つい数時間前縁側で抱いた時と同じ温かい命の重み。
だが一つだけ違うことがあった。
祐市の純白の寝着がべっとりと赤く染まっている。
翠の血だ。
彼女が覆いかぶさり自らの身を盾にして守り抜いた証。
宗顕の目から涙が溢れ出した。
妻の命が息子の命を繋いだ。
この温もりは翠そのものだ。
「一匹。逃がしました」
宗顕が虚空を見つめたまま呟いた。
その声から湿っぽい悲しみの色は消え代わりに絶対零度の殺意と鋼のような決意が宿り始めていた。
「奴だけは生かしておけない」
源蔵は何も言わずただ強く頷いた。
宗顕は血に染まった我が子を強く抱きしめた。
「必ずだ。必ず、この手で」
夜明けの薄明かりが破壊された部屋に差し込む。
だが宗顕の瞳に宿った心の暗闇は光に照らされることでより深く濃い影を落としていた。
宗顕の絞り出すような誓いの言葉が雪解けの水のように過去の景色へと溶けていく。
視界が揺らぎ気がつくとそこは暖炉の火が燃える探偵事務所だった。
過去の幻影は消えただ重苦しい沈黙だけが部屋を支配している。
窓の外では変わらず雪が降り続いていた。
現在の宗顕は語り終えた疲れからか深く椅子に背を預け天井を仰いでいる。
十九年。
妻を奪われた絶望と決して癒えぬ怒りを抱え、たった一人で仇を追い続けてきた歳月の重みが今の彼の背中にはあった。
「これがあの日の出来事だ」
宗顕が静かに視線を戻す。
「お前の母、翠は事故で死んだのではない。お前を守り戦って死んだのだ」
祐市は膝の上で拳を握りしめていた。
幼い頃から感じていた欠落感。
なぜ自分には母がいないのか。
なぜ父は時折あんなにも悲しい目で自分を見るのか。
その全ての答えが今、氷解した。
母は自分を愛していた。
命を投げ出すほどに愛してくれていたのだ。
「父上」
祐市が顔を上げる。
「今までなぜ黙っていたのですか」
宗顕は自嘲気味に笑った。
「私はお前に穏やかに、健やかに育ってほしいと願った。復讐になど囚われず生きて欲しかった。だから私はこの呪われた因縁を墓場まで持っていく覚悟だった。だが」
宗顕の目が鋭く細められる。
「奴は戻ってきた。再びお前を狙い、動き出した可能性がある。」
蓮月がそっと祐市の背中に手を添えた。
祐市は机の上に置かれた母の形見、焦げた着物の切れ端に触れた。
そこから伝わる微かな雷気。
それは母を殺した憎むべき力であると同時に母が最期まで立ち向かった証でもあった。
「分かりました」
祐市が立ち上がる。
その所作には迷いも躊躇いもなかった。
彼は宗顕を父親としてではなく共に死線を越える一人の祓魔師として真っ直ぐに見据えた。
父が一人で背負ってきた重荷をこれからは自分が半分背負うのだと無言のうちに告げていた。
宗顕はわずかに口元を緩め頷いた。
「頼もしくなったな。本当に」
ここからは、新たな戦いの始まりだ。




