6-3
ピシリという硬質な音は瞬く間に不吉な亀裂音へと変わった。
春の穏やかな空に亀裂が走る。
霧祓邸を何代にも渡って守り続けてきた日本最強クラスの結界が外からの圧倒的な暴力によって物理的にひしゃげていく。
「構えろ!」
源蔵の怒号が飛ぶと同時に空が砕け散った。
ガラスが割れるような轟音と共に結界の破片が降り注ぎ春の日差しは瞬時に消え失せた。
代わりに流れ込んできたのは季節外れの冷たい暴風だった。
そして空を覆い尽くすほどの黒い雷雲だった。
「翠! 祐市を連れて奥へ!」
宗顕が叫ぶ。
翠は即座に頷き泣き叫ぶ祐市を強く抱きしめ縁側から屋敷の奥へと走った。
その背中を見送る間もなく庭先に黒い影たちが降り立つ。
地面が揺れる。
雷鳴と共に庭先に降り立ったのは異形の影たちだった。
燃え盛る炎を纏うもの岩石の巨躯を持つもの空間を裂く鎌を携えたもの。
その数、八体。
いずれもが通常の怪異とは次元の違う神々しいまでの禍々しさを放っている。
「……」
源蔵が刀を構え脂汗を流す。
百戦錬磨の先代当主をしてその威圧感に喉が鳴る。
「ただの怪異ではない……」
名など分からなくても肌で分かる。
これは人が触れていい領域の存在ではない。
「来るぞッ!!」
宗顕の叫びと共に影たちが動いた。
霧祓家の最強二人が人知を超えた怪物たちと激突する。
剣閃と雷光が交錯し庭が瞬く間に更地へと変わっていく。
庭先は地獄絵図と化していた。
雷光が闇を切り裂き炎と岩塊が暴風となって吹き荒れる。
宗顕と源蔵、霧祓家の最強二人は七体の怪異を相手に一歩も引かずに立ち回っていた。
だが攻めきれない。
宗顕が踏み込めば炎の壁が阻み源蔵が術を放てば岩の巨兵が盾となる。
敵はこちらの攻撃を相殺することだけに全霊を注いでいた。
殺気がないのではない。
殺す気がないのだ。
ただこの場に釘付けにするという明確な遅滞戦術。
(なぜだ?)
宗顕は眼前の敵を斬り伏せながら焦燥に駆られた。
(これほどの力を持つ化け物どもがなぜ時間を稼ぐ必要がある?)
宗顕の脳裏に結界が破られた瞬間の残像が蘇る。
空から降り注いだ影の数。
(一、二、三……)
宗顕は目の前の敵を数えた。
「……六、七」
思考が凍りつく。
足りない。
最初に視認した影は確かに八体だったはずだ。
「しまっ、陽動か!」
宗顕の絶叫が雷鳴を切り裂いた。
彼は反射的に屋敷の方角、愛する妻と子のいる寝室へと視線を走らせる。
そこから漂う微かなしかし決定的な侵入の気配。
宗顕の顔から祓魔師としての冷静さが完全に消え失せた。
代わって浮かんだのは修羅の如き憤怒と焦燥。
「父上!」
宗顕が叫ぶ。
源蔵もまた息子の悲痛な叫びで事態を察した。
「行け、宗顕! こやつらは私が……!」
「いいえ!」
宗顕は首を振り最も強大な霊圧を放つ巨体を睨みつけた。
「あのデカブツだけ、お願いします! 」
宗顕は刀を構え直し残る六体の怪物たちに殺意の切っ先を向ける。
「残りの六体は、私が引き受けます。一瞬で抉じ開ける!」
源蔵が頷き、巨体に向かって突貫した。
同時に宗顕も弾かれたように動いた。
防御など捨てた。
回避など考えない。
ただ最短距離で邪魔な有象無象を消し飛ばし妻子の元へ還る。
その一心だけが宗顕を鬼神へと変えた。
一方、屋敷の奥、寝室。
そこには庭先の轟音とは対照的な張り詰めた静寂があった。
赤ん坊の祐市の泣き声だけが響いている。
破壊された天井から侵入した黒い影、八人目が揺りかごの前に立っていた。
その姿は不定形で黒い稲妻そのものが人の形を模しているかのようだ。
「見つけたぞ、器よ」
「させません」
凛とした声が響いた。
影と揺りかごの間に翠が滑り込んでいた。
顔面は蒼白で唇は恐怖に震えている。
彼女は祓魔師ではない。
魔を祓う術も身を守る力も持たないただの人間だ。
だがその手には枕元に隠していた護身用の短刀が強く握りしめられていた。
「どけ」
影が億劫そうに腕を振るう。
衝撃波だけで翠の体は木の葉のように壁に叩きつけられた。
ドガッと鈍い音がする。
「あぐっ……!」
激痛に顔を歪めながらも翠は即座に這い戻り再び揺りかごの前に立ちはだかった。
翠は短刀を構える。
それは怪異を相手にするにはあまりにも頼りない刃だった。
だが無慈悲な黒い稲妻が彼女の胸元へと鎌首をもたげていた。
庭先。
六体の怪異たちが壁となって宗顕の行く手を阻む。
だが今の宗顕の目にそれらはもはや敵としては映っていなかった。
ただの障害物。
愛する妻子の元へ還る道を塞ぐ排除すべき瓦礫に過ぎない。
「邪魔だっ!」
宗顕が咆哮した。
刹那彼の姿が掻き消える。
防御も回避もない。
ただ最短距離を突き進む神速の踏み込み。
紅蓮の炎を纏う怪異が立ちはだかる。
宗顕の太刀筋は炎の揺らめきよりも速かった。
銀閃が奔る。
燃え盛る炎の鎧ごと怪異が袈裟懸けに両断され悲鳴を上げる間もなく霧散する。
宗顕は止まらない。
何よりも速く次なる敵へ刃を走らせる。
二体目。
岩石の巨躯を誇る怪異が城壁のような盾を構える。
だが宗顕の切っ先は岩よりも硬く鋭い。
鋼鉄が拉げるような重い衝撃と共に巨人の胴が真横に薙ぎ払われ瓦礫の山となって崩れ落ちた。
三体目、四体目。
左右から空間を裂く鎌を振るった怪異たちが迫る。
宗顕は視線すら向けない。
すれ違いざま燕が翻るような二連撃。
風切り音だけを残し宗顕が通り過ぎた数瞬、二体の首が音もなく虚空を舞った。
宗顕の咆哮が夜気を震わせる。
残る二体が恐怖に顔を歪め雷撃を放とうとする。
だが遅い。
雷光が瞬くよりも速く宗顕は二体の間を疾走していた。
闇夜に刻まれる鮮烈な十文字の軌跡。
二体の雷神は雷を放つ暇すら与えられず十字に斬り裂かれて消滅した。
六体全滅。
所要時間、わずか六十秒。
圧倒的な神域の剣技。
宗顕は敵の残骸を切り裂いて屋敷へと疾走した。
同時刻寝室。
翠は全身全霊の力を込め握りしめた短刀を黒い影へと突き立てた。
護身用の小さな刃。
切っ先が影の胸元を捉える。
硬質な音がして短刀は半ばから無惨に砕け散った。
影が鬱陶しげに腕を振るう。
黒い稲妻が槍となって翠の胸を深々と貫いた。
鮮血が舞う。
翠の体がぐらりと揺いだ。
致命傷だ。
誰の目にも明らかだった。
だが翠は倒れなかった。
彼女は貫かれた激痛の中で最後の力を振り絞り背後の揺りかごへと覆いかぶさった。
自分の体で蓋をするように。
溢れ出る血が揺りかごを赤く染める。
怪異は無慈悲に翠の体を掴みボロ雑巾のように部屋の隅へと放り捨てた。
ドサリと音がする。
翠はもう動かない。
黒雷は再び揺りかごに向き直り泣き叫ぶ祐市を見下ろした。
黒く細い指が祐市の柔らかな額へと伸びる。
指先が触れるまであと数センチ。
そこに轟音と共に寝室の扉と壁が粉々に吹き飛んだ。
爆風と共に飛び込んできたのは鬼神の形相をした宗顕だった。
「貴様ァッ!」
怪異の手が祐市の額の寸前でピタリと止まる。
影が振り返りその目に驚愕の色が浮かんだ。
「馬鹿な、七柱を倒したというのか!? バケモノか!?」
怪異は本能的に悟った。
(目の前の男は危険だ)
今の自分一人の力ではこの怒れる鬼神には勝てない。
怪異は舌打ちすると即座に天井の穴へと跳躍し黒い雷となって夜空へと消え去る。
敵は去った。
祐市は無傷だった。
宗顕は刀を取り落とし部屋の隅へと駆け寄った。
「翠ッ!」
床に広がる赤い海。
その中心で翠が横たわっている。
宗顕は震える手で彼女を抱き起こした。
体はまだ温かい。
だが胸の傷はあまりにも深く命の灯火は今にも消えようとしていた。
「翠、翠、しっかりしろ!」
宗顕が叫ぶ。
だが翠はうっすらと目を開け血に濡れた手で宗顕の頬に触れた。
「あな、た。ゆう、いち……は……?」
「無事だ! 君が守った! 君が守りきったんだ!」
そう伝えると翠は安堵に包まれたようにふわりと微笑んだ。
「翠?」
返事はない。
ただ揺りかごの中で母の血を浴びた祐市の泣き声だけが無慈悲なほど元気に響き渡っていた。
宗顕は妻の亡骸をきつく抱きしめ慟哭を上げた。




