6-2
十九年前、大正元年、春。
霧祓邸の庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。
縁側で一人の女性が赤子を抱いて座っている。
若き日の宗顕が愛した妻、翠だ。
その名の通り翡翠のような清廉さと春の日差しのような温かさを併せ持った女性だった。
彼女の腕の中には生まれて間もない祐市が安らかな寝息を立てている。
翠は愛おしそうに我が子の頬を指でなぞり幸せそうに目を細めていた。
砂利を踏む音がして道着姿の宗顕が姿を現した。
朝の鍛錬を終えたばかりなのだろう額には玉のような汗が浮いている。
全身から立ち昇る鋭い闘気は彼が当時から傑出した実力者であったことを物語っていた。
だが縁側にいる妻と子の姿を認めた瞬間その張り詰めた空気がふっと緩んだ。
鬼神の如き祓魔師の顔が消え不器用な一人の父親の顔になる。
「起きてしまったか?」
宗顕は足音を忍ばせて縁側に近づき翠の隣に腰を下ろした。
「いいえ。お乳を飲んで、今ぐっすりと」
翠が微笑みかける。
宗顕は汗を拭うのも忘れ赤ん坊の寝顔に見入った。
「あなた、抱いてみますか?」
翠が不意にそう提案した。
宗顕はびくりと肩を震わせ狼狽したように手を振った。
「よ、よせ。今は汗臭いし、それにこの手は怪異を斬るためのものだ。こんなに小さく、柔らかいものを抱くようにはできておらん!」
最強の祓魔師が赤ん坊一人を前に怖気づいている。
翠はくすりと笑うと優しく宗顕の腕を引き寄せた。
観念した宗顕がぎこちなく腕を差し出す。 翠は宗顕の太く逞しい腕の上にそっと祐市を預けた。
ずしりとした命の重み。
宗顕の腕が緊張で石のように固まる。
「大丈夫ですよ。ほら、背中を支えてあげて」
翠の手ほどきを受け宗顕はどうにか祐市を抱いた。
すると眠っていたはずの祐市がむずかりもせず宗顕の道着の襟を小さな手でぎゅっと掴んだ。
「……!」
宗顕が息を呑む。
剣ダコだらけの自分の胸に小さな命が必死にしがみついている。
その温かさが分厚い胸板を通して心臓に直接響いた。
「あ……つか、んだ」
宗顕が子供のように目を丸くする。
「ふふっ。お父様のことが分かるのですね」
翠が愛おしそうに二人を見つめる。
宗顕は襟を掴む小さな手を自分の大きな手でそっと包み込んだ。
その表情は先ほどまでの緊張が嘘のように蕩けるように穏やかになっていた。
「……祐市」
宗顕が我が子の名を呼んだ。
翠が微笑みかける。
宗顕は汗を拭うのも忘れ赤ん坊の寝顔に見入った。
彼は躊躇いがちに手を伸ばすと剣ダコで硬くなった人差し指の背で祐市の柔らかい頬をそっと壊れ物に触れるように撫でた。
「小さいな」
宗顕がぽつりと呟く。
「この子が霧祓の家を継ぐのか」
その言葉には期待よりも重い宿命を背負わせてしまうことへの微かな憂いが滲んでいた。
祓魔師として生きることは修羅の道を歩むことと同義だ。
宗顕は眠る祐市に向かって祈るように囁いた。
「今は、何も知らずに眠れ。ただ、健やかに育て」
それはこれから過酷な運命に晒される息子に対し父として願えるせめてもの祈りだった。
今だけは。
この腕の中にいる間だけは、穏やかに、健やかに。
その切実な響きを聞いて翠がふふっと楽しそうに笑った。
「まあ、あなた。本当に優しい顔をするのですね」
「……む」
宗顕が極まり悪そうに視線を逸らす。
宗顕の剛腕の中で祐市は居心地良さそうに欠伸をした。
その無防備な姿に宗顕の頬がさらに緩む。 彼は縁側の横に置いてあった小さなでんでん太鼓に目を留めた。
昨日宗顕が任務の帰りに露店で密かに買ってきたものだ。
「翠。これを使ってもいいか?」
「もちろん」
宗顕は片手で太鼓を手に取ると祐市の目の前で振ってみせた。
ブンッブンッ。
手首のスナップが鋭すぎた。
玩具とは思えない風切り音が鳴りる。
「あ……」
祐市が目を丸くして固まる。
翠が吹き出した。
「ふふっ、あなた。もっと優しく」
「む、加減が難しいな。剣の柄より繊細だ」
宗顕は眉間に皺を寄せ真剣な顔で太鼓の振り方を修正し始めた。
コロン、コロン。
今度は優しく牧歌的な音が鳴る。
祐市がその音に合わせてキャッキャと小さな手足をバタつかせた。
「おお……笑ったぞ、翠! 笑った!」
宗顕が手柄を立てた子供のように翠を振り返る。
その顔には歴戦の祓魔師の面影など微塵もない。
ただの親馬鹿な父親がそこにいた。
「はい、はい。祐市も、お父様の太鼓が楽しい、ですって」
翠は宗顕の肩に頭を預け幸せそうに目を細めた。
春の風が庭の桜の枝を揺らし白い花びらが数枚縁側に舞い込んでくる。
その一枚が祐市の小さなおでこにふわりと乗った。
宗顕は太鼓を置きその花びらをそっと摘まみ上げた。
「平和だな」
宗顕が噛み締めるように呟く。
「外では今日もどこかで怪異が人を喰らっているかもしれない。だがこの庭だけは別世界のようだ」
「ええ」
翠が宗顕の太い腕に手を添える。
「お前と祐市がいるから私は戦場から人として帰ってこられる。お前たちが私の帰る場所だ」
宗顕は花びらを風に放ち改めて腕の中の温もりを抱きしめ直した。
その優しい力強さに祐市が安心して身を委ねる。
「約束しよう、翠」
三人を包む空気は黄金色に輝く蜂蜜のように甘く穏やかだった。
宗顕は思った。
この幸せを守るためなら自分は鬼にでも羅刹にでもなれると。
ただ穏やかな日差しの中で愛する妻と子を見つめ静かに微笑んだ。
そこには確かに幸福の絶頂があった。
永遠に続くかと思われた穏やかな家族の時間。
だがその平穏は唐突に破られる。
宗顕の笑顔がふと曇った。
風が止む。
鳥の声が消える。
春の陽気が急速に冷え込み肌を刺すような不穏な空気が庭に満ち始めた。
宗顕の目が再び祓魔師のそれに戻る。




