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大正二十年、冬。
帝都は深い雪に包まれていた。
しんしんと降り積もる雪が夜の闇を白く染め上げ街の喧騒を静寂の中に閉じ込めている。
霧祓探偵事務所の窓からはガス灯の明かりがぼんやりと雪道を照らしていた。
暖炉の火がはぜる音とペンが紙を走る音だけが部屋の静けさを守るように響いている。
机に向かっているのは蓮月だ。
彼女の周りには数冊の古文書と書きかけの報告書が積まれている。
窓辺には祐市が立っていた。
手には愛刀があり彼は慣れた手つきで手入れを終えると静かに鯉口を切って刀身を納めた。
鍔鳴りの音が小さく響く。
祐市は刀を置きふと蓮月の方を見た。
彼女は集中するあまり部屋の冷え込みに気づいていないようだ。
祐市は何も言わず傍らの椅子に掛けてあった自分の厚手の外套を手に取った。
足音を忍ばせて蓮月の背後に回る。
そしてその外套を彼女の肩にそっと掛けた。
ふわりと温かい重みが蓮月の華奢な体を包み込む。
蓮月は驚くことなく筆を止めて顔を上げた。
その瞳には信頼しきった安らぎがあった。
「……ありがとうございます、兄さん」
蓮月が少し申し訳なさそうに微笑む。
「ああ」
祐市は蓮月の肩を外套の上からポンと軽く叩いた。
「無理はするな。熱い茶でも淹れてくる」
「……はい」
蓮月は嬉しそうに目を細め祐市の背中を見送る。
祐市が棚の上の急須に手を伸ばそうとしたその時だった。
事務所の扉が重々しくノックされた。
祐市の手が止まる。
蓮月も入り口の方へと向き直る。
返事を待たずに扉が開いた。
入ってきたのは霧祓家当主、宗顕だった。
宗顕が二人をじっと見据えた。
彼が扉を閉めると外の寒気と共に張り詰めた緊張感が室内に充満した。
祐市は無言のまま居住まいを正し蓮月もペンを置いて椅子から立ち上がる。
そこにあるのは師匠と弟子あるいは当主と配下としての厳格な関係性だけだ。
宗顕はゆっくりと歩を進めると部屋の中央で立ち止まった。
「佐伯家の件そして山犬村での山鬼の一件。報告書は読んだ」
宗顕の低い声が静寂を震わせた。
「はい」
祐市が短く答える。
だがその声には僅かな苦味が混じっていた。
「山犬村では、犠牲を出しました。私の力が足りず、木島さんを死なせてしまった」
祐市は、悔しさを滲ませて拳を握る。
だが宗顕は静かに首を横に振った。
「いいや。お前たちは怪異の根源を断ち村を救った。完璧な勝利などない。お前たちは背負うべきものを背負いそれでも前に進んでいる」
宗顕は深く頷いた。
目の前にいるのはもう守られるだけの子供たちではない。
修羅場を潜り抜け、痛みを知り、それでも立つ一人前の祓魔師たちだ。
宗顕の胸の内で父としての喜びとこれから告げなければならないことへの罪悪感がせめぎ合う。
だが彼は当主としてその葛藤を腹の底へと押し込めた。
宗顕は覚悟を決めた瞳で二人を交互に見つめ噛み締めるように呟いた。
「お前達も本当に成長したな」
それは単なる労いの言葉ではなかった。
その響きには成長を認めるがゆえの次なる段階への示唆が含まれていた。
祐市と蓮月は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
父が自分たちを対等な戦力として認めようとしている。
それが意味する過酷さを二人は本能的に察知していた。
祐市は宗顕の視線から逃げず静かに問い返すような眼差しを向けた。
宗顕は一つ長く重い息を吐き出した。
祐市と蓮月は父の次の言葉を待つ。
宗顕はゆっくりと視線を外し窓の外、闇に降り積もる雪へと目を向けた。
その横顔にはこれまで息子たちに見せたことのない疲労の色が滲んでいた。
「長年私一人で追っていた怪異がいる。霧祓家の当主としてではなく一人の男として。執念だけで追い続けてきたある仇だ」
祐市の眉がピクリと動く。
父が私怨を口にするなど前代未聞だった。
「十九年前。お前が生まれたばかりの頃、私のかけがいのない人を奪っていった奴だ」
宗顕は祐市を真っ直ぐに見据えた。
「翠を、お前の母を殺した怪異だ」
祐市は息を呑んだ。
母の死。
それは幼い頃から不運な事故とだけ聞かされていた。
だが目の前の父の燃えるような瞳はそれが単なる事故ではなく明確な悪意を持った殺害であったことを物語っていた。
「一向に手掛かりが掴めなかった」
宗顕の声に力がこもる。
彼は拳を固く握りしめた。
「昨夜、ついに奴の痕跡が見つかった。奴が再び動き出したのだ」
宗顕は一拍置き父としての葛藤を振り切るように重い眼差しで二人を見た。
「祐市、蓮月。力を、貸してくれ」
これはただの怪異退治ではない。
霧祓家のそして祐市自身の根源に関わる血塗られた運命への招待状だった。
最強の祓魔師である父が手伝ってほしいと頭を下げる。
それがどれほど重い意味を持つか祐市と蓮月には分かっていた。
蓮月は息を呑み不安げな視線を祐市に向ける。
祐市は父の言葉を噛み締めるように数秒の沈黙を守った。
やがて彼は机の上に置かれた着物の切れ端へと視線を落とす。
そこから漂う禍々しい気配は、十年という歳月を経てもなお燻り続けている。
「父上」
祐市が静かに口を開いた。
「その痕跡とは具体的にはどのようなものだったのですか」
宗顕は頷き一枚の写真を提示した。
それは帝都郊外の雑木林を写したものだった。
雪景色の中一本の大木だけが、根元からありえないほど無惨に黒焦げになっている。
「昨夜未明だ。雲一つない冬の夜空から、黒い雷が落ちた」
「冬の、雷?」
蓮月が訝しげに眉をひそめる。
「ただの落雷ではない。この木に残っていた穢れの波長はあの日、翠を貫いた雷と完全に一致していた」
祐市は写真を見つめたまま核心を突いた。
「なぜ今なのですか。十九年も沈黙していた奴がなぜ急に」
「分からない。ただ奴は闇雲に現れたわけではないだろう。何かに引き寄せられて動き出したのだ」
その言葉に得体の知れない寒気が二人の背筋を走った。
それはまさしく凶兆の前触れだった。
この平穏な日常が薄氷の上に成り立っていたことを思い知らされるような不吉な予感。
祐市は顔を上げた。
父の瞳を真っ直ぐに見据え覚悟を決めた声で問う。
「教えてください。母上を殺したその仇。そいつの正体は一体何なのですか」
宗顕は長く重い息を吐き出すと椅子に深く座り直し遠い過去を見る目をした。
「話そう。あれはまだお前が生まれたばかりの頃……」
宗顕の言葉と共に事務所の景色が歪み遠い過去へと意識が引き込まれていく。




