5.5-4
資生堂パーラーを出ると銀座の街はすっかり夜の帳に包まれていた。
通りにはガス灯がともり柔らかな橙色の光が石畳を照らしている。
昼間の喧騒は少し落ち着き代わりに大人の街としてのしっとりとした空気が流れていた。
「楽しかったですね、兄さん」
蓮月が余韻に浸るように呟く。
その顔はガス灯の明かりを受けて上気し夢見心地のようだった。
「ああ。たまには、こういうのも悪くない」
祐市もまた穏やかな表情で頷いた。
甘いものを食べ他愛のない話をして、ただ並んで歩く。
二人は駅へと向かう道を歩いていたが不意に祐市が足を止めた。
そこは硝子細工や小物を扱う小さな装飾品店の前だった。
ショーウィンドウの中には、鼈甲の櫛や美しいガラス玉の帯留めなどが並んでいる。
「兄さん? どうしました?」
「蓮月。少し、付き合ってくれないか」
祐市は蓮月を店先へと促した。
彼は並んでいる商品をまるで怪異の痕跡を探す時のような真剣な眼差しで吟味し始めた。
眉間に皺を寄せ腕を組み、唸る。
祐市の視界に一つの品が目に入った。
それは透かし彫りが施された銀の簪だった。
派手すぎず、しかし洗練されたデザインで先端には小さな真珠が一粒月のように静かな光を放っている。
「これを、一つ」
祐市は店主に代金を支払うと店を出てから少し離れた街灯の下で足を止めた。
そして、包みもせずにそのまま受け取った簪を蓮月の前に差し出した。
「婚約の証だ」
祐市は照れ隠しのように早口で言った。
視線は蓮月の顔ではなく明後日の方向を向いている。
「指輪は、まだ早いかもしれないがこれなら普段から身につけられるだろう」
「兄さん、これを私に?」
「俺は気の利いたことは言えない」
祐市は意を決したように蓮月の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとうございます」
蓮月の瞳が潤みガス灯の光を反射してきらりと光った。
彼女は簪を宝物のように両手で受け取ると愛おしそうに胸に抱いた。
「嬉しい。一生、大切にします」
蓮月は背伸びをするようにして自分の結った髪に銀の簪を挿した。
夜の闇の中で銀色の透かし彫りと真珠が彼女の艶やかな髪に映えて美しく輝く。
「どう、ですか?」
蓮月が首を傾げて微笑む。
その姿は今日のどの瞬間よりも美しく祐市の心臓を射抜いた。
「ああ。よく似合っている」
祐市は見惚れるように呟いた。
この笑顔を守りたい。
心からそう思った。
二人は再び歩き出す。
今度は祐市の方から蓮月の手を握った。
しっかりと指を絡ませて。
夜風は少し冷たかったが繋いだ手のひらの熱だけで十分だった。
この穏やかな幸福が永遠に続けばいい。
二人は心の底からそう願っていた。
駅へと続く裏通りは表通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街灯の数が減り建物の影が濃くなる。
だが今の二人にはその暗がりさえも心地よかった。
繋いだ手から伝わる体温が夜風の冷たさを優しく中和してくれる。
蓮月は歩きながら何度もそっと髪に手をやった。
指先で簪の冷ややかな銀の感触と真珠の滑らかさを確かめる。
そのたびに彼女の口元には自然と笑みがこぼれた。
「ふふ」
「どうした? さっきから、ずっと髪ばかり気にしているが」
「だって、夢みたいですから」
蓮月は足を止め祐市を見上げた。
街灯の淡い光が彼女の瞳を濡れたように照らし出す。
「お祖父様に言われて家を出た時は、どうなることかと思いました。兄さんは怖い顔をしているし、私は緊張で足がもつれそうでしたし」
「面目ない」
「でも、今は違います」
蓮月は繋いでいた手を一度離し改めて祐市の両手を自分の両手で包み込んだ。
「初めて見る景色、初めての口にしたもの、そして兄さんが私のために選んでくれた、この簪。今日という一日全部が、私にとっての宝物になりました」
彼女の言葉には一点の曇りもなかった。
そこには愛する人に愛される喜びを知った、一人の幸せな女性がいた。
「兄さん。私、幸せです」
その真っ直ぐな告白に祐市の胸が熱く締め付けられた。
彼は衝動に駆られるまま蓮月を強く引き寄せたいと思った。
だが往来でそこまでする勇気はなく代わりに包まれた彼女の手を力強く握り返した。
「俺もだ」
祐市は短くしかし強い思いを込めて答えた。
怪異を祓い、誰かを守る。
それは誇り高い使命だが常に死と隣り合わせの緊張感を伴う。
だが今のこの瞬間はどうだ。
ただ隣にいて手を繋ぎ、同じ未来を見ている。
(これが、お祖父様の言っていた絆か……)
背中を預けるだけではない。
心を預け安らぎを分かち合う。
この温もりがあるからこそ明日もまた剣を握れるのだと彼は理屈ではなく魂で理解した。
「帰ろう、蓮月。お祖父様が待っている」
「はい。あの、家に着くまでこのままでもいいですか?」
「もちろんだ」
祐市が少し強引に言い切ると蓮月は嬉しそうに目を細めた。
二人は再び歩き出した。
カツカツと響く足音が心地よいリズムで重なる。
夜空には月が昇り二人を祝福するように青白く輝いていた。
霧祓邸の重厚な門扉が見えてきた頃には空には満月が昇り青白い光が二人を照らしていた。
行きと同じ道。
けれど二人の足取りは行きとは比べ物にならないほど軽やかで自然だった。
繋いだ手は屋敷の前に着くまで一度も離れることはなかった。
蓮月が名残惜しそうに足を止める。
夢のような時間の終わり。
「ああ。入ろう」
祐市が門を開ける。
玄関に入ると腕組みをした源蔵が仁王立ちで待ち構えていた。
その顔は厳めしいが口元は隠しきれない笑みで歪んでいる。
「遅いぞ。日が暮れるまでとは言ったが、もうとっぷりと夜ではないか」
「申し訳ありません、お祖父様。少し、話し込んでしまって」
祐市が素直に頭を下げる。
その顔には以前のような強張りや迷いは微塵もない。
源蔵の鋭い視線が祐市の穏やかな表情と蓮月の髪に光る銀の簪を行き来した。
そして満足げに鼻を鳴らした。
「まあ、良い顔をして帰ってきたなら、それでよし。飯ができている。冷めないうちに食え」
「はい」
二人の声が重なった。
その夜、それぞれの寝室に戻る前。
廊下で別れる際、二人は自然と微笑み合った。
「おやすみなさい、兄さん」
「ああ。おやすみ、蓮月」
蓮月は簪を大切そうに外し胸に抱いて自室へと入っていった。
祐市もまた自分の部屋に戻り窓から月を見上げた。
手のひらにはまだ彼女の体温が残っている。
祐市は強く拳を握りしめた。
この温もりをかの笑顔を何があっても守り抜く。
今日のデートは彼にその覚悟を改めて刻み込ませた。
静かな夜だった。
虫の声だけが響く平和な帝都の夜。
だが月光が照らす庭の片隅で冬枯れの木々がざわりと不吉な音を立てて揺れたことを今の二人はまだ知らない。




