5.5-3
銀座通りの散策を終えた二人が辿り着いたのは煉瓦色が鮮やかなモダンな建物の前だった。
大きなガラス窓には金文字でSHISEIDO PARLOURと綴られている。
資生堂パーラー。
帝都のハイカラ好きならば知らぬ者はいない、洋食と甘味の殿堂である。
「ここですね、兄さん」
蓮月が弾んだ声で建物を指差す。
その瞳は先ほどのショーウィンドウの前と同じくらい輝いていた。
だが祐市は建物の入り口を見て、ゴクリと喉を鳴らした。
回転扉の向こうからは洒落たスーツを着た紳士や華やかなドレスを纏った婦人たちが談笑しながら出入りしている。
そこは明らかに自分のような男が足を踏み入れていい領域には見えなかった。
(怪異の巣窟に突入する方が気が楽かもしれない……)
祐市は冷や汗を拭った。
だが隣を見れば蓮月が期待に胸を膨らませて待っている。
ここでやはり蕎麦屋にしないかなどと提案するのは、許嫁として、いや男として万死に値するだろう。
「よし、行くぞ」
祐市は決死の覚悟でまるで敵陣の門を開くかのように重々しく回転扉を押した。
一歩足を踏み入れるとそこは別世界だった。
高い天井、白を基調とした清潔な壁、磨き上げられた床。
そして何より鼻孔をくすぐる甘く濃厚な香りが充満している。
バニラ、焦がした砂糖、淹れたての珈琲。
戦場の鉄錆と土の匂いとは対極にある、平和と贅沢の香りだ。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
純白のエプロンをつけた給仕の女性が朗らかに声をかけてくる。
祐市は一瞬身構えたがすぐに居住まいを正した。
「はい。二人です」
「かしこまりました。お席へご案内いたします」
案内されたのは窓際の明るいテーブル席だった。
祐市は蓮月の椅子を引いた。
彼女が座るのを見届けてから向かいの席に着いた。
小さな丸テーブルを挟んで二人が向き合う。
その距離は事務所の重厚な執務机越しよりもずっと近く感じられた。
「不思議な気分ですね」
蓮月がメニュー表を手に取りながらはにかむように言った。
「こうして兄さんと仕事の話も怪異の話もしないでただ向かい合って座っているなんて」
「そうだな」
祐市もまた、手元のメニューに視線を落としながら同意した。
そこにはアイスクリーム、ソーダ水、ケーキといったカタカナの羅列が並んでいる。
どれも魅力的だが同時にどれも祐市には馴染みの薄いものばかりだ。
彼は迷った末に蓮月に判断を委ねることにした。
「蓮月、お前は何にするんだ?」
「私は決めていました。クリイムソオダです。鮮やかな緑色で宝石みたいなんですよ。兄さんはどうしますか? 甘いものが苦手なら珈琲もありますけど」
蓮月の気遣いに祐市は首を横に振った。
今日は彼女と同じ体験を共有すると決めたのだ。
「いや。俺も、それを試してみよう」
祐市はメニューの一角を指差した。
蓮月が嬉しそうに笑う。
祐市は給仕を呼び注文を告げた。
「クリイムソオダを二つ」
注文を終えると祐市は一つ大きな関門を突破したような安堵感を覚えた。
刀も呪符もない。
あるのは白いテーブルクロスと向かいに座る許嫁の笑顔だけ。
ここからが本当のデートの始まりだった。
恭しい手つきでテーブルに置かれたのは二つの輝く緑の宝石だった。
二人の前に並んだのは透き通るような緑色の液体で満たされた背の高いグラス。
底から絶え間なく立ち上る気泡が店内の照明を浴びてキラキラと踊っている。
液面には真ん丸なアイスクリームが浮かびその頂点には鮮やかな深紅のチェリーが鎮座していた。
蓮月が小さく歓声を上げ手を合わせた。
祐市は目の前の不可思議な飲み物と蓮月の嬉しそうな顔を交互に見た。
蓮月がストローをくわえ、上目遣いで祐市を見る。
「早速、飲みましょう? 」
「分かった」
祐市も覚悟を決めてストローを口に含んだ。
二人はタイミングを合わせ緑色の液体を吸い上げる。
シュワシュワとした炭酸の刺激が舌を突き次いで濃厚なシロップの甘さが広がる。
さらに冷たいアイスクリームが溶け出しまろやかな味わいへと変化していく。
祐市は思わず眉を上げた。
経験したことのない、賑やかな味だ。
「どうですか?」
「口の中がパチパチする」
「ふふっ、炭酸ですから。でも、おいしいでしょう?」
「ああ、悪くない」
祐市は口元を緩めた。
甘い、確かに甘すぎるくらいだが向かいで蓮月がこんなにも幸せそうに笑っているのを見ると、不思議と極上の味に思えてくる。
五年前、魂同調を行ったあの日から彼女はずっと何かに怯えまた何かを背負ってきた。
許嫁になってからも、彼女はどこか背伸びをしていたように思う。
だが今、目の前にいるのはただの甘いもの好きな少女だ。
怪異も霧祓家の重圧もこのテーブルの上には存在しない。
「そんな顔をするんだな」
思わず口をついて出た言葉に蓮月が顔を上げた。
「え?」
「いや……。お前がそんなふうに何の憂いもなく笑うのを久しぶりに見た気がして」
彼はテーブルの上に置いた自分の掌を見つめた。
傷だらけの手。
目の前の愛らしいクリイムソオダとはあまりに不釣り合いな手だ。
「こうして同じものを頼んで、同じ味を共有して、ただ笑い合う。そういう守り方もあるのだと、今日、初めて知った」
敵を排除することだけが守ることではない。
彼女が心から笑える時間を一秒でも多く作ること。
それこそが本来あるべき幸福なのだろう。
祐市の不器用だが誠実な告白に蓮月は胸が熱くなるのを感じた。
「……アイスが、溶けてきたな」
「あ、本当だ。混ぜるとおいしくなりますかね」
「やってみよう」
二人は顔を見合わせ小さく笑い合った。
同じ飲み物を囲み同じ時間を過ごす。
言葉はなくとも心と心が通い合う音が聞こえるようだった。
窓の外では銀座の街に夕闇が迫りガス灯に一つまた一つと明かりが灯り始めていた。




