5.5-2
路面電車を降りるとそこは喧騒の渦中だった。
銀座、帝都における流行の最先端でありモダンボーイやモダンガールたちが闊歩する華やかな街。
煉瓦造りの建物が並びショーウィンドウには舶来の洋服や宝石が煌びやかに飾られている。
行き交う人々の話し声、自動車の警笛、カフェーから漏れ聞こえるジャズの音色。
それら全てが渾然一体となり圧倒的な熱量となって押し寄せてくる。
「人が多いな」
「兄さん」
隣を歩く蓮月が困ったように袖を引いた。
「顔、怖いです。せっかくの楽しい気分も逃げてしまいますよ」
「む、すまない」
「ここは戦場じゃありません。それに誰も襲ってきたりしませんよ」
蓮月はクスクスと笑うと祐市の前に回り込みその険しい顔を覗き込んだ。
「深呼吸してください。今日はデートなんです。警戒するんじゃなくて、楽しまなくちゃ」
楽しむ。
その言葉が祐市には何よりも難解な任務に思えた。
蓮月は少しだけ躊躇った後頬を桜色に染めて言った。
「その、人が多いのではぐれてしまいそうです」
だが蓮月は上目遣いで祐市を見つめた。
「腕、組んでもいいですか?」
その一言が祐市の思考を真っ白に染め上げた。
腕を組んで歩くなど恋人でしか許されない行為だ。
いや、自分たちは許嫁なのだが。
「あ、ああ。構わないが……」
祐市がぎこちなく左腕を曲げスペースを作る。
蓮月は嬉しそうに微笑むとそっと自分の腕を絡ませた。
柔らかい感触と温かい体温が外套越しに伝わってくる。
蓮月の香りがふわりと鼻先を掠めた。
「えへへ。行きましょう。……祐市さん」
彼女は小さく彼の名を呼んだ。
その瞬間、意識の全てが左腕の温もりに集中する。
心臓が早鐘を打ち全身の血液が沸騰したかのように熱くなる。
(これは、まずい)
怪異と対峙した時ですらこれほど動揺したことはない。
祐市は悟った。
今日の敵は外にいるのではない。
自分の内側にあるこの制御不能な高鳴りこそが最大の敵なのだと。
「ああ、行こう」
祐市は震える足を叱咤し一歩を踏み出した。
二人の影が寄り添い銀座の雑踏へと溶け込んでいく。
その背中はどこにでもいる初々しい恋人たちのそれだった。
腕を組んで歩き出したはいいが祐市の歩みは奇妙な挙動で彼はぎくしゃくと石畳を進んでいた。
左腕に感じる蓮月の重みと体温が彼の平衡感覚を狂わせているのだ。
(落ち着け、霧祓祐市。たかが歩行だ。呼吸をするように自然に……)
念じれば念じるほど体は硬直する。
すれ違うモダンボーイたちは仕立ての良い背広を着こなし隣の女性と軽妙な会話を楽しんでいる。
彼らの洗練された姿と学生服に古めかしい外套を羽織り仏頂面で歩く自分。
ショーウィンドウのガラスに映った二人をちらり見て祐市の胸に暗い雲が広がった。
(やはり、俺のような無骨者は、こんな華やかな場所には似合わないのではないか)
彼は自分の手を見た。
剣ダコで硬くなり怪異の返り血を幾度も浴びてきた手。
祐市は平穏な銀座の光の中で自分の手だけが薄汚れているような錯覚に陥る。
蓮月は美しいく今日も輝くように愛らしい。
彼女の隣に立つべきはもっとスマートで彼女を笑顔にできる男なのではないか、そんな自虐的な思考が渦巻きかけたその時だった。
「あっ、兄さん! 見てください!」
蓮月が弾んだ声を上げ祐市の腕をぐいと引いた。
彼女が足を止めたのは大手百貨店の大きなショーウィンドウの前だった。
ガラスの向こうには色とりどりの洋服を着たマネキン人形が飾られている。
レースのあしらわれたワンピース、ビロードの帽子、エナメルの靴。
最新流行の西洋文化がそこには凝縮されていた。
「すごい。雑誌では見たことがありましたけど、実物はこんなに綺麗なんですね」
蓮月はガラスに張り付くようにして目をキラキラと輝かせていた。
その横顔には一点の曇りもない純粋な好奇心と喜びが溢れている。
怪異に怯える顔でも自分の宿命を憂う顔でもない。
年相応のただの少女の顔。
その光景を見た瞬間、祐市の胸に巣食っていた暗い雲が、音もなく霧散した。
(俺は、何を考えているんだ)
今、彼女は楽しんでいる。
その笑顔を曇らせているのは他ならぬ自分自身の迷いではないか。
俺が暗い顔をしていては彼女まで不安にさせてしまう。
(今日の任務はデートだと言われたはずだ。ならば完遂すべきは彼女を楽しませること。ただそれだけだ)
祐市は小さく息を吐き、凝り固まっていた肩の力を抜いた。
そして努めて穏やかな声を作って彼女に話しかけた。
「あれが、最先端洋装というやつか」
「はい。モガの人たちが着ているものです。私には少し派手すぎて似合わないかもしれませんけど」
蓮月が照れくさそうに振り返る。
祐市は首を横に振った。
「そんなことはない。お前なら、何を着ても似合うはずだ」
「えっ」
「……似合うと、思う」
言い切ってから恥ずかしくなり祐市はそっぽを向いた。
蓮月の顔がボッと赤くなる。
だが、その表情は先ほどよりもずっと嬉しそうに綻んでいた。
「……ありがとうございます」
蓮月は祐市の腕を抱きしめる力を少しだけ強めた。
「行きましょう、兄さん。あっちの建物も見てみたいです」
「ああ」
祐市の足取りから迷いは消えていた。
たとえ不器用でもスマートでなくとも。
彼女の隣で彼女と同じ景色を見て笑う。
今日はそれだけで十分だと彼は腹を括ったのだった。




