5.5-1
大正十八年、晩秋。
帝都の空は高く澄み渡り乾いた風が街路樹の枯葉をカサカサと鳴らしていた。
霧祓探偵事務所の窓からはやわらかな午後の日差しが差し込んでいる。
室内には重厚な古時計が時を刻む音とポン、ポンとリズミカルな音が響いていた。
執務机の傍らで祐市は愛刀の手入れをしていた。
打粉を刀身に打ち古い油を拭い取る。
その所作は洗練されており本来ならば張り詰めた空気が漂うはずの時間だ。
だが今日の祐市はどこか落ち着きがない。
その原因は数メートル離れた場所で書き物をしている蓮月にあった。
彼女は時折筆を止め祐市の方をちらちらと盗み見ているのだ。
その視線に気づくたび祐市の背筋にムズ痒い電流が走る。
「……蓮月。何か用か?」
祐市は刀身を見つめたまま努めて冷静に問いかけた。
すると蓮月は意を決したように口を開いた。
「あ、いえ。その……真剣な横顔が素敵だなと思って。……ゆ、祐市、さん」
消え入りそうな声で彼女は兄さんではなく彼の名を呼んだ。
許嫁となってからの彼女なりの歩み寄りの努力だ。
だがその破壊力は凄まじかった。
祐市は手元を狂わせた。
ポンと打粉が強く叩かれすぎてしまい白い粉がボフッと舞い上がる。
微粒子が祐市の顔にかかり彼は思わず咳き込んだ。
「けほっ、ごほっ」
「ああっ、だ、大丈夫ですか!?」
蓮月が慌てて立ち上がり手拭いを持って駆け寄ってくる。
「動かないでください粉が目に入りますから」
彼女は祐市の前に膝をつくとその顔を覗き込み手拭いで優しく頬や瞼を拭い始めた。
あまりにも近い。
祐市が目を開けるとすぐ目の前に蓮月の真剣な瞳と長い睫毛があった。
吐息がかかるほどの至近距離。
蓮月もまた、汚れを拭うことに夢中だった手がふと止まる。
「あ……」
彼女の手は祐市の頬に添えられたまま。
祐市の手も彼女を支えようとして腰のあたりで宙を彷徨っている。
完全に抱き合う寸前の体勢で二人は硬直していた。
「取れ、ましたか」
「あ、ああ。」
離れなければならない。
頭では分かっているのに互いの体温に縛られたように体が動かない。
ただ見つめ合うだけの時間が永遠のように流れる。
その様子を部屋の奥にあるソファから観察している人物がいた。
霧祓家当主代行、源蔵である。
彼は広げた新聞紙を握りつぶしながら盛大な溜息をついた。
(やれやれ……)
源蔵は天井を仰いだ。
名前を呼んだだけでむせ返り顔を拭くだけで石像のように固まる。
初々しいを通り越して見ているこちらが気恥ずかしさで爆発しそうだ。
(これでは、怪異と戦う前に二人の心臓が持たんわ)
源蔵はバサリと新聞を閉じ決意を込めて立ち上がった。
この不器用すぎる二人に必要なのは狭い事務所での睨み合いではない。
もっと開放的な場所での荒療治だ。
「ええい、じれったい。 見ておれんわ」
「お祖父様……?」
祐市が刀から手を離し困惑したように祖父を見る。
源蔵は深い溜息をつき二人の前に歩み寄った。
「二人ともそこに座りなさい」
源蔵は腕を組み二人を見下ろした。
祐市と蓮月はきょとんとして顔を見合わせた。
「よく聞きなさい。真の絆とは死線の中だけで結ばれるものではない。刀を置き、隣を歩き、同じ景色を見て、同じ飯を食らい、心を通わせる。その何でもない時間の積み重ねの中にこそ宿るものなのだ」
祐市は真剣な眼差しで腕を組み深く頷いた。
源蔵は懐から封筒を取り出しテーブルに置いた。
祐市が封筒を見る。
中から出てきたのは活動写真のチケットが二枚とそれなりの金額の紙幣だった。
「お祖父様、これは……」
「命令だ」
源蔵は二人を指差して宣言した。
「今すぐ着替えて外へ出ろ。行き先は銀座だ。その金で美味いものを食い、活動写真を見て、日が暮れるまで帰ってくるな。さあ、行け。仕事は禁止だ」
半ば追い出されるようにして二人は準備を始めることになった。
だがその表情には戸惑いと共に隠しきれない期待の色が浮かんでいた。
霧祓邸の玄関。
祖父の厳命から数十分後二人は外出の準備を整えていた。
蓮月は深い紫色の矢絣の着物に海老茶色の袴を合わせていた。
足元は編み上げのブーツ。
髪には以前祐市が贈った小さな飾り紐を結んでいる。
一方の祐市は普段の詰襟の学生服の上から厚手の外套を羽織っていた。
長身の彼が黒い外套をなびかせるとそれだけで俳優のような風格が漂う。
だがその表情は戦場に向かう兵士のように硬い。
「待たせたな」
祐市が玄関に現れる。
その姿を見た蓮月は微笑んだ。
「いいえ。兄さん、その外套、お似合いです」
「そうか? お前も……その、悪くない」
祐市は照れくさそうに視線を逸らす。
可愛いというたった四文字が喉に引っかかって出てこない。
「おーい。日が暮れてしまうわ。さっさと行かんか」
源蔵は二人を背中から押し出し強引に屋敷の外へと追い出した。
そして二人が振り返る間もなく玄関の扉をピシャリと閉めた。
ガチャリと鍵のかかる音が決定的な合図のように響く。
「追い出されてしまったな」
「ふふ、もう戻れませんね」
二人は顔を見合わせ苦笑した。
目の前には午後の日差しに輝く帝都の街が広がっている。
祐市は深呼吸を一つすると覚悟を決めたように言った。
「行くか」
刀のない腰元に若干の手持ち無沙汰を感じながら祐市は蓮月と共に歩き出した。




