5-2
蓮月は祐市に伝えるため事務所を飛び出し廊下にある電話へと走った。
彼女が廊下に置かれた花瓶の横を通り過ぎ壁に掛かった姿見の前を横切った、その瞬間。
誰も触れていないはずの水盤の水がまるで意志を持ったかのように跳ね上がった。
それと同時に蓮月が通り過ぎたはずの姿見の鏡面が水面のように歪む。
鏡の中からびしょ濡れの手が突き出し蓮月の腕を掴んだ。
びしょ濡れの白い手、爪が異様に長い。
その手がこちらに伸びてくる。
「きゃっ!」
氷のように冷たい濡れた感触が腕に張り付く。
鏡の方へ引っ張られる。
力が強く抗えない。
「いやっ!」
蓮月は叫ぶが手は離さない。
むしろ力が強まる。
地面すれすれの視点。
蓮月の足が床を滑る。
彼女の体が鏡に向かって引きずられていく。
鏡の中は暗闇、底知れぬ水の闇。
蓮月の顔が恐怖に歪み目が見開かれる。
唇が震え涙が頬を伝う。
「誰か」
声がかすれる。
「助けて」
蓮月を襲ったのは祐市が今まさに西園寺家で追っている怪異そのものだった。
怪異は西園寺家の水面と鏡を道にして霧祓邸の水面を経由し鏡から蓮月を襲撃したのだ。
「蓮月!」
蓮月の悲鳴を聞きつけ源蔵が駆けつける。
「馬鹿な、屋敷の結界が……いや、違う、道か!」
源蔵は即座に護符を投げ怪異の手を鏡に押し戻そうとする。
怪異は蓮月を鏡の中に引きずり込もうとし源蔵がそれを必死に防ぐ。
攻防の末、源蔵はなんとか護符の力で怪異の手を撃退し鏡面は一時的に平静を取り戻した。
「はぁっはあっ……」
蓮月は恐怖でその場に座り込む。
荒い息、震える体。
腕を見ると怪異が掴んだ部分が青く変色している。
彼女の祐市のお荷物になりたくないという願望は守られなければ即死だったという現実の前に打ち砕かれた。
蓮月は床に座り込んだまま、震える手を見つめた。
(私何もできなかった)
鏡に映る自分の顔。
恐怖に歪んだ情けない顔。
胸が締め付けられる。
(私は弱い)
涙が頬を伝う。
(兄さんの、お荷物だ)
源蔵は息を切らしながら厳しい顔で悟った。
(蓮月にとってはこの屋敷でさえも完全に安全とは言えない……)
彼は廊下の電話に向かった。
祐市は令嬢の部屋で完全に調査が行き詰まっていた。
床板を調べても何もなく、壁を叩いても何もないそして窓枠を検分しても何もない。
(隠し通路はない)
祐市は部屋の中央に立ち尽くした。
(蓮月なら……)
その名前が自然と口をついた。
「蓮月ならこの部屋を見て何か気づくのか……」
祐市は自分が蓮月を必要としていることに今更ながら気づいた。
その時部屋の外から西園寺家の使用人が慌てた様子で駆け込んできた。
「霧祓様! あなた様のお屋敷から緊急の電話でございます!」
祐市が廊下を走る。
視界が揺れる。
使用人が案内する書斎までの道のりがやけに長く感じる。
心臓が激しく跳ねる。
(屋敷に何かあったのか?)
祐市が書斎の電話の受話器を取る。
「もしもし! こちら霧祓祐市!」
相手は息を切らした祖父だった。
「祐市、今すぐ戻れ。蓮月が怪異にに襲われた!」
「なっ!?」
祐市の顔から血の気が引いた。
唇がわずかに震える。
妹が危険な目に遭うという最悪の恐怖が現実になった。
「蓮月の怪我は! 無事なのか!」
「私がが間一髪で防いだ。だが奴は道を通って屋敷のどこにでも出られる。私だけでは対処できん 」
「すぐに戻ります」
「分かった。待っている」
彼は蓮月と任務を天秤にかけ即座に決断した。
電話を切り、使用人に伝えた。
「申し訳ない。緊急事態だ。一度屋敷に戻る」
「なっ、依頼は……」
「必ず戻ります」
書斎の机の上には西園寺家の令嬢の写真が置かれている。
まだ若い少女の顔。
(本当にすまない……)
祐市はその写真から目を逸らした。
祐市が霧祓邸に駆け込んだ。
廊下には割れた花瓶と源蔵の護符でヒビの入った姿見が残っていた。
その瞬間。
祐市の霊力に反応したのか彼の背後玄関に置かれた花瓶の水が波立った。
屋敷の結界が道を使われ迂回され、家中の鏡、玄関の姿見、廊下の鏡、客間の鏡が一斉に水面のように歪む。
鏡という鏡から無数の手が溢れ出した。
祐市は刀を抜くが敵が多すぎる。
その時。
「兄さん!」
「待ちなさい! 蓮月!」
廊下の奥から蓮月の声。
駆けつけた蓮月と源蔵が祐市と背中合わせになる。
すべての手が三人に向かって殺到してくる。
祐市は刀を振るうが斬っても斬ってもキリがない。
「退くぞ! 」
源蔵が叫ぶ。
「あの部屋なら鏡はない!」
三人が走る。
背後から無数の手が追いかけてくる。
祐市が振り返りざまに刀を振るう。
数本の手が斬断される。
だがすぐに再生する。
「早く!」
源蔵が護符を投げる。
一時的に手の進行が止まる。
その隙に三人は部屋に飛び込んだ。
即座に襖に衝立を立てかけ、源蔵が護符を襖に貼り付ける。
即席のバリケードを築いた。
部屋の外から壁を物理的に叩く音が響き渡る。
三人は屋敷の中で鏡のないこの一部屋だけに追い詰められた。
「蓮月」
祐市は絶望的な状況の中蓮月に顔を向けた。
「すまない」
彼ははっきりと謝罪した。
「どうすれば奴を倒せる? お前の頭脳が必要だ」
蓮月は祐市の信頼の言葉に恐怖を振り切った。
「 奴の本体をこの霧祓邸におびき寄せるの」
「おびき寄せる?」
祐市は蓮月が自らが囮になろうとしていることに激しく動揺した。
「ダメだ! それだけはダメだ! お前を囮にできるわけがない!」
「 私は怪異にとって餌のようなもの。囮として最適だわ。私を信じて。兄さんが剣としてそばにいてくれるなら私はこの囮役をやり遂げる。私たちは二人で一つ、相棒でしょう?」
二人は覚悟を決める。
「……分かった。あいつには指一本だろうと触らせない。必ず守る」
その時、バリケードが大きく軋む。
「決まったか?」
源蔵が護符を構える。
二人は仏間を飛び出し玄関ホールへと駆け戻った。
「行け! 私が周囲の雑魚をおびき寄せる!」
源蔵が護符を放ち壁を築く。
蓮月は玄関ホールの中央あのヒビの入った姿見の前に立った。
彼女が前に立つとヒビの入った鏡面が再び水面のように歪み始めた。
鏡の中からこれまでとは違う巨大な本体のが蓮月に誘われ姿を現そうとする。
(今だ!)
蓮月を信じ隠れていた祐市が飛び出した。
姿を現した本体を刀で両断する。
「ギィィアアアッ!」
断末魔と共に本体が霧散しそれと同時に霧祓邸にあふれていた全ての手も塵となって消滅した。
祐市は刀を納めた。
蓮月はその場に崩れ落ちる。
祐市が急いで駆け寄る。
「蓮月!」
蓮月の顔が祐市の胸に埋まる。
祐市は蓮月の背中を抱きしめた。
「ありがとう、蓮月」
その声は優しかった。
そこに源蔵が現れた。
源蔵は二人を見て安堵の笑みを浮かべた。
「よくやった、二人とも」




