4-4
蓮月の意識が暗闇を突き抜けた。
落ちる感覚。
引き裂かれる感覚。
自分が自分でなくなっていく恐怖。
だが蓮月は目を閉じなかった。
そして彼女の足がある場所に降り立った。
ドロリと足元に冷たい泥の感触。
蓮月が顔を上げるとそこはあの場所だった。
赤い霧と狂った梵鐘の鳴り響く、丹霧村。
いや違う。
これは村ではない。
これは祐市の心の中。
祐市が5年間ずっと囚われ続けてきた絶望の記憶。
蓮月は朽ちた祠の泥の中 を見つめる。
(いた!)
あの日のままの7歳の姿の祐市の魂が泥の中にうずくまりゆっくりと沈んでいこうとしていた。
彼の体は半分以上泥に飲み込まれている。
顔は見えない。
ただ小さな背中が震えている。
彼の魂は力が足りなかったせいで守れなかったという絶望に囚われ底へと沈んでいる。
そして祐市の魂が沈むその底には元凶が巣食っていた。
彼の絶望を栄養にして肥大化した魂喰菌が脈打つドス黒い花となって祐市の魂を取り込もうとしている。
その核からは宿主の魂を食らった証として見事な黒百合が咲き誇っていた。
蓮月が駆け出そうとした。
だがその瞬間祐市の周囲からそれが現れた。
ドス黒い巨大な花。
祐市が沈む泥の底から這い出てきたおぞましい黒百合。
それは祐市の絶望を栄養にして肥大化した魂喰菌の本体だった。
無数の黒い蕾が祐市の周囲を取り囲んでいる。
そしてその中心最も大きな蕾が今まさに花開こうとしていた。
蓮月は息を呑んだ。
黒百合の核から無数の触手が伸びている。
それらは泥に沈む祐市の体に絡みつき彼を底へ底へと引きずり込んでいく。
(飲み込まれちゃう!)
蓮月が一歩踏み出そうとしたその時。
「だめだ」
か細い声が聞こえた。
祐市の声だった。
「俺は守れなかった」
泥に沈みながら7歳の祐市が呟く。
その声は自分自身を責める響きに満ちていた。
「あの化け物を目の前にして俺は何もできなかった」
祐市の小さな拳が泥の中で握りしめられる。
「ただ、立ち尽くすことしかできなかった」
言葉が苦しげに絞り出される。
「村人に殴られて泥の中に叩きつけられて」
祐市の体が震える。
「そして泣いた」
その声は自己嫌悪に染まっていた。
「惨めに泣きじゃくった。俺は、弱かった。でも父上は違った」
その声には憧れが混ざっていた。
「父上は一瞬であの化け物を祓った」
祐市の瞳にあの日の光景が蘇る。
「刀が閃いた瞬間すべてが終わっていた。父上は、強かった」
祐市の声が震える。
「俺も父上のようになりたい」
それは願いではなく強迫観念だった。
「父上みたいに強くなりたい。あんなふうに強く、誰かを守れるようになりたかった。でも」
祐市の声がかすれる。
「毎日、毎日、必死に鍛錬しても……」
言葉が苦しげに絞り出される。
「父上の背中は遠ざかるばかりだ。どれだけ刀を振っても……」
その手が震える。
「どれだけ型を真似ても、1歩も近づけない。俺には、才能がないんだ! 努力じゃ、埋まらない差がある。父上は、天才だ」
祐市の体がさらに深く沈む。
「俺は、凡人だ。でも、怪異は待ってくれない。今日も怪異を前にして俺は失敗した」
祐市の声が震える。
「父上なら、一瞬で祓っていたはずだ……」
比較が祐市を蝕む。
「俺は胞子を撒き散らした」
自己嫌悪が溢れ出す。
「父上に怒られた。『馬鹿者』って」
その声は悔しさに満ちていた。
「父上は俺を認めてくれない。もしまた蓮月が襲われたら」
祐市の体が激しく震える。
「もしまた守れなかったら。俺はまた無力なままなんだ! また泥の中で泣くだけなんだ! そして父上が来てすべてを解決する」
その声は自嘲に満ちていた。
妹との時間を重ねるほど、失うことへの恐怖が強くなっていく。
「俺はいつまでも子供のままだ」
諦めの声。
「何度も夢に見る。父上が斬り伏せた禍ノ御子の姿を。音がまだ耳から離れない、あの鐘の音、全部覚えてる。あの時の恐怖が今も、抜けない。蓮月にはもっと強い奴が必要だ。父上みたいな本物の、祓魔師が。俺じゃ、ない。どれだけ剣を振っても父上に届かない。届かないのに、目を逸らすこともできない。いつも背中ばかり見て……」
祐市の体がさらに深く沈んでいく。
蓮月の胸が締め付けられた。
この5年間、佑市はずっとあの日に囚われ続けていた。
彼が力に執着したのも父の真似ばかりしていたのもすべてあの日の絶望を克服しようと必死に足掻いていた証だった。
蓮月は祐市の魂に向かって叫んだ。
「違う! 兄さんは、無力じゃない! 兄さんのおかげで私はここにいる!」
蓮月は泥を蹴散らして走り出した。
魂喰菌の触手が蓮月に気づいた。
蓮月という真実、祐市は無力ではなかった証拠の介入に魂喰菌が気づく。
核から無数の黒い触手が伸び蓮月の魂を異物とみなし逆流、侵食を始めた。
無数の黒い触手が、一斉に蓮月に襲いかかった。
「ぐっ……!」
触手が蓮月の腕に巻き付く。
その瞬間激痛が走った。
魂が焼かれ侵食される。
これは肉体の痛みではない。
存在そのものを否定される絶対的な苦痛。
「あ……ぁ……」
蓮月の膝が折れそうになる。
だが彼女は止まらなかった。
「兄さん……!」
触手が蓮月の足に絡みつき激痛が全身を駆け巡る。
それでも蓮月は前に進んだ。
「兄さんのおかげで私は生きてるの!」
触手が蓮月の体を締め付ける。
呼吸ができないず視界が霞む。
それでも。
蓮月は自らの魂が侵食される激痛に耐えながら絶望の核に向かって手を突き刺した。
泥に沈んでいた祐市の体がわずかに震えた。
「蓮月?」
7歳の祐市が顔を上げる。
「どうして……」
蓮月は触手に締め付けられ血を吐きながら伝えた。
「だって……」
涙が頬を伝う。
「兄さんが連れ出してくれたから……」
蓮月の手が祐市にあと少しで届く距離まで伸びる。
「今度は、私が……」
だが魂喰菌は容赦しなかった。
最後の最大の触手が蓮月の胸を貫いた。
蓮月の体が宙に浮き魂が崩壊し始める。
もう限界だった。
蓮月の意識が途切れかける。
だが彼女は最後の力を振り絞り叫んだ。
「弱さを見せて、私に」
その声は祐市の心に響いた。
「強くなろ、一緒に……」
祐市の瞳に光が戻り始める。
「一人になんか……」
蓮月が魂喰菌の核に向かって手を突き刺した。
激痛が全身を焼き尽くす。
だが蓮月は止まらない。
彼女は核の奥深く絶望の底に沈む祐市の手をその小さな手で掴んだ。
「祐市!」
蓮月が祐市の名を呼ぶ。
「帰ってきて!」
その温もりが彼の魂に届いた。
泥に沈んでいた祐市の体が止まった。
彼を支配していた絶望が今ある感情によって上書きされようとしていた。
祐市は自分の手を掴む小さな手の温もりを感じた。
(蓮月が泣いている……)
それは5年前と同じだった。
あの時も蓮月は泣いていた。
あの時も自分は蓮月の手を握った。
だが今は違う。
今度は蓮月が自分の手を握っている。
自分を救おうとしている。
そのためにこんなにも苦しんでいる。
(だめだ)
祐市の心に別の感情が芽生えた。
(俺が守らなきゃいけないのに)
それはただ純粋な守りたいという意志。
そして、なにがあろうとどんな自分だろうとそばにいてくれる存在の心強さ。
その瞬間祐市の瞳が見開かれた。
「蓮月ッ!」
祐市が泥の底から叫んだ。
そして蓮月の手を力強く握り返した。
光が弾けた。
祐市の体が7歳の姿から12歳の姿へと変化する。
泥が消え絶望が消えていく。
祐市は立ち上がった。
そして魂喰菌の触手に絡め取られた蓮月をその腕で抱きしめた。
「ありがとう。もう、大丈夫だ」
祐市の声は穏やかだった。
その言葉と共に祐市の体から清浄な光が溢れ出した。
それは妹を守るという意志が生み出した祐市自身の力。
光が魂喰菌を焼き尽くす。
「ギィィィィアアアアア!」
魂喰菌が断末魔の叫びを上げた。
触手が崩壊し核が砕ける。
黒百合が散る。
苗床であった祐市の絶望が消えたことで魂喰菌は存在を維持できなくなった。
赤い霧が晴れていき狂った梵鐘の音が止む。
丹霧村の幻影が光に包まれて消えていく。
そして崩壊していく精神世界の中で。
祐市と蓮月はお互いの存在を確かめるように抱き合った。
「俺は君がいてくれて……本当に……」
言葉が続かない。
蓮月は祐市の胸に顔を埋めた。
「兄さん……」
涙が止まらない。
「独りで背負おうとしないで」
祐市は蓮月の髪を優しく撫でた。
「ああ。約束する」
崩壊していく精神世界の空の下、二つの小さな影が抱き合っていた。
赤い霧が風に散り黒い花が塵へと還る。
光が、すべてを包み込んだ。
現実世界、祐市の寝室。
彼の胸の上で物理的に咲き誇っていた黒百合の花がパラパラと塵になって消えていった。
静寂、時計の秒針だけが時を刻む。
祐市の心肺停止から2分50秒が経過。
あと10秒程で不可逆的な脳死に至る。
だがその瞬間。
祐市の寝室。
静寂。
時計の秒針だけが、時を刻む。
祐市の心肺停止から、2分50秒が経過。
1秒、2秒、3秒。
そして、ドクンと心臓が動いた。
「――ッ、ハァッ!」
祐市が止まっていた心臓を再起動させ空気を絞り出すように激しく息を吹き返した。
同時に祐市の上に倒れ込んでいた蓮月の体も小さく震えた。
「う……ぁ……」
蓮月がか細い声を漏らす。
二人とも生きている。
魂同調は成功した。
祐市はゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけ体が鉛のように重い。
だが確かに生きている。
そして佑市は自分の胸の上に小さな温もりがあることに気づいた。
「蓮月……?」
祐市がか細い声で呼びかける。
蓮月が顔を上げた。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
蓮月が祐市の胸に顔を埋めて泣き出した。
「よかった……よかった……!」
祐市は震える手で蓮月の頭を撫でた。
「ごめん……」
蓮月は首を振った。
「謝らないで……」
彼女は祐市の胸を小さな拳で叩いた。
「もう、もう、独りで背負いこまないで」
その言葉に祐市は静かに頷いた。
「ああ。約束するよ」
祐市は蓮月を優しく抱きしめ蓮月は祐市の腕の中で静かに泣き続けた。
朝日が障子から差し込んでいた。
長い夜がようやく明けた。
二人は生き延びた。
そして二人の絆はこの夜を境に決して壊れることのない対等なものへと変わった。
二人はお互いの温もりを確かめるようにそっとおでこを合わせる。
蓮月が消え入りそうな声で囁いた。
「お帰りなさい、祐市兄さん」
祐市は蓮月を抱きしめるようにしてその言葉に力強く頷いた。
「ああ、ただいま、蓮月」




